映る世界

三角海域

第1話

 随分前の話だけれど、僕には友人がいた。

 今でも友人と呼べる人はいるのだけど、それでも彼は特別で、友達だとか親友だとか、そういうカテゴリーではなく、友人だったと思う。友達という言葉ほど馴れ馴れしくなく、親友と言うほど親密さもない距離感。それが彼との関係だった。

 当時彼は小説家を目指していて、安アパートにこもりひたすらに小説を書き続けていた。大学入学のために東京に出てきたらしいが、入学と同時に大学には行かなくなったらしい。

 彼は大学に通い続けていると信じている親の仕送りを使って生活しながら、ただただひたすらに小説を書き続けていた。

「君はなぜそこまでして小説を書き続けているんだい?」

 冷たい風が窓の隙間から流れ込むあの暗い部屋で、僕は机に向かう彼の背中にそう問うたことがある。

「分からないからさ」

 彼はそう答えた。

「どういう意味だい?」

「言葉そのままの意味だよ。僕はある時小説を書かなくてはいけないと感じたんだ。高尚な文学論だとか特定ジャンルへの情熱だとか、そういうのとは無縁なんだ。ただ湧き上がってきた感情のままに僕は原稿用紙を箱一杯に買い込んで、横浜の文具店で万年筆を買った。僕にもよく分からないんだ。どうしてこんなに小説を書くことに溺れているのか」

 彼はそれだけ言うと、もう何も語らなかった。

 僕は彼が万年筆を走らせている音を聞きながらぼんやりと夜まで彼の部屋で過ごし、七時をまわったあたりで何も言わずに部屋を出た。

 それが僕と彼の繋がりだ。

 話が前後するのだけど、彼と出会った時のことを語ろう。

 彼と出会ったのは、ある飲み会の席だった。

 当時僕は大学で文芸サークルに所属しており、よくサークル仲間と共に文芸に関心のある人間が集まる酒場に出かけていた。

 雨の夜だったと思う。コートに着いた雨粒を払い、僕はカウンター席に座った。電車が遅れているらしく、サークル仲間は三十分ほど到着が遅くなるとのことだった。

 僕はウイスキーを注文し、ちびちびちとなめていた。

 かすれた声が奥の席から聞こえた。最も壁に近い席だ。

 彼は壁に頭をもたせかけ、古い歌を口ずさんでいた。

 なぜか僕は彼に惹きつけられた。よれよれの服と、うっすらと青みがかった髭。そして、古い歌を口ずさむかすれた声。そうしたどこか文学じみた姿に魅力を感じたのかもしれない。

 僕は彼の隣に移動し、声をかけた。

「こんばんは」

 彼はこちらをちらっと見て、笑顔を見せた。無邪気な少年のような綺麗な笑顔だった。皮肉を口元に浮かべていそうな顔をしているが、話してみると彼は僕よりも年下の純粋で真っすぐな男だった(誤解されそうな言い方だけども、親をだまして仕送りをもらっているというのもある意味では純粋であると思う)。

 なんてことのない話をしていると、あっという間に時間が過ぎ、間もなくサークル仲間たちが店にやってくるという。

「店を変えませんか?」

 僕がそう言うと、彼は笑顔で頷いた。

 サークル仲間に急用ができたので先に帰ると連絡を入れ、僕らは店を出て、朝まで飲み明かした。

 何度かそうした酒を飲みかわし、いつしか彼の家に通うようになった。

 彼は親しくなればなるほど口数が減った。僕から話しかけない限りは彼は何も言わずに小説を書き続けていた。でも、僕はそんな時間が嫌いでなかったし、意味もなく衝動に身を任せ物を書き続ける彼の姿に憧れを抱いてすらいた。


 彼と知り合い、それなりの時間が過ぎ、僕は社会人になった。

 彼は変わらず小説を書き続けていた。部屋の中を埋め尽くす原稿用紙の束の中、より暗くなった部屋で彼はひたすらに筆を進める。今彼が書いているものが続き物なのか単発なのか僕は知らなかった。何を書いているのかと訊いてみても、書く理由と一緒で彼は分からないと答えた。続き物のようにも感じるし、単発だとも思う。自分の感情と地続きなのは分かるのだけど、やはりこれがどういった物語なのかは分からないのだと。

 もうすぐ、彼が小説を書き始めて四年が経つ。

 親からの仕送りも止まってしまうのではないか。大丈夫なのかと僕は彼に訊いてみたりもしたが、彼は出会ったころと変わらぬ無邪気な笑みを見せるだけで、何も言わなかった。

 ある時、珍しく彼の方から話題を振ってきたことがあった。

「朱川史郎という作家を知っているかい?」

「ああ。そのジャンルの中じゃ特に有名だからね。かといって、よく知っているわけじゃないけど」

 朱川史郎は昭和期に活躍した幻想怪奇物を得意とするシナリオライターだ。ある時、特撮系に強かったプロダクションに朱川は持ち込みをした。本来なら突き返されるなりはぐらかされそうなものだが、ちょうどその頃ネタも出尽くしたと考えていたそのプロダクションは、たいした期待を向けずになんとなくその原稿を読んでみることにしたという。それが朱川のデビューのきっかけとなった。

