彼女の樹木

風岡なつ

彼女の樹木

 プロポーズ後の日曜日はもっと甘いもので然るべきだと、大森奏太は思う。

「いいところですねえ。空気がおいしい! 」

「やはりどのお客様にも環境面ではお褒めいただけますね」

「なんか清い! って感じですもん。ね、あなた。地元と同じにおいがする」

 初夏の陽光の中、振り返る妻は文句なくかわいい。

「ああ、そうだね」

 奏太のおざなりな返事を気にも留めず、夏帆はプランナーとはしゃいでいる。

「あ、やっぱり海のにおいもする! 」

「オーシャンビューもこちらの大きな特徴ですかね。ほら、あそこからなら」

 広い庭園を先ゆく女性二人は見る見る奏太から遠ざかってゆく。多少なりともヒール靴を装備しているにもかかわらず、彼女らはどうしてそんなに機敏な動きが可能なのだろう。

「わあ! 」

 夏帆は目の前に広がる碧に歓声を上げた。その空と海、雲のコントラストに奏太も思わず息をのんだ。

「素敵素敵! わあ、いいなあここ」

「一生もののお買い物ですし、私どもといたしましてもやはりお気に召されたものが一番だと思います」

「ね、あなた」

「ああ、わかったよ。夏帆の好きにしていい」

「ありがとう! 大好き! 」

 首に飛びつく夏帆を受け止めた奏太は、その肩越し一面に広がる墓石に頭を抱えたい気分だった。俺は今人生で最大の墓穴を掘ったかもしれない。いや、現在進行形で掘り続けているかもしれないのだ。


 常識人でてきぱきと手際がよく、天真爛漫に見えて気遣いが上手い。そんな彼女だから好きになったし、結婚しようと思った。 

 プロポーズだってホテルの最上階のレストランで、なんて豪勢なものではなく、夏帆の誕生日に八畳の我が家でだったが、泣いて喜んでくれた。

 お互い堅実な方だから貯金は十分すぎるほどあったし、結婚式で悩むとしたら日程調整と式場選びくらいだと思っていた。

 すでに式を挙げた友人からは式場選びが大変難儀な行程であることを忠告されていたが、夏帆と一緒ならば退屈しないと踏んでいたし、覚悟はあるつもりだった。

 だからこそ、想定外だったのだ。

 プロポーズから一ヶ月、日曜用事ある? という問いかけと共にこたつに並べられたパンフレットやチラシの数々が。

「あの、夏帆さん? これは?」

「見てわかるでしょ? お墓だよ」

「えっと、なぜお墓? 俺たちは入籍も式まだだよな」

 煮詰めたようなブラックの珈琲をすすると夏帆は真顔のまま続けた。

「いや、人生を共にするなら後の住処が必要かなって」

「後の住処ってそういう意味じゃないと思うんだけど? 」

「まあまあ」

 奏太がミルクをたっぷり入れたカフェオレを混ぜているうちに、夏帆は珈琲を一息で飲み下した。

「最後を決めちゃえば私と一生一緒っていう覚悟も固まるでしょ? さあ、霊園巡りしよう! 」

「えええー、嘘だよな? 」


 結論から言えば、夏帆はいたって本気だった。

 毎週のように首都郊外の霊園巡り兼ドライブデートは敢行された。霊園はどこも比較的緑の多いところにあるので、郊外にのんびりしに来ていると思えば案外それも悪くない。

 日溜まりの中の夏帆の背中に羽が生えているようだと伝えたら笑うだろうか。それともまじめな顔で病院行きを提案されるだろうか。

「通常のゾーンはここまででして」

夏帆はプランナーの後をとことこと忠実について行く。

「こちらの方からは新しくまだ計画中のスペースなのですが」

 ツタを人工的に這わせた白いアーチをくぐると、森の中に突如公園が現れた。ここからは広葉樹に遮られ、海も墓石の群も見えない。

「ここは? 」

「樹木葬のための場所となりますね」

「じゅもくそう」

聞き慣れない言葉に思わず口に出すと、夏帆も同じく首を傾げていた。

「墓石の代わりに樹木を墓標としてお使いいただく埋葬方法です。通常よりお求めやすい価格でご購入いただけます」

「なるほどー」

「まだあまり一般的ではないので、樹木葬が可能な霊園は少ないんですよ」

「木は? 樹木葬の木は好きなのを選べるんですか? 」

 食いついた夏帆に奏太は嫌な予感を感じた。好奇心旺盛で新しいもの、人と違ったものが好きな彼女にとってはあつらえたような埋葬方法過ぎるだろう。本人は当分死ぬ気はないようではあるが。

