第2話それから

 沖縄の首里城と那覇空港の間にモノレール線が開通したと言う記事が日曜日の特別版にが出ていた。自分にも無縁の話でない。

 三十二歳になった頃に、沖縄で勤務していた。沖縄が本土へ復帰を果たして十四年を経た頃である。旧軍に受けた行為に対する憎しみが、そのまま柵の中の者たちに向けられていた。

 本土の車両番号を付した車両だけが放をされたりする事件が相次ぎ、ひそかに夜の監視が割り当てられ、真夜中に町角に立つこともあった。

 自分の生まれた島にも近い場所である。三十年前の戦争で彼らが受けた痛手が聞きかじっている。周囲の者たちのように恨みに思うことは出来なかった。戦争で土地台帳が焼け、個人所有の土地の境界が不明な残っていた。戦争で地形も変わり記憶も当てにならず、処置出来ないような状態になっていた。

 翌年には沖縄で国体が開催される予定の年でもあった。

 名実ともに本土を復帰を目指していた年である。

 道路事情から南部方向から空港に至る一般車両に対し、柵の中を走る敷地内の道路を通行することを許可していた。

 難しい状態での許可だったと思う。

 同じ頃に米軍から那覇の港湾に面するタンク地域の返還があった。

 古い学校跡の解体作業もあった。それもモノレール路線に関連した事業であった。

 台風が来たら、FRPの塗料が禿げてしまったレーダーごと吹き飛ぶと言う理由で解体の計画もした。

 すべての仕事が終わった後に、ある人物が言った。「馬鹿と鋏は使いようさ」と言った後に、その人物はすぐに顔を綻ばせて、愛嬌のある顔に戻った。

 彼の言葉に悪意は感じられなかった。だから嫌な気はしなかった。

 だが、それは今の自分人生に対する暗示だったように思う。

 

 沖縄での勤務が終わると、埼玉で勤務をした。様々な出来事が重なった。

 K市での出来事が脳裏から離れることはなった。

 酒に逃れる日が続いた。金時飴の顔はますます悲しい表情になっていた。

 抜け出せない袋小路に追い詰められていった。宿命を呪い一人で絶叫する日が続いた。

 自分が三十五才に頃だった。

 ソビエット連邦が崩壊したのである。

 冷戦が終わり告げたのである。

 待ち続けた甲斐があったと直感した。

 千載一遇の機会が訪れたと思った。

 それまでは柵の中に閉じこもり、発言を慎まねばならない時代だった。なにしろ共産圏の国々に通ずる抵抗分子が国内に存在する信じられていたのである。

 口を慎むに越した行為はなかったのである。


 それから一年後には、自衛隊を海外に派遣できるようにするというPKO法案が国会で審議されている時期でもあった。

 「柵の中にて」という小冊子を携えて、社会党の国会議員に会った。社会党の国会議員の中にこそ軍隊という組織が狂気に陥った場合の悲劇を再認識しているはずだった。まだ戦争中に辛酸を嘗めた人物が多く存在していた。彼らの中にこそ過去の戦争で苦しんだ者が多くいると感じた。

 当時、大都市圏では地価が高騰する時期だった。バブルと言う時代である。丁度、昭和から平成の時代に変わろうとする時代である。

 便乗をする訳ではないが、東京の六本木の土地を売却し、その対価で首都圏周辺に存在する柵の中の施設を一新しようと言う計画が造られた。

 私は、その末端に椅子を得ていた。

 事務環境の改善だけが話題になった。

 首都圏や大都市圏における地価の高騰は、国内の景気の高揚が、外資系企業の日本進出を招き、首都圏周辺で事務所を求めた結果、東京近辺の事務所スペースが不足した結果だと言われていた。

 そのようなことで事務環境の改善を第一とすべきであると言う者が多かった。柵の中で生活する者たちの処遇改善などがテーブルの上で検討されている様子はないと言うのが第一印象だった。

 K市での自分の体験から違うと思った。

 社会の一般常識や、将来の役割を考慮に入れない考えていないと思った。

 先述したとおり動機は単純ではなかった。

 同じ時機にソビエト連邦と、周囲の共産主義国家が崩壊を始めた。

 国内の情勢も気になっていた。

 柵の中では社会党はソビエト寄りと思われていた。露骨な言葉には出ない。雰囲気がそうである。自分だけが近付けると思った。もちろん誰の指示を受けた訳ではない。了解を得た訳でもない。

