俳句少年 短歌少女

せらひかり

 従兄弟が、しばらくうちに住むという。

「いいけど別に」

 音質そこそこのヘッドフォンで耳を塞ぎながら言うと、

「こらっ! 敦(あつし)、ちゃんと聞きなさいよ」

「母さんうるさい」

 薄いグレーのブレザーを掴まれ、ヘッドフォンもむしり取られた。横暴な母親の後ろから、

「すまんなー! うちの親はこれから出張だし、こっちの方が学校に近いからって、朝っぱらから押しかけて」

「いーのよ順次(じゅんじ)くん。いーのよ」

 敦は見上げる。順次は筋肉のたっぷりついた、壁みたいな従兄弟だった。目の前に立っているだけで、むわっ、とした匂いと熱を感じる。暑苦しい。

 でも、悪気のない大声と言動は、まるで大型犬みたいで、別にきらいではない。

「ごめんな、敦」

「別に。それより部活は? 朝練あるんじゃないの」

「ある!」

 叫んで、修学旅行みたいなサブバッグを敦の母親に預けてから、順次が外に出る。学校指定の鞄を通学用の自転車のカゴに突っ込んで、半身で振り返った。

「乗るか?」

「いい。朝練ないから歩いてく」

 順次はそうか、と応えて、一気にペダルを踏み込んだ。自転車の踏み込みの、一歩が、重い、のが見ていてわかる。

 猫の額みたいな狭い庭で、メジロが鳴く。枝の先、葉が茂った隙間から、ちらちらと姿が見えている。

 深呼吸して、敦も、一歩を踏み出した。


 授業と休み時間のサンドイッチを繰り返し(昼飯も挟んで)放課後になる。

 敦はざわつく廊下をぼんやりと歩いた。上履きの底が、床の汚れ具合によって滑りやすかったり突っかかったりする。

 旧校舎の廊下は、割れかけたプラスチックみたいな四角いパネルを敷き詰められていて、ひときわよく足が突っかかった。

 軽音部と吹奏楽部の派手な音合わせに顔をしかめ、ヘッドフォンで耳を隠す。騒音を相殺する機能など、この安物にはついていないが、気持ちはずいぶん和らいだ。

 がらっ、と音を立てて、引き戸を開ける。重たくてよくレールに引っかかるのだが、今日はうまく開けられた。

「よお! 敦」

 分厚いレンズ越しに、先客がこっちを見た。机一台と棚が一つ。狭い室内に、パイプイスが三つ、スポンジのへたった丸イスが一つ。丸イスのスポンジはオレンジ色で、けれどかなりいたんで、ともすれば土まみれの大根にも見えた。

「ちわ」

 と、敦は、こんにちはの最後だけ、申し訳程度に口に出した。先にいた先輩は、うむ、と頷いて、また手元の本に目を落とした。

 敦も鞄から文庫本を取り出す。古びてはいるがあまりくたびれていない本。顧問がくれた、歳時記の簡易版だ。集まってくる男子生徒たちにときおり挨拶しながら、敦の目は歳時記を撫でていた。


 俳句、を、読むのは好きだった。

 特に入りたい部活もなく、文芸部はきゃっきゃした女子ばかりで気後れし、古文の教師にくずし字を読むならここがよいだろうと歴史研究会を紹介されて今に至る。

 歴史研究会では喧々囂々、男子生徒が額をつきあわせて何か騒いでいるが、敦はあまり深く話したことはない。部活では、土日に泊まりがけで城跡にのぼったりすることがあるが、敦も気が向けば一緒にのぼった。話さないけれど、そういう生き物だと思われているらしくて、特にいじられたりもしない。たまに、イチ推しの何かを宣伝されるが(刀とか兜とか城主とか家系図とか)、適当に相槌を打っていれば勧誘だけで終わる。

