今日も明日も、食卓を

せらひかり

第1話

 由莉は最近大学生になった。一人暮らし、だ。電車は一時間に一本、の田舎町から、地下鉄まで走る都会にやってきて、あちこちで食べ歩くうちに、塩味が強い都会でぶっ倒れた。

 友人たちには「口に合わないものを全部食べる

な」と叱られたが、絶対に残したくない。何だかもったいないのだ、いろんなことが。

「全部、味わいたい!」

 繁華街に突っ込んでいって怪しい酒を飲もうとしたり、ガード下のラーメン店で知らないサラリーマンに奢られたりすることもある。また、常に新作のコンビニ菓子や人気ファミレスの料理に挑戦していたい、したいのだ。知らない食べ物には挑戦したい! たとえ、好みでなかったとしても。

 そんな自由な日々に、体はあんまり耐えられなかった。

 数週間の入院生活を経て、由莉はたいへん叱られた。当然だが。

 でも、由莉だってこんなことで倒れるとは思わなかったし、死にたくないし、実家に連れ戻される前に、親から付けられた条件を、飲むより他に手はなかった。

 ……そう、なかった、のだ。


「おじさん、ご飯は?」

 あるマンションの一角。由莉は勝手知ったる他人の家にあがりこむ。

 おじさんと呼ばれた男は、疲れ果てたサラリーマンみたいな顔をしているが、まだ大学生だ。

 従兄弟の、淳くん。親の提案は、従兄弟同士、互いの食生活を管理し合うこと、という、管理社会の実現であった。

 従兄弟の順次くんも近くに住んでいるのだが、料理がひたすら大盛りなのでご相伴に預かりにくい。その点、淳は違う。それほど大量に食べないし、季節の野菜とか肉と魚のバランスがいいので、淳の親からは「味はまあまあだけど、栄養は何とかなる」と太鼓判(?)を押されている。

「おじさんじゃないし」

「趣味がおじさんじゃん」

 本棚にはわずかな文庫本。俳句とか歳時記とか、由莉にはよく分からない。

「そんなこと言ってると、何も出さない。帰れ」

「ええー! ひどーい」

 いっとき、食べるのが趣味だった由莉は、今は逆にあまり量を食べられない。ゆっくり食べる。腕や顔つきは異様に痩せてしまって、そういう、しんどそうな子を、淳が放り出さないことを、由莉は最初から知っていた。ごめんね、ずるいけど、でも、ここのご飯は美味しいのだ。米が違う。パンだって、近所の早朝から開く、古いパン店のものだ。どこから見つけるのか、淳は、しれっとこういう美味しいものを見つけてくる。由莉は知っている。ここにはぴんとした小松菜とか丸くって甘いトマトがあるし、味の薄いトマトは砂糖醤油浸けのテクニックで美味しくされる。


「卵焼きは、何味がいい?」

「淳さあん!」

 由莉が喜色満面になると、淳が顔をしかめた。

「れーこ叔母さんに頼まれてるからな」

「なぁんだ」

 分かってはいることだ。でも改めて面倒くさそうに念押しされると少し傷つく。

「ほら、座ってないで皿ぐらい出す」

「はぁい」

 甘えられる相手がいて、由莉は心が緩んでくる。

 皿を出してコップを並べ、冷蔵庫から麦茶を取り出す。麦茶のパックが沈んだままの細長い透明な容器に、浄水器(掌大の小さなものだが、なぜか取り付けてある)を通して水を足した。

 卵が割られて、手早く混ぜられる。

 そういえば、卵の味付けについてリクエストするのを忘れていた。

 見ているうちに、卵は柔らかく火が通っていた。丸く広げられたそれは、皿の上にぺたりと乗る。

 続いてフライパンに冷凍庫から出された冷やご飯が投げ入れられ、適当にケチャップや何かが追加された。

 完成したのは、卵が下の、オムライスもどきだ。

「なるほど手抜き」

「うるさいから黙って食べろ。待て、座る前にこれ」

 キャベツをスライサーで刻まされる。カサの減ったいろいろなドレッシングは、由莉が持ち込んだものだ。少しでも新商品があると挑戦してしまう。一人では使いきれないソース類も、従兄弟の家に置いておけば何とかなる。たまに順次も来ているので、大量に食べられるのだ。