 僕は思春期の頃から自分をさいなみ続けたことを政治の世界に持ち込もうと考えた。

 環境や人口、エネルギー問題を政治の世界に持ち込むことである。

 当時は危険な考えであると指弾されてる恐れがあったが、柵の中の者たちは外国に行くしか仕事の場はないのである。太平戦争での戦場になった沖縄での出来事や、空襲で壊滅的な被害を得たことを振り返る時、国内で戦うなど自分の頭では考えることは出来なかった。

 情報も厳しく統制され、国全体が軍国主義に固まり、一億総玉砕などと叫んだ、あの太平洋戦争の時でさえ本土決戦など行われなかった。

 戦争が起きる原因を人口爆発や近代化により不足するエネルギーや食糧の奪い合いだと単純に割り切っていた。それを防止するためには世界規模での対応が必要であろう。世界には文明化により豊かな生活を享楽する国や民族だけではない。これから、そのような生活を目指す民族や国家もある。だが誰も、それを押し止めることはできない。行く先は絶望的な破滅の淵か、それとも生存競争をむき出しにした奪い合いか。それとも共存を求める第三の道を選択し得るか。

 もちろん第三の道の選択を希望する。

 その原動力に柵の中に者たちに求めることが出来ないかと希望をつないでいたのである。

 請願として受け付けると返事を受けた。その後、音信を断ってしまった。やがて太陽光発電の普及を図るための補助金の設置に関する法が成立したことを知った時、微かな自己満足を味わった。もちろん、自分の行為と、このことが関係しているかの事実は確認しようがない。

 

 存在目的を失いつつある社会党が、新たな存在目的を得ることは有意義なことにちがいないと思った。ソビエト連邦の崩壊で国内に混乱を発生させない一助になるはずだとも期待した。

 小冊子を自費で制作し、提供した。

 だがこの小冊子の制作が原因になり、それまでの得ていた小説発表の場を失ったと信じている。

 その後、埼玉県の大宮、茨城県の古河市、四国の高知、香川県の善通寺、滋賀県の大津、山形県の神町と転々と歩いた。


 その間、九州に帰ることが自分の整理の必要不可欠な出来事だと信じていた。

 陰にひなたに自分の人生に陰を落としている出来事がK市での出来事に起因していると感じていたのである。

 特に、ここ四十五、六歳になった、ここ四,五年に自分の人生の静寂を破る出来事が多発した。覚悟を決めるしかなかった。金太郎飴の中の金太郎に顔付きが、ますます暗く悲惨にものになった。ふたたび整理を始めた。十五年前も同じだったが、思い出したくもない掘り起こすことは苦しいことで作業である。

 筆は進まず、読み直すことも苦痛を感じる作業である。

 真相を法廷で証言する者は現れまい。だから私の嘘であり虚構にするしかない。単なる小説にすぎないのである。


 平成十二年八月に山形の神町の勤務を終え、九州に帰ってきた時、四十六歳になっていた。福岡市にあるの柵の中での勤務から始まった。

 気味の悪い文書の処置に追われることになった。周囲には不自然さが漂っていたが、しばらくは静かだった。口を閉ざすように徹底されているかのように静かだった。

 だが、この不自然な静寂も十一月になるころには壊れてしまった。


 その文書の内容は不愉快なものだった。それが意図することを行間に露骨に込められていた。

 新庁舎の建設工事に先立ち、調査工事を行った結果、新庁舎屋上に建設が予定されている電光掲示板の効果に疑問点を指摘してきたのである。会計検査員に説明する責任は、そちらにあるので準備をするようにと言う指示である。

