第21話 生きたい
「よしよし……また可愛がってやるからな。あいつに見つかる前に早く服を着ておけよ」
全ての工程が済んだあと、叔父一人が満足したようにニヤつきながらそう言いおいて彼は部屋を後にした。
散々に弄ばれ、こみ上げてくる吐き気と涙が止められない。
「……もう、嫌だ……」
ベッドの布団に顔を埋めて、アレアは肩を振るわせむせび泣く。
大きく開いていた窓からは、身も心もズタズタになった彼女に風が吹きつけた。揺れるカーテンの向こうには、鬱蒼とした森が広がっている。その森の茂みの奥に、キラリと光る双眼があった。それはゆっくりとした動きで近づいてくると、姿を現す。
『……ここにもまた一人』
表情一つ変えることがなくそう呟いたのは、かつてリガルナに声を掛けたあの銀狼だった。彼はゆっくりとアレアのいる寝室へと歩み寄り、そして軽々と窓を飛び越えた。
ふわりとした感触がアレアの素肌に触れると、彼女はビクッと体を震わせて涙に濡れた顔を上げる。
目線の合わないアレアを見ていた銀狼は目を細める。
『……ほう。お前は両の眼が見えぬのか』
銀狼の呟くように言った言葉が至近距離から聞こえたアレアは怯えの色を濃くする。
傍にあったシーツを無造作に手繰り寄せ、眉根を寄せながら口を開く。
「誰……?」
『お前にそれを言う必要などないだろう』
間髪を入れる事無く冷たく突き放すその言葉に、アレアはぐっと口を引き結んで言葉を飲み込む。そんな彼女の唇の端から滲み流れる血を見た銀狼は、すっと鼻先を近づけてそれを舐め取った。その時、アレアの鼻先に獣の匂いが掠める。そして触れている柔らかな毛並みを感じて、今目の前にいるのが何者かを想像すると、今自分を舐めたものが誰なのか想像できた。
「犬……? それとも、狼……?」
『死に急ぐ者よ。生きるとは実に辛く、苦しいものだな。しかし、死して一体何になる? 現世の呪縛から解き放たれ、自由の身になれると本気で思っているのか? 運命とはどうやら同じ位置づけに生まれ来るものらしい。今この場で命を絶つこともまたお前の人生。だが、また巡るお前と言う魂は、形は違えど、今と同じ道を辿る事になるのだろうな』
淡々とした口調で語るその言葉に、アレアは涙を流した。
「お願い、狼さん……。それでも構わないから、私を殺してください」
アレアは目を閉じ、目の前にいる銀狼に頭を下げた。
このまま窓を抜けて、森の中でさ迷い死ぬ事も可能かもしれない。しかし、そんな勇気も出ない。ならばいっそ、今目の前にいる銀狼に喉元を食い破ってもらったら……。
そう願い、アレアは自分を殺して欲しいと願い出たのだ。銀狼はそんな彼女を目を細めて見つめ返した。そしてフンと鼻を鳴らし顔を背けると、横目でアレアを見る。
『断る。ワシに何かを求める事は時に間違いではないのかもしれないが、今はその時ではないだろうな。なぜなら、お前の前にはまだ無限の可能性がいくつもある。選ぶ道は一つとは限らないだろう。お前には、まだ抗える力も道もあると言う事だ。本当に選ぶ道もなく八方塞になってしまったと言うのなら、ワシはお前のその望みを叶えてやろう。お前は人より想像する事に長けているようだ。よく考えてみろ、己の道を』
銀狼はそうとだけ言うと、颯爽とアレアの前から立ち去ってしまった。
一人部屋に残されたアレアは、目を閉じたまま泣いていた。
眼が見えない自分に選ぶ道などない。このままここで良いように使われて果てて死ぬだけだ。そんな運命しかないのなら既に今が八方塞というもの。助け出してくれるわけでもなく、殺してくれるわけでもない。こんな苦しい状況のまま放っておかれた事に、アレアは悲しくて泣き崩れた。
叔母は、2日置きにいつも決まった時間になると出かけていく。叔母の前では優しい夫である叔父の為に、酒やつまみを調達しに出かける為だった。彼女がいなくなるその隙間を見計らって、叔父がアレアの体を貪っているなど彼女には知る余地はまるでない。それだけ、夫の事を信じているからだ。
この日も、家を空けた叔母を送り出してからすぐに、叔父は何も問題を起こしていないアレアを「お仕置き」と称して寝室へ引きずりこみ、事におよんでいた。しかし、この日はいつもとは違っていた。街へ行く途中で財布を忘れたのに気がつき、家へ舞い戻ってきたのだ。
「まったくあたしとした事が、財布を忘れちまったよ」
ブツブツと一人ごちながら家に戻った叔母の耳に、夫の聞き慣れない奇妙な声が飛び込んでくる。