 はまっているものは、特にない。

 去年の誕生日に父親にヘッドフォンを買ってもらうまでは、音楽もほとんど聞かなかった。ヘッドフォンがあっても、ほとんどは無音だ。

 隙間からもれ聞こえる、外の風の音を聞きたい。言ったらものすごいかっこわるくて恥ずかしい気がして言えないけれど、でも、多分、順次や、歴史研究会の奴らは、否定はしないような気がした。

 居心地のよさに甘えている。


 部活時間が終わって、帰ろうとしたら、端末に着信があった。親からの連絡だ。迷子にならないように順次くんと一緒に帰ってきなさいよ。

 順次が一人で自転車で行った学校だ、一人でうちに帰れて当たり前ではないのか。

 そうは思ったけれど、逆らうのも面倒で、初日だけ順次に聞いてみよう、と、部活をやっている辺りに移動した。


 校庭は夕日が眩しくて明るい。

 水飲み場にたむろしていた運動部員たちをよけて、敦は校庭脇の通路を歩いていく。

「何部だったかな……」

 覚えていない。高校は同じだが、クラスが同じになったことがないのだ。まったく分からない。

 しばらくの間、さまよい歩いた。校舎裏まで行きかけたとき、もう一つある水飲み場の前で大きな声が聞こえてきた。

 いわく、どこそこで出会って、気づかいに惚れたとか。あまりにも大きな独り言だ。いや。独り言かと思ったが違う、相手がいる。

 叫んでいる男の巨体に、隠れかけた人。

 男の方は見たことがある。順次だ。

 もう一人は、知らない顔だった。

 順次は告げる。出会ったときのこと、自分が一緒にいたいこと、丁寧に口にして。

「俺と付き合ってください!」

 勢いよく叫んで、順次は頭を下げる。

 すごい。

 ここまでされて、女はこいつを振りにくいかもしれない。

 敦は感心しながら、何とはなしに告白現場を見つめていた。

 自分は傍観者、その、はずだった。

 彼女の目が、ふとこちらに届く。

 敦と一瞬、目が合って。

 ふ、と、笑った。

 柔らかな牡丹の花びらが、外側一枚、離れていくように。

「いいよ」

 あっという間に彼女の視線は順次に戻る。

「いい、よ。君」

 でもね、と、気を持たせる言い方で彼女は告げる。

「私の趣味に一度合わせてみて? たとえばこういう」

 喉を軽くそらせて、彼女は。

「君をおきてあだし心を我がもたば末の松山波も越えなむ」

 順次がぽかんとしている。

 それはそうだろう。普段、日常で、聞く言葉ではなかった。

 淳は、黙って後ずさった。

 今の……短歌?

 国語か何かで見たことがあるような……ないような。

「これにね、返すための歌をちょうだい。そうしたら、考える」

 彼女はことさらにゆっくりと言う。

 本をそれほど読まない、短歌など授業で触れる以外にないだろう順次に、これが分かるわけがなかった。これは遠回しなお断りの言葉なのかもしれない。

 淳は見ていられなくて、その場を離れた。

 順次は、まぁ、たぶんうまく帰ってくるだろう。


 順次と一緒に帰らなかったせいで、母親をかわすのに難儀した。天ぷらのために大根をすりおろしていると、玄関が開閉して順次が帰ってきた。

 見るからにしょげている。

 母親が心配して話しかけるが、部活とかでうまくいかないことがあっただけですからと、順次は上手にかわしていた。

 見ていたことは内緒なので、淳は軽く「元気出せよ」とだけ言う。順次は、おう、と明るく返してから、驚くほど強い目で淳を見やった。見ていたことがバレているのだろうか。淳は後ろめたくもあって、夕食後さっさと自室に駆け込むことにした。

