第4話 赤き魔物、誕生の時

 ―――28年前……。


 肌に感じる風が、身を切るかと思われるほどに冷たく鋭さを秘めた冬の夜。

 ひっそりと静まり返るレグリアナ城下の大通りを一人の女性が吐く息も白く、肩にかけた茶色のケープをしっかりと胸元で握り締めて家路を急いでいた。


 その足取りは小走り気味にもなり、また時折早足で歩いたりと忙しない。頬と鼻は寒さに赤らみ、ケープを握る手が小刻みに震えている様を見れば、この日どれだけ寒いのか分かる。しかし女性の顔は嬉しさにほころび、この寒さを物ともしていないように見えた。


 レグリアナ王国のメインストリートとも呼べる、城を中心に東西南北に伸びた大通り。その南大通りから僅かに右にそれた路地に入ると彼女の家はすぐだった。

 小さなオルゴール工房。ここには彼女とその夫が夫婦二人で仲むつまじく暮らしている家だ。


「トーマス!」


 気持ちが急いてどうしようにももどかしく思いながら玄関のドアを勢いよく開くと、上部に取り付けられていたドアベルがカランカランと音を立てる。その音に待ち兼ねていたかのように、二階の自宅へと上がっていたトーマスは、明かりを灯してバタバタと慌しく階段を下りてくる。その表情は期待に満ちた顔だった。


「フローラ! 寒かっただろう? さ、早くこっちにおいで」


 ケープを取り外したフローラの肩を優しく抱きしめ、トーマスは彼女と共に二階へと上がっていく。そしてキッチンへ入ると、用意していた暖かなミルクをカップに注ぎ、フローラの前に差し出した。しかしフローラはカップを取ることもなく、トーマスを見つめながらテーブルに置かれていた彼の手をしっかりと握り締めた。


 自らもやや興奮状態を落ち着かせるように数回深呼吸を繰り返す。


「トーマス……、落ち着いて聞いてね」

「あ、あぁ……」


 フローラはあえて自分も落ち着かせるつもりでゆっくりと口を開いた。


「あのね……、赤ちゃん、出来てたわ!」

「やっぱり!」


 子供が授かった。その言葉が出るが早いか、トーマスとフローラはその場で力強く抱きしめ合い、とても一口には言い表せないほどの歓喜に湧いた。


 2人は結婚をして10年。最近はもう年齢的にも出産は難しいと諦め始めていたのだが、ようやく今になって念願の子供を授かることが出来たのだ。

 しばらくの間二人は共に抱きしめ合い、涙を流しながら笑い合った。


「諦めなくて良かった。本当に、本当に良かった……」


 フローラは自分のお腹に手を当てて、ポロポロと涙を流しながらそう呟く。そしてトーマスもまた、まだ膨らんでもいない彼女のお腹に声をかけた。


「君にとってもとっても逢いたかったよ。やっと僕たちのところへ来てくれたんだね。ありがとう……。ずっと待っていたんだ。だから、早く出ておいで」

「もう、トーマスったら。赤ちゃんに会えるのはまだまだ先よ」


 クスクスと笑うフローラに、トーマスも「そうだよな」と言いながら照れたように笑う。


 何事もなく無事に育ちますように……。そう願いを込めフローラとトーマスはお腹の我が子の成長を暖かく、優しく見守り続けていた。

 子供の為に暖かな靴下を編み、優しい歌を歌ってみせる。時には話しかけ、優しく撫でる。

 つわりに苦しんでも、子供の事を思えば乗り越えられた。厳しい食事制限も、何ら苦には感じられない。


「大きくなってね……私達の可愛い子」


 いつしか目立つようになってきたお腹に、2人は惜しみない愛情を降り注ぎ続けた。

 この世に生を受けて出てくるその瞬間に期待を膨らませて……。





 やがて更に月日は流れ、フローラは無事に臨月を迎えることが出来た。出産の日を迎え、フローラは押し寄せる強い陣痛に耐えながらも必死になって我が子の為に全てをかけ出産に臨む。


 いよいよ自分たちの子供をこの腕に抱きしめる事が出来ると思えば、頑張れた。そしてやがて、元気な産声を上げる玉のような男の子が誕生したのだ。


 全身全霊をかけて命を産み落としたフローラは、汗を流しながら顔を上気させ、ゆっくりと呼吸を整える。本当はぐったりとこのまま眠りにつきたい思いだったが、その前に我が子を腕に抱きしめたい気持ちの方が勝っていた。


「おいで。私の可愛い赤ちゃん……」


 綺麗に産湯で洗われ、真っ白いおくるみに包まれてベッドに横になっているフローラの傍らに寝かされた我が子を愛おしく思いながら、涙を滲ませてその顔を覗き見る。


 茶色の髪をした小さな我が子…掌は大人の掌のおよそ1/3ほどしかない。僅かに開いたその手に指を当てれば力強く握り返し、暖かく息づいている事が分かる。


「お疲れ様フローラ。本当に、ありがとう」


 頑張った妻に労いと感謝の言葉を捧げるトーマスも、微笑みながら涙を流していた。


「見て。あなたにそっくりよ」

「いや、君に似てる。特に目元なんかそっくりだ」

「……可愛い子。きっと何があっても守ってあげるからね」


 フローラとトーマスは、交互に我が子にキスを贈った。


                    

                   ****



「決めた。フローラ。この子の名前を決めたよ」


 子供が産まれて数日後。ベッドで授乳をしていたフローラの元に興奮気味のトーマスが駆け込んできた。そんな彼に対し、フローラは驚きに目を瞬きながら微笑みかけた。


「落ち着いて。もうすぐこの子が眠りそうなの」

「あ、あぁ、ごめん。つい……」


 トーマスは苦笑いを浮かべながら後ろ頭を掻いた。


「それで? どんな名前に決めたの?」

「あ、うん、そうだ。名前! リガルナ。リガルナだよ」


 トーマスは手にした紙をフローラに差し出す。そこにはリガルナとしっかりとした太字で書かれている。


「ふふ。仕事もしないでずっと名前、考えてたのね?」

「そりゃそうさ。いつまでも名無しじゃこの子が可哀想じゃないか。早く名前を決めてあげないと。だろ?」

「良い名前だと思うわ。リガルナ……。あなたは今日からリガルナよ」


 フローラはお腹が膨れて眠ってしまった我が子の頬をそっと撫でながら、ようやく決まった名前で呼んでみた。


「リガルナ。元気で健やかに、大きくなってね」


 スヤスヤと穏やかな寝息を立てて眠るリガルナに、2人は幸せを命一杯感じていた。

 やがて、リガルナはその後病気をほとんどする事もなく順調にすくすくと育ち、思いやりのある優しい息子として成長をしていった。


 何もかもが順調。これ以上の幸せなど、どこにもあるはずがない。……そう、思っていた。


 リガルナが10歳の誕生日を迎えたこの日、彼の微妙な異変にフローラは気が付く。特別気にしなければ気にはならないであろう事だったのだが、この時のフローラには異様に気になるものだった。


 工房の裏にある庭で、元気に駆け回るリガルナ。生まれた時から変わらない明るい茶色の髪が違う色に見えて、思わず目を擦る。


「……? 陽の光のせい……かしら」


 フローラは眉根を寄せて楽しげに蝶々を追い掛け回しているリガルナを、目を細めて見つめた。

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