金魚回遊

かしはら

第1話

    一


「新鮮だよ、オイシイよ」という間抜けな声を聴き、振り返ると、金魚すくいの屋台の兄ちゃんと目があった。

「うお、何やお前、来てたんか」薄暗い屋台の庇の下で、高校時代の友人である豊田が眼を丸くさせた。興奮したのか、妙に声が甲高い。「客が全然来ないから、なんかヘンな事言って客寄せしようと思ったら、まさかお前が来るとは思わんかったわ」

「そりゃこっちのセリフだわ」思いもよらない場所での再会に、こちらも内心興奮気味で早口になる。

「え、豊田お前、なんでここに居んの?」

「バイトを紹介されて、金魚売ってる」

「売ってるて、なんじゃそりゃ」と首を傾げながら、動揺はおさまらず、互いに指を差し合ってハッハッハと笑った。

「お前こそ、なんでわざわざ来たん?」

「いや、ちょっと桜を見に……」と口に出してから、しまったと後悔した。いちいち理由を穿鑿されるのが、やましい事は何もないにせよ面倒なことに思われた。が、内心の懸念とは裏腹に、豊田は「ああ、あそこの桜なあ」と済ませたので助かった。


 前日の夕方に見かけたニュース番組で、桜ノ宮の造幣局で「桜の通り抜け」なるものが一般公開されている、という事を知った。そんな催しはついぞ耳にしたことは無かったが、さも名物行事のようにリポーターが紹介しているのを見ると、どうやら関西圏の人には馴染みの行事らしい。

 この時期にこの催しを知ったことは、自分にとっては好機のように思われた。というのも、知人からの勧めで西行の『山家集』を読んだことで、桜に対する興味が俄に湧き上がっていた所だった。昔は花と言えば桜を、しかも多くはヤマザクラを指す事を知り、ぜひ実物を観てみたいと思ったが、自分の住んでいる兵庫から吉野まで足を運ぶのが中々億劫に感じられ、自分の中で桜を見たい感情をなあなあにしていた。

 そんな所で、案外近い所で様々な桜を観覧できる事を知って、見て見ぬふりをした感情がまた沸き起こり、居ても立っても居られずに家を飛び出したのが今朝のことだった。

 造幣局へのアクセスをろくに知らないまま、名前に釣られて環状線の桜ノ宮駅を降りた所でスマートフォンで調べると、駅の南に流れる大川に沿って一キロほど下った場所にあることを知って、げんなりした。

 夏日かと紛うほどの暑さで、駅のまわりには、信じられないことに半袖姿の人が幾つか見られ、おそらく花見の客だろうと思われた。つい数日前まではコートの襟をかき合わせて外出していたことを思うと、何か幻を見るような心地がした。

 橋を渡って南側の河川敷に降りると、まばらな花見客の宴会の先に、屋台が道の両側にずらっと並んでいるのと、山のような人だかりが見えた。近づくにつれて、屋台の鉄板から立ちこめる煙や人いきれ、飛び交う客寄せの声がない混ぜになって、息苦しいような感じがした。川に浮かぶ船上から、和太鼓や篠笛の祭り囃子が流れてくる。

 人混みをかき分けかき分け、ふと道が開けて一息ついていた所で、豊田に声をかけられたのだった。


「しかし、まあ」と俺は周りを見回した。「造幣局の隣で、屋台がこんなに並んでるとは思わんかったわ」

「造幣局の入り口んとこまで続いてるで」豊田が川下の方を指差した。屋台が続く先に橋があり、土手を上がる階段に人が殺到しているのが見えた。

「今は混んでそうやし、ちょっと中で休ませてもらっていい?」返辞を聞く前に、俺は金魚の水槽を回りこんで、屋台の中に入る。豊田がパイプ椅子を出してくれたので遠慮なく座った。向かい側の屋台、チキンステーキ屋の暇そうな店員が、こちらをじっと見ている。知らん奴が来おったぞ、とでも言いたげに眉を曲げているのには、見ていて萎縮しそうになる。

「ココらへんの屋台は、みんな同じ協会に所属してるから、顔見知りが多いんだって言ってた」豊田も横に座り、向かいの屋台の看板を眺めているようだった。「だから俺とか、お前みたいな新参はジロジロ見られるんやろうなあ」

「おい、勝手に俺をテキ屋の店員と一緒にするなや」と抗議したが、陽の下に出る気にもなれないので、暇そうな金魚屋の盛り上げに頼まれもしないのに一役買うことにした。

 とはいってもやる事といえば、通りすがりの人に「金魚すくいはいかがですかあ」と呼び掛け、時々手を叩いて往来の注意を惹きつけるくらいしかないので、自然俯きがちになって、金魚の泳ぐ水槽をじっと見つめていた。

