第10話彼岸まで

 夏とはいえ、山頂は寒い。

 僕は妻と息子に会うことを願い、やっとの思いで恐れ山に辿り着いた。

 硫黄の刺激臭が鼻をついた。

 「三途の川は天の川だ。賽の河原は天の川に沿いに広がる河原だ」

 雲の一つない暗い星空を指さしながら、恐山のイタコは静かに言い切った。

 「今、二人は三途の川を渡ろうか渡るまいか、賽の河原で迷っている」

 黒いうるしを流したような闇夜に映える星が、まるで電光掲示板に彩られる夜の街の繁華街にように見える。

 イタコの言葉とおり二人は霞のような細かい星々が散らばる天の川の河原の中に座っていた。

 「パパはいつ仕事から帰って来るの」

 妻は息子のサトルの話声が聞こえた。

 「パパがいなくなるまではパパのことをパパゴジラ怪獣と呼んでいたのに、パパを見直したの」

 「二人とも、まだ自分たちが死んだことに気付いていない」

 とイタコは断言した。

 「寒い。家に帰ろうよ」

 「もう帰る家はないのよ。パパにも会えないかも知れない」

 「おかしかったね。パパゴジラの頭の中で電光掲示板怪獣と受水槽怪獣が大暴れしていた」

 「サトルだっておかしかったわよ。

 お友達でない光線ビーム発射。

 好き嫌いパンチ。

親戚に有力者がいないパンチ。

 なんて叫びながらパパを追いかけていたでしょう。サトルこそ怪獣みたいだったわよ」

 「パパゴジラの頭の中の電光掲示板怪獣と受水槽怪獣を退治したかったんだ」

 「そうね頑張っていたね」

 「パパゴジラはどこに行ったの。

 電光掲示板怪獣と受水槽怪獣の二匹に負けてしまったのかな」

 「パパに会いたいの」

 妻はサトルに聞いた。

 「会いたい。パパの所に行きたい。

 パパの所へ行こうか」

 息子は無邪気に答えた。

 妻は、しばらく口を閉ざし、考えていた。

 「二人が三途の川は渡る前なら気持ちが通ずる、心の中で念じなさい」

 とイタコが言った。

 「なぜ死んだ」

 僕は妻に問い掛けた。

 「生きることに自信がなくなったのよ」

 「僕が仕事を失ったことが原因だったのか」

 「あなたは、これからどうするの」

 「大丈夫だ。心配するな」

 「はげ鷹さんやめん鳥さんとはうまくいくようになったの」

 「今日はめん鳥のトサカを捻ってやった」

 めん鳥と呼ぶ男は、僕より半年前に本社から派遣されてきた男である。

 本社から派遣されていた奇妙な男で、責められたり、自分の気に入らないことが起きるとめん鳥のように興奮して、会議の席でも、とにかくところ構わずヒステリックな声で意味不明なことや嘘を喚くのである。あるいは突飛な質問をして仕事の邪魔をして回っていた。陰に日向に足を引張り続けた。

 本物のめん鳥には迷惑かも知れないが、髪型と興奮した時の声の調子が、丁度、めん鳥のように甲高くなるので、この渾名を付けた。

 「腐れパイプのはげ鷹さんとはどうなったの」

 彼は僕の部下であるが、自分の大きな失敗を隠すため他人の小さな失敗や過去の傷を探し出し、くちばしでつつき、自分の身の安全を図ろうとする。だから死肉を漁るはげ鷹とあだ名を付けた。

 「彼の細く長いくちばしにも、仕事中に他人の過去を穿ったり、自分の縁者の自慢話や無駄口が叩けないように強力なガムテープを巻き付けてやった」 

 「もう安心ね。

 めん鳥とはげ鷹のどちらが主演男優賞を取るのかしら。気になるわ」

 妻は笑って聞いた。

 「もう一匹、候補者がいるんだ」

 「同じ社宅に住むモグラさんのこと。

 それとも上司のゴリラさんのこと」

 ゴリラのことは悪く言いたくなかった。彼があそこまではげ鷹の肩を持ち、深入りするとは予想もしなかかった。

 モグラは会社のOA化の推進のためにという触れ込みで入社した男だった。その彼が正体が暴露するのを恐れて、OA機器を本格的に導入しようとした矢先にコンセントを壊した。

