第14話 他人から受けた初めての優しさ

 マリアと名乗った少女は心配そうに顔を覗き込み、手にしていた柔らかく良い香りのする濡れた布でリガルナの顔の汚れを拭い去ってくれている。


 優しく手当てをしてくれるその感覚が、リガルナには酷く懐かしくて遠い。


 落ち着かない心情だったが、次第に安心し始めその暖かさに目を閉じる。父が豹変してからずっと求めていた物。それがここにあった。決してこの状況に心を許しきってはいけないと訴える心もあったが、それでも今この時だけはこの優しさに満たされていたい。そう思うと無意識にもその目には涙が伝い落ちた。


 マリアは突如として涙するリガルナに驚き、瞬間的に手を引っ込める。


「ご、ごめんなさい。痛かったでしょうか?」

「……ううん。違う……」


 痛くはない。ただ懐かしさと暖かさに、心が満たされていくような気持ちだった。しかし次の瞬間閉じていた目を見開く。


 いや、この優しさに浸ってはいられない。いつこの人も自分を突き放すのか分からない。優しさに包まれれば包まれるほど、突き放された時の傷は深くなる。


 身をもってそれを知ったリガルナは勢いよく体を起き上がらせる。が、血が足りていない事もありすぐにクラッとめまいを感じ、ぐらつく頭を抱えて地面に手を付き俯いた。

 突然起き上がったリガルナに驚いていたマリアは、慌てふためいていた。


「そんな急に動いたら……」

「……君は、俺が怖くないの?」


 顔を押さえ俯いたまま、マリアの顔を見る事もなく呟くようにそう言うと、マリアはキョトンとした顔を浮かべてリガルナを見つめた。その視線はまるでリガルナの言う意味が分からないと、そう言っているようだ。


「怖い? なぜ?」

「え……」


 思いがけないその言葉に、リガルナは驚いた表情でこの時初めて真正面からマリアを見た。


 月明かりの下に煌く絹のようにしなやかな金髪。こちらを覗きこむように見つめ返してくる青い瞳は純粋で、何の穢れも知らなさそうだった。ほっそりとした面持ちで小首を傾げる彼女の姿は、思わず言葉を飲み込むほどに綺麗だった。


「だって、俺……」


 普通の人とは違うのに……。


 言葉がひっかかって出てこない。そんなリガルナの考えを察知してか、マリアはニッコリと微笑んだ。


「綺麗な赤い髪ですね。まるで夕日のようですわ」


 綺麗……? 彼女は本心でそんな事を言っているのだろうか。


 マリアはにこやかに微笑みながら周りの人間達が毛嫌いする自分の欠点を褒めた。他の誰も、恐怖するものの褒めてなどくれない。気味悪がられ、罵られる。

 彼女の言った言葉がリガルナには信じられなかった。彼女の言葉に疑問と疑いを抱かずにはいられないリガルナは視線を逸らし、力なく呟く。


「そんな事、言われたのは初めてだ……」

「え?」


 少しだけ機嫌悪くそう呟くと、マリアはただ不思議そうに小首を傾げてくる。

 嬉しいはずなのに、あまりに他の人とは違う反応をされると、次第に苛立ちさえ感じてきた。


「君だって知ってるだろう? この、細長い耳と赤が指す意味を……」


 困惑と苛立ちと、どこか泣き出しそうな表情を浮かべてリガルナがもう一度マリアを振り返ると、彼女は柔らかな笑みを浮かべたままゆっくりと頷いた。


「知っています。それらは魔を指すのですよね」

「じゃあ……」


 なぜそんなに優しくするんだ。そう言い掛けると、マリアは笑みを浮かべたままゆるゆると首を横に振った。


「他の皆がどう言っていようとも、私はそうは思いません。だって、あなたはあなたですもの」


 キッパリと言い切った言葉が、リガルナの胸にストンと落ちた。



 そうだ。自分はこう言って欲しかったんだ。



 そう思うと、ギュッと胸をつかまれたようで苦しくなってくる。


 泣き出しそうに顔を歪めるリガルナを見つめ、マリアは慰めるような笑みを浮かべながら、再びリガルナの顔の汚れを拭い出した。


「それに、赤って暖かいでしょう? 炎の色もそう。暖炉の中で燃える炎は赤だわ。松明やランプの中で燃える炎だって赤。よく晴れた日の夕日もとても綺麗な赤色をしている……。古来から続く伝承のせいで、今では緑や青い炎が良く使われているけれど、炎の色は赤であってこそだと私は思うんです。でも、多くの人は赤を気味悪がったりする。それでも私には、赤は暖かくて優しい色だと思えるんです」

