人魚の娘

七歩

人魚の娘

百人一首アンソロジー「さくやこのはな」参加作品です。

http://sakuyakonohana.nomaki.jp/

〇九二(二条院讃岐)

わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし


アンデルセン童話人魚姫のオマージュ作でもあります。


                *


 頭をよぎったのは古の物語でした。

 人に恋してはいけないよ。そんなことをすれば必ず不幸せになる。泡となって消えてしまったあの哀れな姫のように。

 言い聞かせるように物語を伝える大人たちには叱られてしまいそうな、いつもと違う夜でした。

 

 秘密の入り江に船が一隻、頼りなげに漂っておりました。ここはどんな人魚も訪れることのない忘れられた海。私さえ知らんぷりを決めこめば船は哀れ、魔鯨に喰われる運命さだめ。自然の摂理。それでいいと思いました。人に関わるなど滅相もない。船に背を向け家路についたその時のこと。

 それは儚くも美しく響いたのです。イルカの歌声を珊瑚と例えるならばそれは海月と例えられるでしょう。やわらかな歌声が水面を震わせ、私を引き止め手招きするのです。抗うすべもなく私は船へと引き返しました。

 船には大きく穴があき、勢いよく水が流れこんでいます。もうそう長くはないでしょう。人々の嘆きや怒り、すすり泣く声。みな船が沈むことを受け入れられずにいる中、現状に不似合いなその歌は優しく響いておりました。

「大丈夫。落ち着いて」

 歌い終えると歌い手は周りの人々に声をかけ始めました。私は驚きました。大丈夫なことなどなにひとつありません。人間は海水の中ではそう長くは生きられないと聞いています。死に瀕したこの状況で落ち着いていられる方がおかしいのです。さらに傾く船。もうこれ以上は持ちません。やがて船は真っ暗な海底へひとのみにされていきました。

 たくさんの人や物が沈んでいきます。抗う間もなく次々と渦へ巻き込まれていく。そんな地獄を眺めながら私はうっかり思ってしまったのです。あの歌がもう一度聴きたいと。

 沈みゆくものたちの中からたったひとりを探し出すのは簡単なことではありませんでした。それでも私にとってあの歌はそれだけ失いがたいものだったのです。禁を犯すことになることを知りながら抗うことなどできませんでした。

 魔鯨が全てを飲みこんでゆくその最中、私はただひとり彼女だけを救い出したのです。


 安全というにはあまりにも心許ない場所でした。陸に上がれぬ私が彼女を運べたのは船着き場に繋がれた小舟の上。この浅瀬であれば魔鯨は泳ぎ着けません。

 美しい人でした。人というものが元々そういうものなのか、それともこの方が特別なのか。人間と触れた経験のない私にはわからないことでした。金色の巻き毛の絡まりを解くように整えて差し上げることしばし、南国の海のような碧の瞳がいつのまにやら露になっておりました。

「みなさん落ち着いてください」

 夢の続きでもするようにむくりと上体を起した彼女。夢の続き、いいえ悪夢の続きでしょうか。しばらくののち、恐らくことの次第を察したのでしょう。

「申し訳ありません。他の方々は」

 青ざめた彼女が絞り出すように静かに私に問いました。

「皆様海へ」

 そうお答えいたしますと、そうですかと消え入るような声で答え彼女はぽろぽろと涙をこぼしはじめました。それはまるで、美しい真珠のようでした。


 数日が経ちました。

 船着き場近くの小屋を整え住み着いた彼女はあの日以来涙を見せません。毎日この地を訪れる私に微笑み、あなたの歌があまりにも美しいから助けたのだと伝えるとお礼に歌ってくれました。

 穏やかな日々。この頃になると、仲間たちの中には薄々何かを気づきはじめた者もいたようで、それとなく窘められることが増えました。

「人と関わると不幸になるわ」

 人間との関わりを持たない人魚たちが、関わりを持つ私にそう言うのです。人魚たちは知りません。あの美しい歌も、涙も。私はそれを哀れに思うだけで、忠告に耳を貸すことなどまるでありませんでした。


 さらに数日。水草から気泡が放たれるようにぽつりぽつり。彼女があの頃のことを少しずつではありますが、話すようになりました。

「あの日、船にはたくさんの使用人たちが乗っていたの。私をお嬢様と呼び誠心誠意仕えてくれていたというのに私は誰一人救えなかった。私は主なのに守るべき使用人たちを殺してしまった」

 悲しそうな瞳。そんな時は優しく抱きしめてお慰めするのですが、人魚の身では岸辺に腰掛けるのが精一杯。自分から彼女の扉を叩くことなどできません。もっと近づきたい。そう願ってもままならないもどかしさに人魚のこの身を恨めしく思いました。足があればあるいは。古い物語が頭をよぎります。魔女はあの頃のまま今も海底の一番深いところにいる。

 その日、彼女と別れたあとで私が向かった先は他でもない、海の深い深いところでした。


「不幸になるよ」

 海底を這うような声で言われ、なんともいたたまれない気持ちになりました。古の物語の立役者。魔女はあの頃の唯一の生き残りです。

「それでも足を望むのか」

 あえて問われると困ってしまいます。人魚の体を恨めしく思いはしましたが足が欲しいわけではありません。私の願いはそこにはありません。今よりもっと彼女の近くに自分から赴きたい、そう願っているだけなのです。