 「意図的にやったの」

 「分からない。最終的にはげたかやめん鳥、ゴリラがもみ消した」

 「ゴリラが指示したのかも知れないわよ。憂鬱ね」

 その彼が、あなたみたいな上司の下で仕事するのは嫌だって、わざわざ僕に近づいて来て、衆目の面前で公言したことがあった。

「頼んだことがあったの」

 そんなことを一度も口にしたこともなかった。

 「自惚れかしら。それとも思い違いかしら。彼は庶務課であなたとの課とは別なんでしょう。

 それに若いし役職も下でしょう」

 「教育担当という忙しくない仕事なんだ。

 暇を利用してゴリラの手書きの原稿をワープロで入力して手伝っている。ゴリラは、それが気に入っている」

「彼はパソコンが使えるの」

 「ワープロ機能だけは満足に。

 でもそれ以上のことは出来ない。

 だから彼も、はげ鷹と同じように自分の能力以上の発展は拒否し妨害する。

 彼以上に、教育担当として、彼より進んだ者がいても認める訳にはいかない」

 「あなたたには黙っていたけど、サトルが泣いて帰ったことがあったの。

 後で車でモグラさんがサトルを追い回しているのを見たと近所の奥さんが教えてくれたの。

 社宅の奥さんの何名かで一緒になって抗議してくれたけど。効き目はなかった。そればかりか、あなたが上司のゴリラから一番、指導を受けていると会社での内情までばらまき始めた。気まずい雰囲気を通り越して、情けなくなった。

 サトルには可哀想だったけど、どうしようもなかった。

 警察に訴えようにも証拠もなかった」

 サトルが彼の車を見かけるたびに、僕の足にしがみついて来たのを思い出した。

 「この時代にポスシステムや社内のイントッラネットや、インタネットの導入で揉めるなんて。国を挙げて情報化に取り組もうという時代に。このままでは会社の倒産も間近ね。危ない会社として普通の会社以上に厳しさがあっても不思議ではないのに。

 危機意識のかけらもないのかしら」

 世間にも名の知れた大きな会社であるが、倒産の噂が流れて久しかった。

  

 電光掲示板も同様な話である。

技術的にも可能だった。看板の所有者との話もつきかけていた。ただ会社内部の事務手続の云々の問題で実現出来なかった。

 事務手続で対応出来ない重要な件が、他にもあった。

 ある支社を路地裏に移す前に支店に支社の一部機能を担わせようとする案があった。だが不動産の移転のために必要な事務手続が多くて不可能になった。

 「事務手続きをする人間が多すぎるから、このような面倒なことになるのではないのかしら」


 空間に一筋の星が流れ、妻と僕の立場が一変した。

 三途の河原で立ち尽くしているのは妻と息子ではなく、僕自身だった。

 僕自身が死んでいたのである。

 賽の河原で「一つ石を積み上げ振り返り、二つ積み上げ振り返り」と単調な唄を口ずさみ、小石を積み上げていた。

 心の扉を開け、過去の記憶を引き吊りだし、振り返ることは生爪を剥ぐような苦しい作業だった。

 他人を傷つけたことを思い出すのは、地獄の業火の責め苦だった。

 成仏するには生前の怨みを捨て去る必要がある。

 怨みを捨てねば、輪廻の世界に入ることは出来ない。


 死を決し、石を身体に巻き付け小さな船から海中に身を投じた。

 もがきながら浮き上がろうとしたが力尽きて、身体は水底に沈んでいった。

 最初は苦しかった。すぐに脳内麻薬が全身に溢れ、楽になった。

 呼吸が止まり心臓も停止をした。魂だけがクラゲのような半透明でコロイド状の物質になり、水底を漂い始めた。

 五感のうち、目と耳だけが生きていた。

 海面には静かなさざ波が立ち、僕が乗っていた小舟の周囲に波紋を描いた。

 船は、ゆっくりと西の国へと漂い始めた。

 耳に妻の嘆き声が聞こえた。

 二人は僕が姿を消した海岸の砂浜に、並んで座っていた。

 戯れだろうか砂浜に転がる石を拾い、積み上げていた。

 今、僕が三途の河原で繰り返している作業と同じ作業を続けていた。

 赤々と映える夕暮れ雲が西方浄土の存在を隠すように水平線を漂っていた。

 二人が着ている服は見すぼらしかった。

仕事が順調だった頃、堀はたを歩いて帰る途中、着の身着のままで浮浪者を見かけた。庇護を受けることもなく、職を失い住む家を失った者たちに違いない。二人が着ている服は、その時の彼らの着ている服と同じくらい見窄らしかった。