 呼び鈴が鳴る。淳はお茶をいれているところで、キャベツを刻み終えた由莉のほうが先に玄関に出た。

 のぞき窓の向こうに人影がない。チェーンロックをかけたままドアを開けると、少し離れたところに、すらりとしたパンツスタイルの女性が立っていた。

 誰だっけ。

「あら」

 ふと眠たい子猫のように目をすうっと細めて、彼女はこちらを見た。

「おんなのこ。お名前を聞いても?」

「あっはい」

 誰、だろう。分からないまま、口が動いた。

「えっと、私は由莉です」

「あぁ。従姉妹の女の子。聞いてる」

 にこ、と微笑みかけられて、少しぞわりとした。何だろう。

「うわ……来たんですか」

 淳が声を投げてくる。女性はチェーンロックに指先をかけた。

「どうして? 何かおかしい? 同じ部活仲間じゃないの」

「それはそうなんだけど。由莉、ロック開けていいから。冷める前に食べて」

「えっでも」

 ためらう気持ちが、由莉を振り向かせる。淳がため息をこぼして、片手でロックを解除した。

「三好さんも、飯はまだなの?」

「まだ」

 ため息の数が増える。

「オムライスもどきならあるけど」

「いただいてもいいの?」

「また野菜ばっかり食べるよりは、ましでしょ」

「そうね。順次くんは?」

「今日は来てない」

「いい本があるんだけど」

 さっと、女性は本を取り出す。帆布のざっくりとしたバッグ。外から見てもごつごつとしている。まさか、全部本が入っているのだろうか。

 淳の目が少し輝いてから、はっとして、キッチンへ引き返した。

 何だ、本なんて。

 由莉は、入院中にもらった絵本や写真集のことを考える。

 元気になったら、いろんなところに行こう、楽しいことがたくさんある、そう思いながら過ごした。携帯端末の持ち込みは制限されていなくて、でも端末より画面の広い雑誌はぼんやりと見るには気が楽で。

(あっ、まずい、な)

 気持ちがおちると、不安が強くなる。

「由莉」

 手を掴まれて、我に返った。

 従兄弟の、無理のない誘導に従って椅子に座る。少し冷めかけたオムライスは、ケチャップが薄くて味が物足りなかった。


 ときどき、従兄弟の家であの女性に出会うようになった。季語の話をするから、俳句仲間なのかと思ったら、短歌、だそうだ。

 長さ以外にも違いがあってね、と、楽しそうに語られたけれど、由莉はこのときパスタの上に転がしたプチトマトをフォークでいかにつかまえるのか、に夢中で、あまり聞いていなかった。昼ごはんを三人で食べていても、大半は淳と三好さん、が話している。

「帰る、ね!」

 皿も洗わずに席を立ち、由莉はばたばたと部屋を出た。


「あら。お邪魔だったかしら」

 室内で、三好はお茶を口に含む。

 向かいの淳は眉をひそめた。

「……わざと?」

「何のこと?」

「今まで、こんなにうちに来たことないのに。由莉のこと、気に入ったんです?」

「ふふ。口数が多いの、初めてじゃない?」

 はぐらかされた。

 淳はプチトマトをフォークで突き刺そうとして、由莉の皿に吹き飛ばした。

「あんまり、いじめないでやって」

「誰を?」

 三好はしごく楽しそうに、ゆっくりとお茶を飲みほした。


 由莉はひたすら歩いていた。電車に乗ればすぐだが、今日は歩きたい気分だった。

 下ばかり向いていたが、植え込みの花が目にとまる。ときどきは、小鳥の姿も。

「あ」

 そこそこの都会であるこのまちにも、鳥がいる。植え込みからあがった小鳥の気配を追って空を見る。ツバメが、空を切り裂いて、これ見よがしの速さでもって飛び回っていた。足元にはスズメ。胸元の、白いはずの羽が、灰色に染まっている。都会のスズメとでもいうやつだろうか。

 携帯端末付属のカメラでは間に合わない。小鳥はさっさと飛んで逃げる。

 胸がむずむずする。

 とっさに淳に連絡しようとして、あの女性のことを思い出してやめた。

 何だか、よく、分からないのだ。人見知り、みたいなものだろうか。あのひとは何なんだろう。

 実はカバンに、あのひとから貰った本がある。薄い文庫本。短歌百選みたいなものだ。なぜ、くれたのか。由莉が聞いたときには、彼女は薄く笑って、友達になれるかなって思って、と言ったけれど。

 まだ、そんなことは分からない。

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