「私はただ彼女の側にいたいだけなのです」

「あの子もそう言っていたよ」

「私はただ彼女が好きなだけなのです」

「あの子もそう言っていたよ」

 咎めるような雰囲気はありません。どこか懐かしむような魔女の言葉。

「足をやることはできる。けれどそれは不幸せを招いたことのある魔法だ。ようく考えることだ」

 老いた魔女はそう言うと、私を追い立てるように水煙草をぷかぁとふかしました。


 翌日、いつものように私は彼女の元へと向かいました。すっかり覚えた歌を歌って待っていると、扉を開けて私のところへお茶を運んでくれました。

「紅茶もこれで最後になるわ」

 漂流物の中から使えるものを拾い上げ、彼女は暮らしておりました。

「失うのはもうたくさん」

 そう言ってカップの中をじっと見つめます。揺れる水面に彼女が見たものが何であったのか。私の想像は当たらずといえども遠からずといったところではなかったでしょうか。

「街に帰ろうと思うの」

 それはいつかきっと言い出すであろう思っていた言葉。あらかじめ受け入れる準備をしようとして何度もはぐらかしてしまっていた台詞がいたく心を抉ります。

「これまで本当にありがとう。種族の違う私をこんなにも優しく受け入れてくれて。ありがとう。あなたはとても優しい人魚なのね」

 そうではありません。私が彼女にしていたことの全ては決して優しさからなどではありませんでした。

「あなたとの友情は忘れないわ」

 そんな名前をつけるのであれば忘れてしまえばいいのです。

 私はあなたに恋をしている。

 握手を求め差し伸べられたその手はさよならの形をしていました。けれどその手をどうして振り払うことなどできたでしょう。それが彼女の旅立ちを応援することになっても、彼女との友情を肯定することになっても。どれだけ私の意にそぐわないとしても私にその手を、彼女を拒むことなどできなかったのです。

 

 そうして彼女は私の前から姿を消しました。

 記憶というものは薄れていくものだとばかり思っていましたが、そうではないものもあるということを私ははじめて知りました。あの歌声を、碧の瞳を、白い指先を。なにひとつ忘れることなどできません。彼女の側へ行きたい。そのためにはどうしても魔女の助けが必要です。人魚であればなにがしかの対価をもってひとつだけ魔法を買うことができる。古の姫が足をもらったそのように。

 私は魔女の元へと向かいました。

「やはりきたか」

 魔女には全てお見通しのようでした。

「どうだ。お前は何を望む? やはり足でも望むのか」

 まるで昔話の一節のように魔女は私に問いかけます。

「足はいりません」

 にやりと笑って魔女はその首を大げさに傾げました。

「ならなんだ」

 面白くなければ動かぬぞと私の答えを待ちわびる魔女。面白いかどうかなど私にはわかりません。けれどもこれしかないのです。望みとは考えあぐね導きだす答えではなくただそれしかないもの。私にはそれしかありませんでした。 

「あの人の側においてください」

「だいそれた願いだな。その願いを叶えるために意地の悪い魔女が要求する対価が何かわかるか」

「声ですか」

「そんなもので足りるとでも思ったのか。古の姫は大層声が美しかった。お前の声では対価にならぬ。お前の中で一番美しいものをいただこう」

「私の中で……一体なにをお望みですか」

 どんなものでも差し出すつもりでした。側にいられるなら他にはなにも望まない。話せなくとも聞こえなくとも構わないとそう思っておりました。

「お前に望むものは……」

 それは思いがけない要求でした。魔女が慈悲をかけてくれたとしか思えないような優しい対価に私は感謝しました。なくしたとしても彼女の側にいられさえすればすぐに蘇るとはじめからわかっているようなものですから何も怖くはありません。そして何よりそれが私の中で一番美しいものと認めていただけたことが嬉しくてたまりませんでした。



 人魚の娘がその後どうなってしまったのか。海から消えた娘の代わりに続きは私が語ろうか。

 魔法による制約通り人魚の娘はずっと、恋した人間の側にいた。苦しいこともあったそうだが人魚のままで幸せな最期を迎えたと水の噂で聞いた。

 娘といいかつての姫といい、なぜ私に「恋の成就」を望まぬのかとその愚かさを嘲笑わらったものだが、それは娘から対価としていただいたものを眺めていたなら少しは理解できるような気もした。

 望んだ対価は「恋心」。あの平凡な娘の中で唯一美しく輝くもの。娘の恋心は全て結果でしかなかった。あの人間との関わりの結果が恋。ならば何度でも芽生えるのは摂理というもの。娘が娘である限り、あの人間があの人間である限り生まれ続ける。邪魔立てする存在が、現象が、現われない限りずっと。

 成就しさえすればいいというものでもないのだ恋は。

 私は古の物語を思い出していた。人魚の姫の幸せを願い足を授けた。対価と言い訳して一番好きだった声を奪ったのは嫉妬からだったのかもしれない。恋に恋だと名前をつけることもできずに海の奥底でずっとずっと泣いていた。石のように頑なな恋に縛られ、姫を、物語を不幸せに導いたのは他でもない。他でもない私。

 成就しさえすればいいとそう思っていた。だからこそ成就しない恋に向き合えずにいた。対価としていとも簡単に放り投げた恋心が、古から続く私の呪いを解く魔法になったことなどあの娘は知らない。


                                                                         【終】

 













  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

人魚の娘 七歩 @naholograph

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る