 まさか妻と息子を彼らと同じ運命に放り込むことになろうとは思いもしなかった。

 「食べ物は、どうしている」

 ゴミ箱を漁っているとは言えなかった。妻は黙った。 支社社屋の移転のために北国から南の支社に派遣されたのは半年前のことである。

 はげ鷹が部下で隣の庶務班には若いモグラが居て、付き合いの深い経理班にはめん鳥が居た。

 はげ鷹は僕の部下だった。

 ところが二ヶ月を過ぎた頃から、彼は態度を急変させた。

 「俺を敵にするな、敵にしたらひどい目に遭わせるぞ。俺には友達が多い」

 友達には便宜を与えるが、友達以外には反抗する公言して憚らなかった。

 彼は僕が彼の安住の地を犯すと感じ始めていた。

 信念などなかった。停年までの二年間、安住の地を失いたくなかった。新社屋での僕の目指す合理化や商品管理のためのOA機器の導入など彼の立場を踏みにじるとんでもない行為だった。

 行政の指導で強制退去を指示された支社本部を閉鎖し、新しい支社を移る準備をすることが主な仕事だった。

 移転場所は関連会社の保養施設があった所で路地裏の通りに面していた。支社本部を設置するなど思いも付かない場所だった。

 「最悪の場所だ」

 だが担当者として少しでも改善を図りたい。

 支社本部には取引業者の訪問も多い。シンボル的な存在にするために社屋の屋上に電光掲示板を設置するという案も決まっていた。

 直前になって本社から高層マンションが建ち並ぶ路地裏の社屋の屋上に電光掲示板を設置しても効果はないと調査結果が出た。

 隣の空き地にビルでも建った時には、無駄になってしまう。

 建設予定地の路地裏通の入口にある大通りに面したビル屋上の看板に目を付けていた。

 他の場所の看板では意味がない。

 そこに電光掲示板の設置して、広告やニュースや流すことが出来る。

 地元のニュースも流すことで地元との融和を図ることも出来る。

 だが逆に、支社社屋の入口にあるその看板がライバル会社の手に落ちたら、とんでもない窮地に陥ることになる。

 こちらの弱みを所有者に気付かれず密かに交渉する必要があった。

 最後の詰めの段階に入ろうとする時だった。

 はげ鷹が口を挟んできたのである。

 電光掲示板など必要ない。市役所に身内の幹部がいる。市会議員も知っている。誘導標識しろと。

 多少の謝礼を用意すれば市を動かすことも出来る。自分が工作をすると。

 屋上に建てる予定の電光掲示板を移設する方が新しく標識を建てるより実現の可能性が高い。誘導標識設置は事業とするためには最初から理由を説明しなければならない。

 市役所は取引業者間で行われた談合問題に職員が関係していた疑いで、警察の手が伸びかけていた。

 贈収賄事件に発展する恐れもある。渦中に身を投ずるようなものだ。城の中にある国の機関では身内に捜査情報を流し、便宜を与えたと連日、マスコミが騒いでいる。

 はげ鷹は僕の意見を無視して上司のゴリラに直接、訴えた。

 ゴリラははげ鷹の紹介で市役所の幹部に会った。

 その日を境にはげ鷹は益々、口達者になり、ゴリラもはげ鷹の言葉に耳を貸すようになった。

 めん鳥も水を得たように元気になった。

 それまでおとなしくしていた若いモグラまで正体を露わにした。

僕を追い出し、彼を昇任させろと主張し始めた。


 新社屋で再使用する備品と処理する備品を仕分けなければならない時期である。

 だが同じ時期に隣の営業課で古い机に傷を付ける事案が発生した。

 あいつのことは嫌いだから弁償させろとはげ鷹は営業課で大騒ぎを始めた。

 新しい社屋で使う物と使わない物を仕分ける作業が先だと反論した

 