 平べったい水槽の中に、数百匹の赤や黒の金魚がごちゃ混ぜになって、ヒレを微かに揺らめかせていた。水槽の中心に置かれた、用途不明のパイナップル缶の周りを囲うように、動きまわろうとはせずに一定の場所を浮かんでいるので、生きているのかどうか判らない。時々思い出したかのように、全然違う向きに泳いで行ったりすることもあるが、全体の様相はあまり変わらない。

 凪いだ水面に指を当てて波紋を広げても、金魚は関心を持たず、ただ一心に浮かび続けている。人差し指を付け根のあたりまで沈ませてみた。近くに浮かんでいた連中は、さすがに指から素早く離れたが、その周辺はやはり微動だにしない。

「金魚ってさあ、もしかしたら阿呆なんちゃうかって思うねんけど」唐突に豊田が話しだしたので驚いた。

「どの辺が?」

「たまにな、自分の吐き出した泡を、餌だと勘違いしてまた食べる事があるねん。その度に、うわマズっ! て顔しながら泡を吐き出すんやけど、ほらそこ」豊田は水槽の隅を指した。「そこのデメキン、泡吐いたやろ? ちょっと見てて」

 水槽の角を向いて漂う出目金魚の鼻先に、小さな泡の集まりが浮かんでいるのが見えた。それを瞬く速さで出目金がぱっくり食べると、しばらく口をもごもごとさせて、ぱっと泡を吐き出した。

「ほら、見たやろ?」と豊田はなぜか得意気だが、彼が言うような「マズそうな顔」には見えなかった。阿呆なのかどうかも分からない。人間の定規で測れば、どんな金魚だって阿呆なのではなかろうか。

 漂う泡に、今度は別の金魚が食らいつき、そして吐き出した。


    二


「すいません」と頭に声をかけられた。幼稚園くらいの男子の手を引いた女性が立っていた。「一回だけ、お願いします」

「はいどうぞ、遊びでいいですか?」スマートフォンをいじっていた豊田が立ち上がり、地面においた段ボール箱をまさぐった。

「遊びだけで」

「はいはい、じゃあ三百円ですね」

 豊田はパイナップル缶に積まれた器を取り、水を少し入れて水面に浮かべた。段ボールからポイを取り出して、「はいどうぞ」と子供に渡した。

 初めての経験なのだろう、ポイを受け取った手を固めたまま、緊張に口を結んで動かなくなった。心なしか、頬が赤くなっているように見えた。後ろから女性が「ケイくん出来る? ほらやってみよう」と子供の腕を取って、ポイをゆっくり水面に沈めた。そこでやっと子供の表情が緩んだように思われた。母親に腕を任されながらも、金魚の動きを真剣に見つめている。

 ナマクラな金魚も、さすがに掬われるのは御免なのか、水中を這うように移動するポイから、一目散に離れていく――と思えば、水面ギリギリに浮かんで動こうとしない、ナマクラの中のナマクラがいる。口も半開きのままで、寝ているのか起きているのかわからない。母親はどうやらそれを狙っているらしく、呑気に口をパクパクさせる金魚の腹の下で、掬い上げる機会を伺っている。

「あーその金魚は阿呆やから狙い目やなあ、取れるかなあ?」豊田がしゃがみ込み、真剣な子供の顔を覗いた。随分子供慣れした風で、それが意外に思った。

 子供の腕を操りながら、女性はどうにかして金魚を掬おうとするが、紙の端に掛かっても寸前のところで逃げられてしまう。その度に女性は顔をしかめて、んーんーと唸っている。

 次第に子供のほうが退屈になってきたようで、「お母さん、自分でやる」と言って母親の手を振りほどいた。そこで女性もはっとしたようで、目を逸らして苦笑した。

 子供らしく闇雲に金魚を追いかけて、水の抵抗に負けて紙が破れてしまった。水の滴る破れたポイを目の前にあげ、物悲しそうな顔をする。切なくなって、もう一つオマケしてやりたい気持ちに駆られたが、豊田が「あー残念やったなあ、また来てな」と子供の頭をぽんぽん叩いて、さっさと見送っていったのがまた意外に思われた。

「お前、子供が好きなんか嫌いなんかわからんな」俺は首を傾げた。

「一応、商売やからなあ。破れたポイも後でちゃんと数えなアカンし」豊田は一仕事終えたとでもいう風に、よっこらせとパイプ椅子に凭れて、大きく欠伸をした。「子供は好きでも嫌いでもないけど、扱うのは得意やで」