「……」


 その言葉に、嘘も偽りもないように思えた。いや、そう思いたかった。長い間、今この瞬間に至るまで散々酷い目に遭って来たリガルナには、目の前にいるこの人が唯一自分の存在を認めてくれる貴重な人物だと言う事に違いなかった。


 リガルナは顔を俯け、口元を手で押さえこぼれでそうな嗚咽を我慢する。


「大丈夫?」


 肩を震わせ、声を殺して泣き出したリガルナにマリアは心底心配そうに声を掛けた。


「……今まで辛い思いをしてきたんですね」


 マリアは目の前でむせび泣くリガルナを見つめ、そっと腕を回すとそっと抱きしめた。その瞬間にピクリと体を震わせたリガルナだったが、拒絶されない温もりに包まれ溢れ出る涙を止められなかった。



 どれだけの時間、マリアに抱かれてこうして泣いていただろうか。泣き止むまでずっと背中をさすりながら抱きしめ続けてくれた彼女に感謝しつつ、リガルナはようやく落ち着き出した涙を拭った。


「……ごめん。ありが……」


 リガルナがマリアにそう言い掛けた時、突如としてリガルナの腹がキュウッ……と鳴いた。思わず言葉を飲み込んだリガルナは昨日から何も口にしていない事を思い出した。

 マリアはそっと手を外しながら驚いたような顔を浮かべていたが、すぐにくすくすと笑いその場に立ち上がる。


「お腹が空いているんですね。今何か持ってきますわ」

「え……」

「ここで待ってて下さい」


 ニコリと微笑みマリアはパタパタとその場から小走り気味に走り去った。

 残されたリガルナは、立ち去って行ったマリアをしばらく見つめていたが、一度小さく溜息を吐くと視線を地面に落とした。


 人の優しさに包まれてこんなに泣いたのは久し振りかもしれない。あんな風に接してくれる人もいるのだと思うと、心のどこかでホッとしたような嬉しいというむず痒い気持ちが湧き上がって来る。


 ふと、視界の端にマリアの置いて行ったケープを見つけそれを手に取る。甘くとても華やかな香りがするそのケープを見つめていると、胸がぎゅっと掴まれたような気持ちになった。

 今まで感じていたような苦しさとは違う。少しだけむず痒くて、決して嫌な苦しさじゃない。


「……」


 リガルナはそっと自分の胸に手を当ててそっと目を閉じた。


 この感覚はなんなのだろう。もう少し彼女と話をしたい。もう少し彼女の優しさに包まれていたい……。そんな感情がムクムクと湧きあがってくる。


「早く、戻ってこないかな……」


 無意識にも口をついて出た言葉。リガルナは彼女を見つけるために、彼女が立ち去って行った法へと視線を巡らせた。


 目前には広大な草原が広がり、数メートル先には小さな泉が湧いている。その向こうに夜の闇よりも黒い横一列の何かが見える。が、おそらくそれはこの王国を守る為の防壁か何かに違いないと思った。

 ぐるりと視線を右へずらすと、だいぶ離れた場所に建物が見えた。周りが暗くそれが何の建物であるのかは分からなかったが、リガルナは民家の一つだと思った。更に視線を横へずらすと茂みの向こうに壁が見える。それは高く上へと伸び、追いかけるようにリガルナの視線は上を向いた。そしてそこでハッとなる。


 ここは、まさかレグリアナ宮殿……?


 リガルナの表情は愕然としたまま、先ほどまでの浮き立った気持ちから一転、凍りついた。

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