 屋上に電光掲示板を設置する案は、この文書を出した上級司令部で決めたはずである。それを一方的に現場の責任にする理由が理解できなかった。

 他に妥当な案があったら、提案をされたいと書いてあった。示された時期まで一カ月ほどの時間があった。

 新庁舎建設予定地周辺を歩いてみた。

 大通りに面した西側と北側には高いマンションが林立する狭い路地裏通りが建設予定地であった。わずかに解放された南側には大きな貯水池もある。

 西側は住宅地であり、民家が密集している。

 調査工事を請け負った業者が言うとおり、不特定多数の者が電光掲示板を目にするのは不可能である。

 調査工事を請け負った業者は、裸の王様を文字とおり正直に裸の王様にしたのである。

 それを無理に現場だけで説明しろと言うのである。

 縦に細長く薄い十五メートルほどの電光掲示板を、庁舎の屋上に建てることに技術的な問題を表面に出すことを避けて、問題をすり替えたのではないかと言う疑いも脳裏をかすめたが、誠意をもって対応するするしかないのである。

 文書から不吉な予感を感じたので、正規のルートで回答するしかないと思った。

 建設に関しては隣接する柵の中にある担当者に任せるしかない。上級司令部内の調整は募集や広報などの業務を取り仕切る部署を通じて調整を行う必要がある。

 それでも文書の発簡もとに事情を確認に立ち寄った。

 例の男がいた。

 Tである。二十年前の出来事を思い出した。

 あの時、彼は相場の値が上がるまでの時間稼ぎを目的に本当に自分をでっち上げたのはなかろうか。

 あるいは自分の離婚の原因になる行為を仕掛けたのではないだろうかと疑念を今でも抱き続けている。

 しばらくは彼の存在さえ忘れていたが、昨年の高速揚陸艇が遭難しかけた出来事に出会って以来、脳裏をかすめることがあった。

 不吉な予感は当たったのである。

 しかも彼は昇進をしていた。

 すべてを理解をした。

 Tは施設局という外郭団体に工事を要求する立場にあった。

 制度上、私はTと直接、やりとりを出来ない。隣接するFを通じてKと調整することになっていた。建設工事に関しては、施設局とTとFの三者の責任で行うものである。

 こちらは業務を遂行するために必要な事項を要望するだけである。この要望が通らなければ、彼ら三者の都合で実現出来なければ、ふたたび要望すれば良い。

 それを、会計検査院に対するすべての説明を現場でしろと言うことは無責任きわまりないことであった。

 この案を決めた当事者は、TやF、工事を実施する施設局の三者で決めたはずである。

 対案を提示した。

 対案は新庁舎の建設予定地の路地の入口にある大通りに面した空き看板に電光掲示板を設置することである。

 新庁舎の建設予定地から五十メートルほどの距離があるが、事務的な手続きさえ行えば、技術的には十分に可能なはずである。

 大通りに面して、しかも駅の広場からも見える。現在は空き看板になっているが、設置場所として権利を保持するために放置してあるようにも見える。

 十二月まで、まったく動かなかった。


 もう一つ問題があった。

 机のことである。些細なことのように思えるが、重要なことである。これも自分が着任する前のことである。

 机の価格は百万円を超えた。

 どのような経緯で購入したのか理由は解らないが、金策をしろと言うのである。

 販売業者に代金を払っていないと言うのである。

 その時に、先行取得と言う言葉を始めて耳にしたが、言葉の意味さえも理解出来なかった。

 実は、四年を経過した現在、平成十六年に、その言葉の意味を知ることになる。

 それも新聞を通じてである。

 福岡市の外郭団体である港湾開発局が、高値でケヤキや岩を先行取得し、福岡市に多額の損害を与えたと言う記事からである。

 先行取得とは将来に備えて物品等を取得することらしい。入札等の行為は行われず、代金未納で高額で取得することになる。

 柵の中では許される行為ではない。先行取得などと言う言葉も存在しない。

 知らぬ存ぜぬでは済まない立場になった。

 「木製の机が大きすぎて仕事の邪魔になる。本来の机に戻せ」と、新しい机が加わったために不要になった木製の机を、玉突きで押しつけられた隣接する部署から苦情が寄せられたのである。