 一人っ子の豊田が、何処で子供に慣れたのかが気になったが、聞かないことにした。

「ところで、これ」俺は気になっていた水槽の缶を指差した。「この缶々は何なん?」

「ああこれ? 金魚の墓場」

「墓場?」思わず目を開いた。

「そう、中に死んだ金魚を入れてんねん。捨てる場所ないから今のうちだけ。中見てみる?」と器を持ち上げようとしたので慌てて止めた。背中に嫌な汗をかいた。


    三


 中天に差し掛かる太陽は爛々と輝いて、春の陽気にそぐわない照りつけ様だった。

 時間を見計らって俺は造幣局の門へと足を運んだが、運んだだけですぐに引き返した。造幣局の南門には、期待を大きく裏切る山のような人だかりが出来ていた。門の横で警備員が拡張マイクで誘導する喧しい声が響き、それを無視して我先にと入り口に詰め寄る人々の姿を前に、中の様子が思いやられて入っていく気が失せてしまったのだ。

 勇んで出て行った俺がすぐ帰ってきたのを見て、豊田が意外そうに目を開いた。

「おお、早かったな。どうやった?」

「行くんじゃなかった」俺は頭を垂れた。「散々な目にあった。暑いし、途中で抜けてきたわ。ここからでも少しくらいは桜が見えるし、それで我慢するわ」

「ふーん、そうか。そもそも、なんで花見に行こうと思ったん?」

「テレビで紹介されてたから気になって」と適当に返し、向かいの屋台の上を見た。青葉の陰に、微かに桜の花がちらついて見える。

 俺は造幣局内のむさ苦しい人混みと、その上で屹然として咲く桜とを思った。――しかし、この暑さは一体なんだろうか。時期外れに咲く桜を「狂い桜」と言うらしいが、今日の場合は、見ているこちらが狂わされてるような気分だった。

当然のように店の中に腰を降ろして、行き交う人と金魚を交互に見たり見なかったりした。豊田の方もいよいよ客寄せをやめてしまい、時々水槽に水を足したりする以外は、呆けたような顔をして外を眺めている。

 遠方に浮かんでいた船上の祭囃子が川を下りはじめ、どんちゃんどんちゃんと背中の方が響いてくると、往来の喧騒は反発するように一層やかましくなり、うんざりする程暑苦しい。

 半袖姿の小学生くらいの子供が二人、店の前を通り過ぎざま、「あっ金魚や」と水槽にかけ寄った。うわあ、と喜んでいるのかどうか分からない声をあげて、水面に顔を近づけている。

「金魚すくい、やる?」

と一応訊くと、お金無いからええと言って顔を上げない。困ったので豊田を見ると、「見せてやったらええやろ。客寄せになるし」と関心なさそうに言った。

 そのうち飽きてどこかに行くだろうと思っていたが、なかなか水槽から離れようとしない。金魚の何に惹かれたのだろうか。

「金魚おもしろい?」

「おもろい」坊主頭のほうが眼を輝かせていた。「なんかわからんけど、おもろいわ」

「なんかな、あれやねん、急にあっち行ったりこっち行ったりして、口ぱくぱくさせてんのが、なんか面白いわ」隣の眼鏡の子は水面から目を離さず興奮気味に言ったが、いまひとつ理由がわかり兼ねた。

「ちょっと頭、触ってみてもいい?」と坊主に聞かれて、横目で豊田が鼾をかいているのを見て、「まあええで」と許可してやった。

 子供らはしばらく水槽のあちこちを見回りながら、あまり活発そうでない金魚に目星をつけた。缶の横に寄り添うように漂っている、赤い金魚だった。

「あっこれ、これ触れそう」と差し出した指が、少し震えているように見えた。「どうしよ、噛みつかれたらどうしよ」

「いやいや、噛みつかんて」と言いながら、眼鏡くんも興味津々だった。

 坊主の人差し指が、金魚の両目の間に触れた。押された力をそのまま受け、金魚の体が水を潜って、また浮かび上がり水面から背中を晒した。逃げるとか潜り込むとか、極端な反応が見られると思っていたので、些か拍子抜けしていると、触った坊主が「あれ?」と首を捻った。

「この金魚、もしかして死んでへん?」

 眼鏡くんが横から金魚を睨んだ。まさかと思って金魚の横腹を突いてみると、水の中でごろんと横倒しになって、青白い腹を水面に浮かべた。

 黙りこむ水面の上で、祭囃子の笛の音が、一段と響いた気がした。

「うわ、ほんまに死んどるわ」と小さく零すと、子供たちは「うわあキモっ」と水槽から飛び退いた。知らずに死体に触れていたとなれば、気持ち悪がるのも無理はないのだが、子供たちはスーパーなんかで生魚を見たことがないのだろうか。