 「はげ鷹、めん鳥、モグラの三匹に担がれて晩節を汚すつもりか。

 はげ鷹を支社本部から現場に戻すべきだ」

 ゴリラに懇願した。

 「はげ鷹ほど友達の多い男も珍しい。彼の話を聞け」

 「彼に本当の友達などいない。このままでは支店本部の移転など不可能だ」

 ゴリラは激高し、目の前の机を叩いた。

 「彼の話を聞け。彼を無視するな」

 僕は彼の反応を冷ややかに見守っていた。

 はげ鷹の言葉に耳を貸したら会社を危くしかねない。

 裏切り者の言葉に耳を貸せと言うのかという言葉が口から出かかった。

 はげ鷹は最初から僕を窮地に陥れることしか頭にない。彼は幹部でない自分が責任は問われることはないと思い込んでいる。

 「俺が彼の話を聞く。君の人事処置を先に考えておく。

 はげ鷹を転出させることは全員のやる気を喪失させる」

 役職の持つ重要性や意味が理解出来ていない。

 僕は密かに絶望した。

 ゴリラが一方的に言った。

 彼は市の幹部職員との会って以来、すっかりはげ鷹のことを気に入っていた。

 ゴリラに僕がはげ鷹を現場に戻すことを求めたことはモグラやめん鳥の耳にも達した。

 まずモグラが先頭に立ち、露骨に僕の排斥運動を始めた。

 はげ鷹を昇任させ、僕を追い出せと。


 めん鳥は僕から言葉巧みに本社の調整相手を聞き出すと、すぐに、その調整相手に電話した。

 「電光掲示板、何ですか。

 聞いたこともないですね。彼が勝手に一人で言っていることでしょう」

 めん鳥が知らないはずはなかった。

 「カラー写真付きの報告書ですか」

 めん鳥はわざと声を大きくした。

 「こちらでは経費節減のためにカラー写真を使用するなと指導しているのですよ。何を考えているのですかね」

 本社の担当者が一刻も早く現地を理解できるようにと私費でカラーの写真を焼き回したのである。

 「文書表現上の問題はありませんか。例えば誤字などですよ」

 「多少は表現上、おかしいところが」

 「彼が正規の手続きで書類を作成し発送しておれば、そんなお粗末なことが起きるはずはない」

 めん鳥は本社の僕の調整相手に決定的な疑念を抱かせることに成功した。

 「彼は四ヶ月ほどで新しい電光掲示板の設置するために不動産の取得を本社で認めて頂ける言っている。自分が本社に居た時など調査に一年は掛けていた」

 以前は一年以上の調査期間が必要だと指導していた。

 現場では最近では早くなったと評判になっていた。店舗を移転したい場所があったら具体的に報告しろと指示が来る。半年ほどなら所有者に頼み込むことも出来る。だが彼は再び調査期間を長くしろと暗に本社に催促しているのである。

 会社に組織上、必要でないものが一つある。

 本社の余計な事務手続きと指導だ。

 特に建物の賃貸や建設の不動産を扱う部門は余計なもののように嫌われた。

 支店を新しい場所に移したいと考えても、事務手続きに一年間の月日が必要だなどと突拍子な答えが返ってくる。一年間も待てる不動産を探せというのが非常識だと非難の声があがっても関心を示さない。


 めん鳥は電光掲示板を新社屋の屋上から勝手に下ろしたと責任を取れと責めた。

 「効果がないと本社から連絡があった。それで電光掲示板を敷地の外に付けるように調整を開始した」

 僕は答えた。

 「新社屋のグレードを上げるために正面玄関の上に付けろ。建物の屋上に付ける予定の物を敷地外につけるなどとは飛んでもない話だ」

 誰に見せるために、あんな路地裏の社屋の正面に電光掲示板は付けようとするのだろうか。

 あざけりと非難の声が飛び交った。

 「無駄でもいい。計画とおり電光掲示板を付けることに意義がある。こんな話を今頃に本社に持っていったら飛んでもないことになる」

 めん鳥は反論した。

 「本社から見直しの指示があった」

 「そんなに経費に余裕があれば、こちらに回せ。新しい仕事は増える一方だ」

 営業を担当する部署から反論が上がった。

 「営業に携わる者が建物に期待するなど情けない。足で稼げ」

 会議は険悪なムードになった。

 「他人の仕事に本社が本社がと口を挟むな」

 「正社員やパートの募集、彼らの就職先の世話まで業務は増える一方だ。それに環境保全業務も増える。総合的な会社の広報も考える必要も出てくる。無駄に使える経費があるなら、それを使わせろ」