 「調整の上で、金属製の定められた机を木製の机にしたのではないのか」と尋ねたが、そのような調整は一言もなかった言われた。

 玉突きで隣の課長用にした机とは言え、まだ十分使える高価な代物である。

 どのような経緯があったのか事情を確認しても明確な答えを返さない。

 「新庁舎では、部屋は広くなるのか」と聞かれたが、「狭くなります」と正直に否定的な答えを返すしかなかった。

 「もとのとおりに身分相応の事務用机にしろ。前から、このことは言っている。君のやったことではないが、君は職務を申し受けたのだ」と、彼は要求をしているのである。


 十一月に検査があった。

 コピー機を使用して複写した枚数の件である。コピーの枚数を一枚一枚、確認しているかと言うのである。

 会計検査院の検査が怖くないかと詰問するのである。

 コピー枚数などと言う些細な話でを持ち出すことに腹の底で笑っていた。

 検査をする能力があるのだろうかと疑念を感じた。周囲には五名ほどの検査官がいて、なりゆきを見守ってた。

 私のそばには机を買った際の張本人ではないかと目星を付けた男が座っていた。それも足を組んでいる。

 禿鷹と称する男である。鋭い一瞥を与えると彼は姿勢を正した。

 検査員の怒りを煽り立てていた。二人の関係を疑いたくなる場面だった。

 彼に対する不信感と悪感情が高まった。木製の机の取得に際し、担当者である彼が関係していないはずはない。

 年度末には精算することを約束をし、百二十万円を超える金額で机を購入をしていたようである。

 そのような指示した者が誰なのかも明確ではない。

 自分の前任者の指示でないことだけは明確なことのようである。


 十一月に禿鷹がもう一つトラブルを拾ってきた。

 隣接する部署でのトラブルから発生した。感情にかられ会議室の机を叩き、壊してしまったのである。最初は二万円で購入できると言う話だった。ところが調べたら七万円もすると言う。しかも周囲の机は古くなり色が褪せており、一際目立つことになると言う。

 それでも彼は、弁償をさせろと主張した。問題を大きくしようとしているかのようである。隣接する部署へ押しつけた木製机の行方は定めることは出来ない。

 「新庁舎が完成する一年後には買い換える計画になっている」

 「金額などにも、色が変わることなどの事情にも関係ない。弁償をさせろ」と禿鷹は堅くない主張を続ける。

 それに対抗するかのように木製の机を撤去し、もとの役所風の机を戻せと強い苦情が返ってくる。

 その哀れな机の運命を二年後に知った。

 ある男がその机に座っている姿を写真で見た。照れているのか困惑しているのか判然としない表情で、立派な木製の机の前に座っていた。


 検査受検中の昼頃、Fから営繕班長がやって来た。

 まるで上級司令部の検査を待っていたかのようであった。彼は電光掲示板設置位置の要望を出せと言う。それも彼が指定する場所に要望するように出せと言うのである。

 検査を受検しており、忙しくて駄目だと断った。

 翌日、ふたたび彼はやって来た。

 「設置場所をもとの屋上に戻せないか」

 「戻せない」と彼は即答した。

 「設計図の変更をしたのか」と言う質問には彼は返答しなかった。

 もちろん設計図の変更を行った気配はなかった。

 既成事実を重ねるために、効果がないと言ったのではないのか。

 対案を示したはずである。ところが、こちらの対案を当初から無視し、Fの示す案とおりの要望を出せと言うのである。

 彼の示す対案は屋上から電光掲示板を下ろし、狭い路地裏通りに面した場所に設置する案であった。

 「効果があるのか。人通りはは多いの。人目につくのか」

 屋上に設置しても効果がないと調査結果で問題は紛糾したのである。

 「夕方などは通行者で混雑するほどだ」と彼は主張した。

 嘘を付いている。

 自分も何度も足を運んだが、夕方から夜に掛けて人通りも絶え、閑散としている。

 裸の王様に再び偽りの服を着せようとしている。

 「現場に強引に要望書を提出させて、将来のの責任逃れをしようなどと姑息なことを考える以前にやるべきことがあるだろう」と心中で呆れた。


 同じ十一月に、自分が後日に禿鷹とあだ名を進呈した男が突然、電光掲示板の件に口を挟んできた。

 「電光掲示板の役割は結局標識ですよね」と。

 「標識だけの役割だけではない」と繰り返すが、彼は標識だと勝手に思い込んでしまったようである。無理に思い込もうとしているようにも見えた。

 標識なら身内に福岡市の市役所に勤務する有力者がいるので、彼に頼めば簡単に設置をしてくれるはずだと言い始めたのである。

 福岡市が標識の設置を請け負うのは、庁舎の移転と言う福岡市との話がまとまる前なら会議の席上で議論の対象にもなろう。だが庁舎の移転が決まって数年も経過した後のことである。