 が。

「淳、ちょっと相談なんだが!」

 駆け込む途中で捕まった。順次に肩を掴まれて、淳はたたらを踏む。

「何、何だよ急に、」

 怒られる……と思いながら振り向くと、順次が、泣きそうな顔で頭をさげるところだった。

「すまん、自分でやるべきだとは分かってる、でもどうやったらいいのか分からん! 助けてほしい」

「何を助けろっていうんだ、前時代的だな」

「頼む」

「お前のそういうはっきりしたとこが……」

 躊躇わずに助けを求められる、そういうつよさが。苦手だと思うこともあれば、羨ましく思えることもある。

 淳はドアを開けた。

「入れよ、何か分からないけど話だけ聞く」


 経緯としては、淳がひっそり聞いていた、あの告白シーンのままだった。

 立ち聞きに気づかれていなくて、良かったような。けれど、後ろめたい気持ちがもやもやして残って、気にさわる。

 は、と、疲れたように順次が息を吐いた。

「それで、三好(みよし)純(じゅん)さんは、短歌を、よむんだと……その趣味に、俺が答えないとならない。俺の国語の点数、普通なのは知ってるよな? お前は国語得意だろう、お前なら作れるよな?」

 そうくるとは思いたくなかった。というか、あの女子は三好純というのか、と意識がそれるのを引き戻しながら、淳は机に突っ伏した。

「返歌とか無茶言うなよ。俺はそもそも作らないし。読むのだけだし、俳句しか……」

「似たようなものだろ!」

「似てるけど違う」

 短歌の方が、幾分ウェットな気がするのだ。五七五と七七の間に横たわるものをうまく理解なんてできていない、けれど、淳にとっては、空に浮かぶ鳥と地面に沈む切削機くらいの違いがある。

 そもそも順次は、最初に純の告げた言葉を正確には覚えていないようだが、……あれは、恋歌だ。

 色恋が多い歌を、敦は、自分でよめるとは思えない。

「あーっ、どうしたらいいんだ? サッカーでも野球観戦でも一緒に出かけられるのに、何で短歌なんだ?」

 何でと言われても淳も困る。

 順次があんまりしょげているので、かわいそうな気持ちと面倒くさい気持ちが泥水みたいに入り混じって、ふいに沈殿した。

「……昔の、他の短歌の引用なら、できるかも」

 めちゃくちゃに喜ばれたので、失敗しても許してくれと、かっこわるい言い訳を繰り返す羽目になった。


「何でこれなんだ?」

 君をおきてあだし心を我がもたば 末の松山波も越えなむ

 ネットで調べると、「君以外の人とくっつくなんて、高い場所の松に波がかかるくらいありえないよ」という意味らしい。

 これを本歌として、「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは」がある。こちらの方が、淳には馴染みがあった。小学生の頃、百人一首カルタを教師が子どもたちに使わせていたので。意味としては「離ればなれになっても、高い場所の松の上に波がかかるくらい、別れるなんてありえないよ」。

 実際には、遠距離恋愛の彼女に振られた男が、歌で有名な父親(清少納言の父)に作ってもらって、彼女に贈った歌らしい。

 波は松山にかかったし、二人は別れた後。

「やっぱり、断られてるんじゃないか」

 適切な返しが思いつかない。

 しばらくネットの海をただよってから、淳は布団に潜り込んだ。


「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは」

 翌朝、これで行け、と、順次に歌を授けた。

 下手な小細工より、順次のまっすぐさが伝わるのではないだろうか。検索したらすぐ出てくるし。


 ついていくつもりも、順次に頼まれることもなかった。ただ、たまたま昼休みに購買に寄った帰り、順次を見かけた。大きな体を、少しかがめるようにして、それから手を打って気合いを入れている。

 昨日と同じ場所で、純と順次は待ち合わせていた。前と違う位置で、敦はこっそり覗き見る。いや、たまたま通りすがっただけなのだが。本当に。

 順次の告白のやり直しを、純は黙って聞いている。

 木々の隙間から、それが見えた。

 純が視線を巡らせて、枝葉を見た。息を軽く吐いて、吸い込んで、それから、ふと、目が合った。

 淳と。

 純が、唇を吊り上げるようにして笑った。

「いいよ」

「そうだよなあ、俺なんか無理……」

 早合点している順次の顔を覗き込んで、純が笑う。

「いいよ。私たち。付き合ってみよう」

 喜びで飛び跳ねる高校生なんて、淳は久しぶりに見た。

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