 「君が余計な電話をしているのを聞いている者がいる。どういう立場で電話をしたか釈明しろ」

 「社長も現地で新社屋の立地場所を確認して、最悪な場所だということを承知し、建設でカバーするように指示を出している」

 「聞いたこともないね、そんなことは。

 本社で噂になったこともない」

 彼の言動から本社の対応ぶりを思い浮かべた。

 対応の悪さに絶望感が支配した。

 長い調査期間を要するお陰でバブル景気の崩壊以来の家賃の低迷にも関わらず、会社の支配するどの店も高い家賃のお陰で苦しい経営を強いられていた。


 新社屋のグレードを上げるために造ることになっていた電光掲示板が、いつの間にか、受水槽の横の駐車場への出入口の上に設置されるようになっていた。受水槽が邪魔になり、片面の方向からしか電光掲示板も見えなくなる。しかも、通行人もまばらな路地裏通りである。

 やがて受水槽を作らずに加圧式ポンプで屋上に水を揚水が出来るように条例の改正される。受水槽を造らずに済めば、経費が浮くばかりか、新社屋正面の狭い土地も有効利用できる。

 

 もともと電光掲示板も少し移動すれば、人通りの多い大通りに面した所に大きな看板が空いている。最初は、その場所への設置を主張し続けたが、潰され続けて僕も自信を失い、妥協を考えるようになっていた。

 だが、せめて受水槽を加圧ポンプ式に変えることが出来れば経費は安くなり電光掲示板も生きてくる。

 追い打ちをかけるように、めん鳥が食ってかかってきた。

 「建設の素人が余計なことを言うな。本社の建設担当部署に迷惑がかかる。

 工事が始まってから工程表を変えるなんて。迷惑千万だ」

 本社の建設部門の反応は、もともと冷ややかだった。前例のないことに関わりたくなかった。まして現場でのもめていることである。

 とにかく彼の強固な主張に関わらず調整をしてみる価値があると会議では決着が付いた。

 淡い期待を抱き、次の日に電話をした。

 受付は、そのような担当者はいないと無下に応えて、電話を切った。

 はげ鷹は薄ら笑いを浮かべて、俺を敵にするな、俺を敵にするととんでもない目に遭うぞと口癖を繰り返していた。

 その時、心ある者が彼を呼んでいたもう一つの渾名の腐れパイプという意味が分かった。こちらの都合は通すパイプではなかった。相手の都合を通しつつ、巧みに自分の仲間を増やしていくパイプだった。