 検査以来、彼には悪感情を抱いていた。

 彼の申し出に対する態度を硬化させていた。

 「議会との関係もある。行政を担当する福岡市が簡単に動けないはずだ」

 そう言ったが、翌日、「上司に直接、言ってみたら」と態度を軟化させた。

 彼自身が、検査の際の無礼を詫びていると理解した。彼の顔を潰すことも得策ではないと言う打算もあった。

 十二月、「電光掲示板の設置場所を変更を真剣に検討するなら、計画変更の承認を得なければならない」と言う申し出がFからあった。

 年の背も迫った十二月の頃のことである。

 業務上関係のある募集課に問い合わせた。

 「現場がこんなに騒ぐのはおかしいぞと大丈夫かと聞いたが、Tから施設のベテランだから大丈夫だと返事が返ってきた」と言うのである。

 何のベテランだろうか。自己と組織の能力を正しく分析できているのだろうか。

 Tがそこまで自信満々なら、ボロを出るまで待つしかない。建築上の責任はないと開き直るしかなかった。新庁舎の建設に際して実現しなかったことは、今後の正規の要望として報告するしかない。


年が変わり一月になったことである。

 建築図面と電気設備の図面に記された電光掲示板の位置が異なることに気付いた。建築図面に記された電光掲示板の位置が受水槽の陰になっているのである。

 建築のベテランが壁にはめ込み庁舎のイメージアップを図ると強引に進めたが、無理が生ずる違いないと予想していたが、ほころびが出たと感じた。

 「一体、どちらの位置が正しいのか」と電話をした。

 同時に受水槽が本当に必要なのか質問をした。規模が大きく敷地面積を占有する受水槽ではなく簡単なモーターを設置することで対応できるようにする条例改正が、やがて行われると言う噂を耳にしていた。

 受水槽を設置せずに済めば電光掲示板も生きてくる。敷地も広くなる。

 四月に受水槽に関する条例変更を確認する動きがないので、福岡市に電話で確認する。福岡市役所から条例改正の動きがある旨を知る。その旨をFに連絡した。


 二月になると年度末経費の取得が始まった。

 百万円を超える机の代金を都合せねばならない。もろもろの経費を含め二百万円ほどの経費が必要であると要望をした。

 「経費をかき集めても要望とおり四百万円を出します」

 一瞬、耳を疑った。話が違いすぎる。

 「一体、どうして」

 「お宅の部下が来て、とうとう説明をした」

 彼の説明に了解をした上でのことかと確認をすべきだったかも知れないが、彼の語調は、それを許さなかった。

 禿鷹が上級司令部に交渉に出掛けていたのである。

 市役所に勤める彼の義理の弟を頼って、自分の直接の上司が挨拶に出向いて以来、彼は遠慮なく、私を飛び越し、私の上司に話し掛けるようになっていた。

 彼は私が他の所要では忙しい時期を見計らうように勝手に足を運んでいるのである。私の上司も了解していたのだであろう。

 私が調整していたのは百五十万円から二百万円の間の金額である。上級司令部の彼も了解していたはずである。それをいきなり四百万円にするとは。四百万円と言う金額は当初の要望額である。総額二千万円の備品購入費を要望していたが、その場合、四百万円の備品の取得を予定していた。ところが総額千二百万円の金額の査定しか受けなかった。部屋の間仕切りなどの状況も変わっている。一番重要なことは取得した備品も、一部を除き庁舎の完成後からしか使用がきないのである。

