ニンフの散歩

のらきじ

ニンフの散歩

 一日中落穂ひろいをするぐらいなら適当に男引っ掛けて美味しいもの食べさせてもらったほうがいいんじゃない?

 と考えた私は貧乏小作な家を飛び出してペティキュアの街で娼婦になろうとしたのだが、客を取るどころか最初の「馴らし」のおっさんの息を肺の奥深くまで吹きこまれた瞬間に気が遠くなり、あぁ自分には無理だと悟った。必死で機嫌のよい素振りをしながらなんだか一番偉そうにしている年増の娼婦に取りいって、なるだけ接触の少ないやり方を教えてもらおうとすると苦笑された。

 でもさすがは年増だけあって的を得た答えをくれた。

「ちゃっちゃと終わらせりゃいいんだよ」

 真理そのいち。

「速い客は褒めて常連になってもらいな。遅い客には嫌われてなんぼだよ」

 真理そのに。

「犬を飼って不潔に慣れな」

 真理そのさん。

「犬って飼えるんですか?」

「うまく頼めばね」と年増は床に寝そべってストレッチをしながら言う。

「犬の散歩は顔見せになるのさ。まあ、あのお嬢さんは何処の家のお方? なんだ、パミラのとこの売女かい。売女の分際で昼間っから街を歩くなんて頭おかしいんじゃないのかい」

「……うへー」

「でも男にゃ大人気さ。おたかくとまった女ほどウケるんだ」

「乱暴にされたりしません?」

「そこらへんの加減は経験だね」

「猫じゃダメですかね」

「猫じゃあダメだね」

「うーん」

 私は悩む振りをしながら、ひょっとしたら散歩の間に何処かに逃げられるかもと思った。年増の口調もなんとなくそんな風に感じた。――逃げて捕まって死ぬか捕まらないで野垂れ死ぬかすりゃいいだろう。ここに居るとあと二十年は客を取らされて、それから追い出されるはめになる。

 ダメ元で店主のじじいに頼んでみると、なんと犬を飼うのを認めてもらえた。あんまりすんなりニヤニヤと認められてしまったので、これは年増が年増になる前からあるような新入りの慣例(顔見世興行)なのかなと感づいた。年増の他には話したい人がいなかったので、確かめることはできなかった。香薬中毒になってるのはまだマシな方で、しらふに近い人ほど目つきも口も悪かった。

 犬は三日もしないうちに私の部屋にやってきた。小さくて脚が短く、ずんぐりむっくりしているが、色は綺麗な灰色だった。灰色だけどちょっぴり光ってるのだ。

 一人で散歩に出すと犬も女も逃げるかもしれない、というわけで、散歩には小間使いのアレイがついてくることになった。アレイは少し年下の痩せっぽちの少年で、何か物を頼むと面倒くさがりも嬉しがりもせずに言われたことをやる、無抵抗な性格をしていた。目を合わせるのは嫌いらしく、いつも床ばかり見ていたが、極端に性格が暗いわけではない。「そんなに床ばかり見て、何か落ちてるの?」と尋ねると、「何か落ちてたら怒られるから見てるんだ」と答えるぐらいのウィットがあった。

 その程度のウィットでも貴重なものなのだ。私はそれを失わないために香薬には手を出さないように誓いを立てている。


 てっきり「娼婦が歩いています」というような服を着させられるのかと思えば、町娘風の丈の長いスカートを用意されたので驚いた。頭には可愛らしい頭巾を被らされ、足には飾り気のない木靴を履いて。町娘風どころか町娘そのものだ。

「これじゃ宣伝になりませんよ」とスカートを広げながら言うと、

「色気で売るにゃ早いからなぁ。何処にでもいる娘ですってのも売りになるんだよ」と店主のじじいがニヤニヤしながら言った。こいつの口元が引き締まったところを見たことがない。

「ほんとに? だったら娼婦なんていらないわ」

「バカだねぇ。娼婦が普通のかっこするからいいんだろうが。なに、アレイはここらじゃちょっとした有名人でね。アレイの隣で歩いてりゃ、お前さんが娼婦だってことは一目瞭然だ。看板しょって歩いてるようなもんさ」