 彼のパイプ役とは所詮、このような物だった。


 めん鳥もあざけ笑いを浮かべて言った。

 「出来もしないことを」

 めん鳥の電話の件は本社でも問題になった。

 ゴリラに直接、本社から確認の電話があった。

 さすがにゴリラは不安を感じ、めん鳥と相談をした。

 「大丈夫か」

 「彼は作業服上がりですよ。自分たちのような大卒の背広組とは違います」

 彼は自分の周囲に仲間を造ろうとしていた。

 だが良識ある者は話に乗ろうとしない。

 だが泥を被るのを恐れ、静観を決めていた。

 「位は君より上だぞ」

 「関係ありません。彼らの位は飾りにすぎません。大学卒のキャリアこそが上です」

 僕のことでゴリラから問い詰められること自体が、めん鳥には不愉快なことだった。

 「もっとこき使った方がいい。本社では作業服上がりなんて奴隷同然です。封筒貼りをさせたり、カバン持ちをさせたりしているのですよ」

 例えば若い下級者が足組みをし、一回りも年嵩の違う現場上がりの上位者を捕まえて、「君、君、そろそろ君も役職と位が欲しいだろう」と平気で言うと噂になっていた。

 密告、妨害、ねたみ。

 深い迷宮に迷い込んだような日々が続いた。

 はげ鷹の意見どおり高価なマホガニ製の家具が無計画なまま、支払いの目途も立たないまま、大量に入荷してきた。

 ゴリラは僕に書類に印鑑を押せと迫った。自分の意志など、すべて揉み消され、無気力になった。

 家具は古い社屋に入り切れず、借りた倉庫に山積みにされた。

 数ヶ月も経たない内に本社から監査が入ることになり、事態は一変した。

 「なぜこんな時代にマホガニ製の高価な家具を買った」

 ゴリラ以下が騒ぎ始めた。

 着任した直後のことであったが、購入備品の計画の見直しする必要があると訴えた。

 その時もめん鳥は、会議の席で激しく机を叩き、必要ないと激高し、会議をぶち壊した。

 それははげ鷹の持論でもあった。彼ははげ鷹の持論を繰り返したのである。

 めん鳥とモグラが応援し、強引に押し切られる結果になった。めん鳥は、はげ鷹の意見は聞くが、僕の意見は聞かないと露骨に反対した。

 だが検査官の前ではげ鷹とめん鳥は、この時とばかり一斉に声を上げて、すべて僕の決めたことだと主張した。

 他の部署のめん鳥やモグラには責任が転換できるはずはなかった。

 業務系統上、部下はげ鷹と僕が責任が追求されることになった。

 もちろんめん鳥とモグラは、はげ鷹を応援した。

 そしてゴリラも類が及ぶのを恐れて、ことの成り行きを静観した。

 すべて僕の責任にされた。

 多勢に無勢だった。後ろ盾のない僕は窮地に陥った。


 こんな時代である。仕事を探し続けたが、見つかるはずはなかった。

 妻に気付かれることを怯えながら、仕事を求め町を歩き、夕方に帰宅をするという行動を繰り返した。

 未練はあるはずはなかったが、自然に新しい社屋が建てられた路地の入口に足が向いていた。

 心の隅には、まだ愛着が残っていた。

 何気なく見上げるとビルの屋上に電光掲示板が輝いていた。

 それはライバル会社が権利を獲得した電光掲示板だった。

 小雨が降りそぼ降る夕闇の大通を煌々と照らしていた。

 「大手スーパーは市幹部職員に贈賄の疑い」という短い文字が生き物のように流れては消えていった。

 その大手スーパーこそが自分が勤めていた会社だった。

 すべてが終わりだと悟った。

死を選ぶ直前の出来事だった。


 僕は慟哭した。

 「お困りのようですね。

 助け船が必要ですか」

 背後で優しく穏やかな声で呼びかける者がいた。

 見上げると神々しい人が立っていた。

 「事情は分かりました。運の悪い人生だったようですね」

 その日は、阿弥陀如来が三途の川の渡しとして、適正に仕事が行われているか確認する一億年に一度の日だった。

 願いを叶えてあげよう」

 僕は信じることが出来ずに呆然と阿弥陀如来の姿を見上げていた。

 「私の力にも限界がある。君を生き返らせることまでは出来ない」

 如来様は付け加えた。

 衣の裾にすがり、魂を肉体に戻してくれるように願った。

 「彦星と織り姫星が出会う七夕の今日から死者と生者が再会する御盆までの期間だけ君の魂を肉体に戻すことにしよう。

 君が海中に身を投じた以来、すでに数ヶ月の月日が過ぎている。

 筋肉も魚やヒトデに喰われほとんど残っていまい。魂を肉体に戻しても君は自分の身体さえ動かすことは出来ないかも知れない。

 まだ、完全に怨みを浄化させていない。過去を振り返り、悔いる作業をこのままで止めてしまうと、怨みを引きずったまま、成仏も出来ず、苦しみながら冥界をさまようことになる」

 「かまわない」と僕は即答した。

 骨だけでも動かせてみせる。妻と子に醜い姿を晒すことも構わない。衣服だけでも妻と息子の側に運んでやる。

 阿弥陀如来は、生きている間にその覚悟があれば良かった。「残念だ」とつぶやいた。

 

 妻と息子はすでに波間に沈み、息絶えて海中を漂っていた。

 その二人に寄り添うために、僕はヒトデがしがみつく骨を引きづり動かしている。



 

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