 事情を説明しても耳を貸さなかった。

 私の前任者が計画したとおりに勝手に話を進めようとしているであろう。これは、もちろん前任者の責任ではない。

 四百万円の金額が配分された後に、四月に会計院検査があると報せが届いた。

 会計院の検査を異常なほど恐れる。弁償を指示する権限があるからである。

 十一月の検査の際にも、御親切にも口から唾を飛ばし繰り返していた。コピーの枚数の数などの段ではないと呆れて聞いていた。

 すべてを白日のもとに晒してしまおうと言う衝動に駆られるが、一存で出来ることではない。

 とりあえず隠すしかない。

 購入したばかり物品を箱詰めのまま放置しておく訳にはいかなかった。

 新庁舎が完成するまで隠すことが出来る場所を探すしかなかった。心当たりがなかったが、やっと探し当てた。

 一難去って一難。よくぞ次から次にトラブルの種を蒔いてくれる。

 意図的に私の足を引っ張る妨害行動を行っているとしか思えなかった。こちらは尻ぬぐいで四苦八苦である。


 連休が終わった五月始め頃に上級司令部が作成した転属リストに自分の名前が上がっていると告げられた。

 放出するから、引き取る勤務地はないかと言うリストである。

 それを告げる上司が驚いている。

 どのランクで決定で、どのように経緯で私の名前がリストに載ることになったのか聞くよしもない。彼も始めて知り慌てて最終確認をしたのである。

 あるいは、○○から赴任したと言う男も関わっているやも知れない。

 「もし残る気があるなら残れ、絶対に庇ってやる」と言ってくれた。

 二日間、考えた末に返事をする。

 残ることは彼にも迷惑を掛けることになるにちがいない。それに建設工事も四月から始まっている。過去に因縁があるKとの関係がある以上、このまま居残っても迷惑な存在になるにちがいない。そう考えて、僕は転属を希望すると彼に報告した。

 周囲のざわめきの中で、自分を案じた上司が話し掛けてきた。これまでの仕事の経緯を残しておけと。それに言い残すことはないかと。

 私と禿鷹の関係は、周囲の者はすべて承知しているはずだった。あえて言う必要もないと思った。

 「彼は」と、○○から赴任した男のことを口にしかけた。

 「あいつが怖いか。何も怖がる必要はない」

 否定も肯定もできなかった。彼を馬鹿だと思っても怖いと思ったことはなかった。ことの本質や重要性を判別できず、理解力にも欠ける存在だと感じていた。

 遺言を聞くその上司も○○に勤務していたことがあったが、まったく異なるタイプの人間であると感じていた。だが、あえて軽はずみな言葉を吐き、危険を冒す必要もないと感じた。


 三年前の出来事である。

 新福岡市のケヤキや庭石の先行取得について聞紙上でしか見ることが出来ないが、想像は膨らむ一方である。

 禿鷹と渾名で称する部下と、もう一人○○から赴任したと言う男の関係は、単に仲が良いと言う関係ではなかったように思えるのである。禿鷹は市役所に勤務する有力者の義理の兄を庇うために動いていた。○○から赴任をして来た男は、告訴をされた元市議と同じ出身地であった。

 禿鷹と○○から赴任した男の二人は、先行取得と言う会計法上も制度上も許されない手法を一般的なものにし、ケヤキや庭石で世間の非難の嵐を分散し、元市議らに対する風当たり少なくしようとしたのではなかろうか。

 本人たちは意識をしなくても、結果から、そのように捉えられても文句は言えないのではなかろうか。


 平成十三年八月、暑い中、Nに異動した。

 一年での勤務の変更は、誰から指摘されるまでもなく、珍しいことであることは気付いていた。自分に落ち度があったことを広く世間に告知したようなものである。


 新聞の記事を眺めていると、東北地方のある演習場で訓練中に大砲の弾が演習場の境界を越えて、集落の近くに落ちたという記事が目に飛び込んできた。

 福島県にある布引山演習場と言う縁の深い演習場での出来事であった。

 演習場の裏側に通ずる経路の選定に部隊は困っているにちがいない。

 三本の経路が使用できるはずだった。

 一本はそのまま町道に連結しているが、弾着地に近く、周辺には射撃に反対する住民が多く住む集落を通らねばならなかった。

 もう一本は、既設の林道に通じているが、その既設の林道との連結部の道路は途絶していた。それを使用できるようにするには林野庁との調整が必要になるはずだった。

 それを担当するのは○○だろうかと言う考えが脳裏をかすめた瞬間、福岡での勤務の際に一緒になった自分が雌鳥と称した男の存在が脳裏をかすめて、期待をするだけ無駄だろうと思った。