「有名なの?」とアレイに尋ねると、

「まあね」と罰が悪そうに言った。

 犬に首輪と紐をつけて街に出る。秋風が吹く日はとてもさびしい街に思える。石畳の道は蜘蛛の巣みたいに広がっていて、馬車が通るたびに距離と方角の違いでいろんな走行音が聞こえてくる。道の脇についてある溝はなんとフタ付きで、チーズのような腐臭は村よりもずいぶんマシだ。

「ねえ信じられる? フタを付けようともしない田舎もこの世にはあるのよ」

「そうなんだ」

 行先は犬に任せて歩いていくと、さっそく人目を感じる。通りを二つ過ぎた頃には、この世には陰険な女と臭い男しかいないのかと思えてくる。暇な若いのがアレイを「玉なし玉なし」と冷やかしては私のあちこちをぺたぺた触っていく。アレイは特に何も言わない。下を向いているだけだ。

 犬が溝に小便をしようとするので、慌ててアレイに紐を譲った。服に飛沫が跳ぶのが嫌だった。

「不潔に慣れるのが目的なんじゃないの?」アレイはぼんやりとした口調で、独り言のように言う。

「いいのよ。ゆっくり慣れるわ」

 ゆっくり? 冗談じゃない。

 逃げる計画を立てないといけない。急に頭が切り替わった。

 円形の街は高い城壁に囲まれている。四方に大道が通っていて兵士がいつも詰めているらしい。

 来る時は「田舎から親戚を頼って娼婦になりにきました」で通ることができた。兵士は冷やかしもせずに、こいついつ死ぬんだろうなぁと病気の犬を憐れむような目つきで見送ってくれたが、出る時も同じように行くだろうか。

 犬は機嫌よく街の中心に向かって歩いていく。中心には議事堂とフォサリア講堂と宮殿がある。昔は大層綺羅びやかだったそうだが、私が生まれる十年ほど前に戦争に負けたせいでボロっちい。今の城主は三十歳ぐらいのよその国から来た男で、有能かつ強権的なのだそうだ。あらゆるギルドを解散させる代わりにギルドが中抜きしていた税をどーたらかーたら。どの客もちょっと頭の良いところを見せようと彼のことを褒めたり貶したり、うんざりするほど寝物語によく出てくるので、なんとなく他人の気がしない。白状すると、私は今城主さまと寝ているのだという妄想は香薬の代わりに心を安らげてくれている。

「これが初恋ね」

「え、何って?」

 アレイは犬のより汚い方の始末をしながら器用に合いの手を入れてくる。

「初恋が見も知らぬ城主さまでよかったって言ってるの。何処かのおっさんに心まで奪われちゃたまったもんじゃないわ」

「……ねえ」

「なに?」

「なんで娼婦になろうと思ったの?」アレイは珍しく片眉をひそめている。

「なんでって、他に思いつかなかったからよ」

 すっきりした犬が歩き出すのに付き合いながら、なんでアレイはそんなこと訊くんだろうと考える。

「私の家は小作農でね。それもかなり畑の小さな小作農で。その上父親が偏屈なの。なんでか知らないけど誇り高くて、地主のじじいに頭を下げたくなさそうにするの」

「地主を嫌ってたら、生活できなさそうだね」アレイは納得したようにいつものぼんやりした目つきに戻る。

「でしょう。しかもね、下げたくなさそうな素振りをしても、結局下げるのよ。嫌そうに。バカでしょう」

「うーん」アレイは君も大概嫌そうにしているじゃないかと言いたげに犬に目線をやった。

「そんなこと思ってないったら」

「あらそう? 嫌なのはほんとだから、べつにいいわよ。ともかく私の家は村八分で、私も全然モテなかったの。私と口を利いたら翌日には村の恥よ。で、孤独に落穂拾ってたある日ふと思ったの」