「ええ、もちろんです。桜がやはり人気ではありますが、ヤマツツジやサルスベリ、バラなんかを希望される方もいらっしゃいます」

「ふーん」

 彼女の口角がわずかに上がっている。その危険なシグナルを、奏太は見て見ぬ振りをした。


 少し散歩させてください、という彼女の要望に、プランナーは営業用の笑顔を張り付けたまま建物の方へ帰って行った。どう見ても冷やかしの新婚二人に真剣に話をしてくれた彼女には足を向けて寝られない。

「ねえ、奏太くん? 」

「はい? 夏帆さん」

 やっと隣に戻ってきてくれた夏帆は上目遣いで奏太と目を合わせた。

「私ね」

「ん? 」

 彼女は健康体だと聞いていたが、ここで不治の病の告白でもされたらどうしようかと思わず身構える。だから結婚式の前に霊園巡りだったのか。入籍を遅らせようとしているのか。これまでは全部伏線で、ここから転換が始まるのだろうか。

「どうした? 」

声が心なしか震える。

「どうしたはこっちだよー。そんな怖い顔して」

夏帆は奏太の心配をよそに歯を見せて笑った。

「奏太が死んだらね、梅植えてあげる」

「先に死ぬの前提かよ。しかも選択権なしかよ」

「その梅でね、梅酒作って墓前に供えるからね」

 そういえば彼女は梅酒が好きだった。酒にはめっぽう弱いが梅酒だけは真っ赤になりながらけたけた笑って飲むのだ。

「お前が飲みたいだけだろ。梅酒って作れるもんなの」

「お母さんが昔作ってるの見たことあるよ」

「不安だなあ」

「予習しとくから、任せて。君は安心して死にたまえ」

 おどける彼女の瞳は、光を受けてこれまで見たこともない優しい色に光っていた。

 


 その日も朝から雨だった。

 天気予報が梅雨入りを告げて一週間、東京は灰色の厚い雲に覆われていた。

 有給をとったのでゆったりと起き、珈琲を入れる。キッチンの床下収納から忘れずに小瓶を取り出す。飴色一歩手前に色づいた液体ににんまりとし、鞄に詰め込む。お気に入りだったグラスも忘れずに。

 昼前の電車は妙にがらりと寂しくて、哀愁に浸りかけてしまうからいけない。目的の駅に着いたら即座に脱出することにする。

 おみやげ物とみかんが並べておいてあるような売店を横目に、バス乗り場へ向かう。もう少しで、君に会える。

 季節のせいか、誰一人としてすれ違うことなく君の待つ場所へたどり着いた。ビニール傘越しにその緑を見つめる。ひさしぶり。また、来たよ。

 保冷バッグから取り出した溶けかけの氷をグラスに投げ込み、小瓶の中身をゆっくりとあける。とぽとぽと音を立てる梅酒は、いつかの彼女の瞳の色によく似ていた。

 グラスを根本に置き、奏太もそばに座り込んだ。

 酒弱いから普段は絶対させないけど、今日はロックだぞ。味わって飲んでよ。梅酒、作るの大変だったんだからな。一年ものだぞ。まだ味見してないからおいしいかはわかんないけど。

 梅の木は何も答えず、ただそこで雨を受けている。

「夏帆」

 口に出すととたんにむなしくなって、奏太は目をきつくつむり芝の上に寝ころんだ。

 彼女のことだから覚えてもいないかもしれない。でも俺は、忠実に約束守ったからな。順番は逆になったけど、守ったからな。

 奏太は瓶から直接梅酒をあおった。鼻から抜ける香りと、体の芯がじわりと甘く痺れるような感覚。こればかりは彼女がいなくなる前も、後も、変わらない。

 本当は君が作った梅酒をここで待ちたかったと言ったら、君は怒っただろうか。君に捧げられた酒を前に、泣く君を見たかったなんて言ったなら。

 生ぬるい風が、梅の木の葉をなでた。つられて奏太が顔を上げると、今年も少なくはあるがしっかりと、緑色の実が実っている。

 この実には、毒があるらしい。下手をすると人を一人殺せてしまうほど強い毒が。奏太がそれに手を伸ばすと、梅の木は再び大きく揺れた。

「ばか、かじったりしないよ」

 奏太は笑いながらその実をもいだ。

 彼女の言葉は本当だった。見事に俺は縛られてしまった。“後の住処”なんて決めたのが運の尽きだった。容易く彼女の後を追うこともできなくなってしまったのだ。

 また俺は梅酒を作るのだろう。きっと何年も何年も、作り続けるのだろう。彼女が約束を忘れても、ずっと。

「じゃあ、また」

 奏太は梅の木に背を向けて歩き出した。

 酒に酔って笑う彼女の声が、風音の間に聞こえた気がした。

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彼女の樹木 風岡なつ @suzu_lan

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