 もう一本は未完成であるが裏側を通り、直接、林道に通じていた。

 この道路の工事に手を付けることになったのは、平成十年八月に福島県内を襲った大水害の結果であった。

 山形県の神町での勤務に就いたのは、平成十年八月のことである。福島周辺を襲った大豪雨は一体に大損害を与えたが、丁度、山形の神町に着任して、一ヶ月も経たない八月の末の頃だった。

 丁度、豪雨まっただ中の福島にいた。

 屋根を叩く雨音で、面と向かい相対する者の会話さえ聞き取れない状況になっていた。

 近くにある演習場も大きな痛手を受けた。


 演習場に通ずる道路も大災害前に比べて、崩壊し、上流から流れ込んだ杉の木々が、町道に沿い流れる川と言わず、道路と言わず山積みになり、見る影もなくていた。

 町の計画で補修も終わっても、いつ崩壊をするか予断を許さない状況だった。

 予備の進入路が必要になる。


 大豪雨の後に演習場の侵入路は崩壊し、壊滅的な状態になっていた。進入路の町道の山肌は削られ、岩肌がむき出しになっていた。山全体が一つの岩の固まりでは無いかと想像させる風景である。

 残った山肌の岩ににこびり付くようにように残る土砂が崩壊し、いつ次の災害を引き起こさぬとも限らない状況になっていた。

 大豪雨の前に、狭い町道に替わり大規模な工事を施し、山の頂上を通る道を造ろうと言う計画で測量を実施し、一部、工事にも取りかかっていた。

 滑り易い岩の表面に薄い土の地層が覆い、そして樹木が薄い土の上に根を張っている。いつ表層の土と岩の間を水が走り、地滑りを再発させないと限らない姿である。

 大豪雨で道路周囲の山の地層の構造も明らかになったのである。

 それでも計画とおり山の頂上の道路を延長すべきだという意見である。

 事務手続きや責任追及を恐れてのことであろうか。計画変更を毛嫌い輩が多い。

 計画を変更すべきだ。豪雨ですべてが変わった。説得は不可能だと諦める方が得策であることは承知していた。計画の変更できないと言う思い込みが、精神構造になっているのである。

 先述した禿鷹もそうだったかも知れない。

 二十年ほどの前の工事の時にも、そのような場面に遭遇していた。

 毎晩の議論で三ヶ月を苦労した。燃料の空ぶかしの件である。空ぶかしの分を含み多めに燃料の見積もらせて、その分は是が非でも消費をしなければならないと主張し続けたのである。

 そんな時に上級司令部から電話が来た。

 「三名で現地で既存の道路を整備することに決めました」

 「三名とは誰ですか」

 「私と、お宅の部下の二人とです」

 彼は、ことさら部下と言う言葉に力を込めて言った。彼は演習場で彼等三名が決めたことに同意しろと言うのである。

 「こんなことを、君たち三名で決めることが出来るなどと思っているのか」

 もちろん自分も決めることが出来ないことぐらい承知している。

 「部下の言動は、すべて上司の責任だ」と言葉を口にするのを耳にしたことがあった。

 無責任な言動に呆れた。

 「指示に相反する悪質な行為を行う部下に対して責任を取る必要があるなど」と博愛主義にもほどがある。

 内心で馬鹿かとつぶやいた。

 自分の部下の全行為に対する責任をとるべきだと言う彼の美しい持論を耳にしたこともある。人気取りに等しい言葉である。それに周囲に迷惑きわまりない言葉である。

 Kでの勤務の際の出来事を思い出し、胸を刺した。

 「勝手にしたら」と言い捨てた。

 「二次災害を防止するために豪雨で被害を受けた山全体を買い上げるなら、工事をすることも可能だが」と言い続けていた。

 工事が可能か不可能かどうかも判断できないのか。

 「このまま工事ができるならやってみろ」と心中でつぶやいた。

 そして弾着地の裏側に通ずる道路工事の計画を始めていた。

 その時の理由は、万が一の時に唯一の進入路が進入路が遮断をされても良いようにであった。

演習場の裏側に落ちた弾の捜索など言い出せなかった。だが、内心ではこのような事案が発生することも予想していた。

 一年ほど前に、北海道で航空自衛隊の戦闘機が訓練中に演習除外の施設に実弾射撃を行い社会問題になっていたのである。

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