 向こうからやってくる馬車に道を譲ってから、私は言った。

「男が欲しい」

 渾身のネタが決まって、アレイはけっこうなバカ笑いをした。私も釣られて笑ってしまうぐらいだった。

「それ、お客に言ったことある?」

「鉄板ね。笑わない男は一人もいなかったわ」

「うん、そうか……」

 アレイは脇道にそれたがる犬の紐を引っ張った。


 宮殿の敷地はぐるりと塀に囲われていて、中の様子は窺い知れない。門番の兵士が嫌味な顔でこちらを見てくるので、そろそろ初恋を諦めようかと思った頃。

 また若い男連中がやってきて「玉なし玉なし」と囃し立てたが、門番が遠くから睨みをきかせているおかげで私は触られずに済んだ。

「なんでどいつもこいつも、バカの一つ覚えみたいに「玉なし」なの?」

「そりゃ、本当に玉なしだからだよ」とアレイは答えた。

「……ないんだ」

 視覚的な興味がわいた。ちょっと潰してみたいなと魔が差したことなら何度もあったが、そのたびに潰れた姿が気持ち悪いなと思って諦めたのだ。

「ないんだよ」

 しばらく歩くとアレイはポツポツと話し始めた。

「僕には年の離れた兄がいてね。兵隊だったけど、捕虜になってずいぶんひどい目に合わされたらしいんだ。普段は優しい人なんだけど、ちょっとでも怒りとか痛みとかが混ざると、ものすごく凶暴になるんだよ」

「お兄さんに?」

 私は半笑いになりかけて、引き締め直した。

「正業のはっきりしない家で、僕は物心ついた時から靴磨きや溝掃除をやっていた。ある日溝をさらっていたら綺麗なペンが落ちているのを見つけてね。羽の生えた妖精の絵が器用に描かれていたんだ。僕はそれが欲しいと思った」