叔母は怪訝に眉根を寄せ、その声のする方へ足を向けると、ベッドにいるあられもない姿の夫とアレアが目に飛び込んできた。
「な、何やってんだいっ!!」
目の前の現実が信じられず目を剥いて、叔母は金切声のようにひきつった声を上げた。その声に気づき振り返った叔父は汗ばんだ赤い顔を一瞬で青くさせ、急いでアレアの上から飛び退くと明らかに見え透いた嘘と分かるような見苦しい言い訳をし始めた。
「ち、違う、俺じゃないぞ! こ、この小娘が誘ったんだっ!! あぁそうだ。俺は嫌だったんだが、こいつがどうしてもと言うから仕方なく……」
当然、そんな見苦しい言い訳がまかり通るはずもなく、怒りに打ち震え鬼のような形相を見せていた叔母は叫んだ。
「そんな事どっちだって同じだよっ! この下衆がっ!」
叔母は近くに落ちていた箒を拾い上げるとそれを振り回し、力一杯叔父を叩きつける。
その間にも体をベッドから引き上げ、洋服を手繰り寄せるようにアレアにも、当然のように叔母の攻撃が降り注いだ。
「このクソガキっ! お前、最初からそのつもりだったんだろう!? この泥棒ネコがっ! お前なんか死ねばいいんだ!」
激しい罵倒を繰り返しながら何度も箒の柄で叩きつけられ、みるみるうちに体中に蒼痣ができていく。やがて、衝撃に耐えられなくなった箒が二つに折れ、ささくれた柄だけが叔母の手に残る。叔母は肩で荒い息を吐きながら、その箒の柄をギュッと握り締めるとジリジリとアレアに近づいていく。
「そうさ……最初からお前なんかいらなかったんだ。どこぞの王国の兵士が、いちいちあたしらの居場所を暴き出してお前を押し付けて行きやがって……」
明らかな殺意を抱く叔母の存在に、アレアはこれまでにない恐怖に体を撃ち震わせた。
このままでは確実に殺される。そう察すると咄嗟に逃げ出したくなる。
あんなに死ぬ事を求めていたのに、いざ殺意を持って迫ってくる相手を前にすると「死にたくない」と言う思いが生まれた。
アレアは痛む自分の体をギュッと抱きしめ、目の前に立った叔母気配を無意識に探っていた。
叔母は手にした柄を握り直すと、それを大きく振りかぶりアレアに向かって思い切り振り下ろしてくる。
「……っ」
アレアは自分の勘を信じて転がるように横へ逃れたが、右腕に振り下ろされた柄の一部が深々と突き刺さって折れ、負傷した。
「逃げるんじゃないよっ! お前も、あんたも、今ここで死んでおしまいっ!」
叔母は血の滴る柄を握り締めて狂気の叫び声を上げる。叔父は自分だけは死にたくないと必死になって叔母に縋りつき、許しを乞おうと浅ましい姿を見せていた。
「ま、待ってくれ! お願いだ! 許してくれよ!」
「うるさいねっ! あんた達二人ともさっさと消えとくれっ!!」
追いかけてこようとした叔母の動きを叔父が封じた事で、アレアには逃げ出せるチャンスが来た。アレアは無我夢中で二人の傍を離れ、玄関のある方へともつれる足を必死に動かしながら感覚だけで駆け出した。
****
今、自分がどこへ向かっているのか分からない。ただ、少しでも遠くへ逃れる為だけに必死になって足を踏み出している。苦しいほどに荒い息を吐きながら歩いている内に、ガクンと突然膝が折れ、アレアはその場にドサリと倒れこんだ。
意識が朦朧とし、苦しい息を継ぎながらアレアは自分が倒れこんだ地面を探っていた。
柔らかな地面。カサカサと鳴る音。土の匂い。暖かさ……。
それらを確かめている内にアレアは気が付いた。自分は今、森の中にいるのだと。方向が分からないまま逃げ出してきた自分は、森の中にさ迷いこんでいたのだと分かると、虚ろだった目を閉じる。
このまま、死んでしまうのだろうか……。
霞む意識の向こうで、アレアはぼんやりとそう考えていた。
生きるために逃げ出したはずなのに、自分はここで息絶えてしまうのだろうか……?
『お前の前にはまだ無限の可能性がいくつもある。選ぶ道は一つとは限らないだろう』
数日前に現れた銀狼の言葉が頭を過ぎる。
あぁ、そうだ。偶然とは言え、その無限に広がる道の一つを選び取ったのは自分自身。生きたいと望んで選んだ道に今踏み出したばかりだ。だから、このまま命の火を消してしまいたくはない……。
そう感じながら、アレアは意識を失った。
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