 朱川の描く幻想怪奇はシナリオの段階で独特の美を思わせる世界観であり、これなら特撮を活かしたドラマ作りができるとプロダクションが興味を示したのだ。

 そうして始まったドラマは高い評価を受けたが、最終話を書き上げた後、朱川は脚本家を引退した。その後、名だけは残ったが、彼がどこに行ったのかは分からないという。

「引退した後、彼は一冊の本を書きあげた。それは知ってるかい?」

「出したということは知ってる。ただ、なぜか語られることがないな」

「それはきっと、あの本そのものが朱川史郎の作品だからだよ」

「どういうことだい?」

「彼の書いた小説そのものが、朱川史郎の描き出す幻想怪奇そのものだったということさ」

「つまり、出版されたということ自体が嘘だと?」

「そういうことじゃない。つまり、あの小説は、彼と同じ世界を持った人間にしか感じ取れないんだよ」

「まさか」

「おかしいと思うかい? でもね、僕にはそう思えてならないんだよ。実はね、小さい頃に僕はその小説を読んだことがあるんだ」

「え?」

「親戚に旅好きなおじさんがいてね。その人が旅先でたまたま手に入れたらしいんだ。でも、内容はまったく覚えていない。まだ小さかったから理解ができなかったのかもしれない。しかし、不思議とはっきりと覚えていることもあるんだ」

 僕は話の続きを待った。彼は目を閉じ、息を吐きだすように、続きを語りだした。

「ひとつは、本のタイトルが結露の向こうだということ。おじさんに読み方を訊いたことも覚えている。もうひとつは、前書き」

「前書き?」

 彼は机の上に積まれた原稿用紙の間から、一枚の紙を取り出し、僕に差し出した。

「これはその時僕が書き写したものだ」

「凄いじゃないか。マニアが羨ましがるぞ」

「これが確実に朱川史郎の前書きの抜粋とは言い切れないから、意味がないんじゃないかな。僕はこれが結露の向こうの前書きだと信じているけどね」

 僕は紙に書かれた拙い字に目を走らせる。

『この短編集は私が結露の向こうにみた世界をそのまま文章にしたものである。私の部屋の真正面には街灯があり、冬場結露がついた窓にその光があたると、光が拡散して窓がスクリーンのようになる。そこに映し出される世界の中に私の意識が入り込み、不思議な体験をすることがある。これはそれらをまとめたものだ』

 紙にはそう書いてあった。

「幻想作家らしい言葉だ」

「そうだね。だけど、僕はこれが真実なんだと思ってるんだ。朱川史郎は、僕らが知らない世界を体験していたのさ。僕のこの書くことへの欲求の答えも、その世界に行ければ少しは見えてくるんじゃないかと思っている」

「君は、結露に映る世界に行きたいのかい?」

 彼は今まで見せたことのないような強い決意の色をその目に宿しながら、力強く頷いた。

 そうして、時刻が七時となる。僕は立ち上がり、そろそろ帰ると彼に言った。

「来週の土日にまた来るよ」

 いつも通り僕が部屋を出ていこうとすると、彼も立ち上がった。

「見送るよ」

 彼がそんなことを言うのは、長い付き合いの中で初めてのことだった。

「大丈夫だよ。それに、外は雨だし」

「いいんだ。たまには見送らせてくれ。それに、僕は雨のにおいもその涼しさも嫌いじゃないんだ」

 僕と彼は連れ立って部屋を出た。

「それじゃ、また来週」

「ああ」

 短い別れの言葉を交わし、僕らは別れた。

 背を向けて歩き出すと、何故だか不安になった。朱川史郎の話が頭の中に残っている。

 僕は振り返ってみた。彼はまだそこに立っており、僕に手を振った。再び背を向け歩き出す。不安は消えていなかった。もう一度振り返って見る。彼はまだそこにいたが、僕の方をみてはいなかった。足元をじっと、それも明るい顔で見つめている。

 水たまりをみているらしかった。

 僕はその彼の姿を見た時、もう会えないかもしれないと感じた。

 その水たまりは、街灯に照らされていたからだ。

 僕は少しだけその場にとどまった。もしかしたら、彼がこちらを見てくれるかもしれないと思ったからだ。だが、彼は顔をあげることはなかった。

 僕はその場を後にし、部屋に帰ってから彼に電話をかけてみた。

 コールが響くだけで、彼は電話に出ることはなかった。

 それ以来、彼とは会っていない。

 彼は、消えてしまった。

 部屋の中に原稿用紙の束を残したまま、突然に。

 


 長い時間が過ぎたあとも、時々考えることがある。本当に彼は朱川史郎が見たという世界をあの時見つけ、そこに行ってしまったのだろうかと。朱川が結露の向こうに違う世界を見つけた様に、彼もまたあの水たまりの中に違う世界を見たのだろうかと。

 彼と出会った日も、別れた日も雨だった。雨がもたらした出会いと別れは、今でも僕の中に強く残り続けている。

 仕事からの帰り道、時々水たまりを覗き込むことがある。街灯に照らされ、水面に映るの月のような、光を吸収した水たまりを。

 いつか、その向こうに彼のあの無邪気な笑顔を見つけられたら、ひとつだけ訊きたいことがある。

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