「そのペンをめぐって争いになったの?」

「そうだね」

「子供っぽいお兄さんね」

「そうでもない」とアレイは首を振った。

「もしそれがペンじゃなくて金貨だったらどうする。お前はそれでも家に入れずに懐にしまうのか、というのが兄の言い分だった」

「え?」しまうでしょう、そりゃ。

「軍では略奪した物品をいったん集めてから均等に分配するのが規則になっているんだ。兄さんはその規則を家に持ち込んだんだよ」

「……それで、その、ネコババの罰に?」

「本気で蹴り上げたんだ」

 犬が脇道にそれてしまったが、アレイは止めようとしなかった。もう少し話したいのだろう。私だってもっと聞きたい。

「記憶にないんだけど、僕はのたうち回って泡を吹いて、医者に担ぎ込まれた時には破けた袋から転がり落ちていたんだそうだよ」

 アレイは深くため息をついた。

「また中に入れて縫い直しちゃうとか」空気を和ませたくてくだらない合いの手を入れる。

「その上縫われでもしたら死んでいた自信があるね」とアレイは口元を緩ませた。

「見た感じ健康そうよ? 痩せっぽちだけど」

「戦争では時たまあることらしいよ。性器をひどく傷付けられた子どもは男女問わず大人にならないんだそうだ。兄はそう言って慰めてくれた」

 あんまりひどい顛末にため息が出た。心が暗くなる。あらゆるひどい男のことは他人ごとではないのだ。いつか客になるかもしれないのだから。

「そのお兄さんまだ街にいるの?」

「いいや。もう死んでるよ」

「あら、なんだそうなの。ご病気?」

「僕が殺したんだ」

 ――あぁ。

 私は自分よりもかわいそうだと思える人間に初めて出会った気がした。

「そうなの……。それであなた、街中で有名なのね」

「そういうことなんだ」


 次の日も晴れていたので、同じように散歩に出た。

 アレイは出会った時から顔を赤らめていた。私に過去を話したのを後悔しているらしい。

「ごめんよ……。なんで話してしまったんだろう。意味が分からない」

「どうせ、そのうち分かることよ。店長のじじいの鉄板ネタなんでしょう?」

「鉄板というより、看板として雇われてるんだ」アレイは紐の先の犬を目で追いかけながら、少し早足で歩いていく。

「せっかくだから、私が納得行くまで聞かせてもらおうかしら。人を殺したのに牢屋に入ってないのはどうして?」

「それはつまり、敵討ちと同じだとみなされたんだ」

「あぁ、息子のね」笑っていいところかと思いきやマジらしい。

「経緯が経緯だけにやたら傍聴人の多い裁判になったんだよ。その評判目当てにいい弁護士がタダで弁護をしてくれてね」

「その弁護士が考えだしたネタなの? 息子の敵討ち」

「効き目は抜群だった」とアレイは頷く。「城主様まで笑っていたな」

「会ったことあるの?」私の初恋が思いもかけないところで飛沫をかけられようとしている。

「無罪にしてくれたのは、最終的には彼だ」とアレイは答えた。

 私はかなり迷って、迷っているうちにまた宮殿の前にたどり着いてしまったが、思い切って聞いてみることにした。

「かっこよかった?」

「かっこよかった」とアレイは頷く。「というのが義理だろうね」

「なにそれ」

 深く考えたくなくなった。

「まあいいわ。事情が分かってすっきりよ。あなたは無罪になったけど、家にいられるはずもなくて看板になったのね」

「女に手を出さない無害な使用人でもある」

 アレイは座って犬を撫でながら言った。「君に誘惑されることもない」

「逃げる時には蹴っ飛ばすしかなさそうね」

「急所もないぜ」

「……便利ね」

 まさに娼婦の監視にうってつけの人材だった。これは手強い。

「――逃げるより、ゆっくりお金を貯めることだよ」とアレクは立ち上がって言った。

「自分を可哀想だと思ったら、僕のことを思い出してよ」


 ――そう、か。

 この散歩も、今までの会話も。

 生意気な小娘を納得させるための方便、でもあったのだなと私は理解した。

 生きていくというのは、こんなにも大変なことなのだろうか。

 恥も傷も心も全部「仕組み」として使わないと、生きてはいけないものだろうか。

 ――初めて、ほんの少しだけ。感情を仕組みに組み込もうとしない父のことが誇らしく思えた。

 やっぱりバカだとは思うけれど。


「あなたは妖精みたいなものね」

「妖精?」

「大人になれないんでしょう? ずっと子どもでいるのは妖精だけよ」

「妖精……」

 アレイにはピンと来ないらしかった。犬に引かれるままに、また歩き出す。

「私も妖精の家に生まれたようなものだし、なんだかちょっとだけ、怖くなくなったわ。何年経ってもずっと子どものままでいれば、何年経っても怖くないかもしれないもの」

「……そうかな」

「絶対にそうよ、妖精さん。いつか二人で、ううん、近所の妖精たちも引き連れて、この憂鬱な城を出ましょう。子どもは軍規を守ることもないし、子どもを作らなくてもいいのよ」

「めちゃくちゃだ」とアレイは小声で言う。「娼婦にこんなこと言うのはなんだけど、子どもが作れる人は作ったほうがいいに決まってるよ」

「作りたくなったら、一晩男を買えばいいんでしょう?」

 振り向いたアレイは、らしくもなく、素で驚いているようだった。


「なに立ち止まってるの? さっさと犬連れて歩きなさいな」


 たぶん、逃げ切れるだろう。

 下を向いて歩く猫背と元気な犬を見つめながら、わけもなく、そんな気がした。



 二十年後。

 優秀な城主が死んだ翌日。ペティキュアの街から子どもたちがいなくなっていることに大人たちは気づいた。

 慌てて街の中も外も探したが、一人も見つけることはできず、途方に暮れた。

 一方で、年増の娼婦とくたびれた使用人が消えたことにはほとんど誰も気づかなかった。

 年老いた宮殿の門番だけが、犬の散歩にやって来ないことを訝しんでいたのだという。


三題噺「水、妖精、憂鬱な城」了

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ニンフの散歩 のらきじ @torakijiA

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