 とんでもない事を仕出かしたとばかりに、顔を青くさせた坊主の手を取り、「あっちに遊びに行こ」と眼鏡くんが引っ張り去っていった。呆気無いものである。

「ん、どうした」豊田がむっくりと起きあがり、眠そうに細めた眼をこすった。「なんかあったんか?」

「金魚が一匹死んでるねん、ほらそこ」と水面に横たわる金魚を指した。

「ああ、ほんまやなあ」豊田はそれを確認すると、迷いなく金魚の死骸を掴みとり、空いた手で缶の上の器を少し持ち上げ、その隙間へ放り込んだ。缶の奥から、ナマモノが地面に張り付いたような気持ち悪い音がした。一瞬のことだったので、あっと声を上げる事すら出来なかった。

「この缶の中には、どんだけ埋葬されとるんや?」俺は気になって訊いた。

「わからん。けど、今日だけでも五、六匹は死んでるんちゃうかな。何でやろ、気温が高いからかな」豊田が缶に向かって手を合わせた。「はい、ほら合掌」

 俺もそれに倣って、狭い水槽の中で散っていった金魚たちの魂のために祈った。

 そのとき、水槽に浮かぶ全ての金魚が缶の方を向いて、泳ぎ回ろうともせず、ヒレを靡かせながら静止しているのに気がついた。缶を中心にして放射線状に並んでいた。

 幻でも見せられたような心地の中で、金魚らもまた、仲間の冥福を祈っているのだろうかと思った。金魚の感情は忖度できない。なにせ彼らは、一心に口をパクパクさせているだけだから。

「おいこら、誰に向かって手合わせてんねん!」と俄に怒声を浴びせられた。いつの間にか水槽の前に、腰の曲がった爺さんがこちらを睨んでいた。

「いや、金魚がね……」と豊田が立ち上がって言い訳を始めた。気が付くと、金魚の視線(?)はバラバラになって、素知らぬ顔で水中を泳ぎまわっている。

 冷や汗をかいて弁明する豊田の横で、喉元に何かが使えるような感覚がして、腑に落ちなかった。


    四


 三時を過ぎた頃になって、暑さはむしろ増しているように思われた。午後を過ぎた頃から何故か人も増え始めて、人の疎らだった金魚すくい屋の前も、少し行き来するのにも人を避けて通らなければならない程になっている。

 道を数十メートル下った先の土手にある、公衆トイレまでの道中が拷問だった。横顔に照りつける太陽と、屋台の熱気と、あちこち好き勝手に道を行き交う人の混雑。大した距離ではないのに、トイレに行き着いた頃には気が付くと肩で息をしていた。

 用を足してトイレを出て、屋台の並ぶ河川敷を見降ろすと、いよいよ季節がわからなくなった。みな打ち合わせたように半袖姿で、暑い暑いと言いながらも平気な顔で道を歩いている。サンダルを履いた子供等が、かき氷を片手に人々の間を走っていく。

 この異常気象に、疑問を持っているような人が見当たらない。みな夏を受容しているようだ。俺だけが取り残されているのか。

 風が吹けば、吹いた分だけ暑さが肌に張り付いた。熱でくらくらする頭を押さえながら人の合間を縫って歩いていく。視界がぼやけて、自分がどこを歩いているのかすら覚束ない。はっきりしているのは、土を擦って歩く自分の足音と、一段と甲高く聞こえる笛の音だけだった。

「おい、どこ行くねん」と横から声をかけられた。見ると、俺が元いた金魚すくいの店で、豊田に違いなかったが、半袖半ズボンの涼し気な服装に変わっていた。トイレの間に着替えたのだろうか。

 よくわからない状況に頭が働かないが、とりあえず日陰に隠れないと死んでしまうように思われた。店に逃げ込んで、豊田の隣に座った。椅子の後ろには、俺が脱ぎ捨てたシャツが包めて置いてある。

「豊田、お前着替え持ってきてたんか、用意ええな」重たい頭をふらつかせながら訊いた。

「何? どうしたん、寝ぼけてるんか」豊田はちらと此方を横目で見、何もなかったようにまた客引きを始めた。

「金魚すくい、いかがですかあ。新鮮ですよお」

 間延びした声が頭に響く。暑さにあてられて、何か夢でも見ているのではないか? そう思ってみても、水槽の生臭さも、蒸し暑さも、今椅子に座っている感覚も、なにもかも実感として存在している。意識ははっきりしていた。

「おい、何ボウっとしてんねん、手伝うてくれ」豊田が鋭く言った。はっと顔をあげると、何組かの客が水槽の前に立って、一様に握った手を差し出している。俺はそれぞれから金を受け取って、ポイを渡した。

 お面を斜めに被った子供が、水面上にポイを構えながら、いつ水に手を入れようか機会を伺っている。その横には見た目に涼しい浴衣姿の若いカップルが屈み、男のほうが袖を肩まで捲って格好をつけていた。水槽の角のほうには、ベビーカーに乗った子供が水面に手を入れようとするのを、鍔の広い麦藁帽を被った母親が慌てて止めようとしている。

 首筋を伝う汗を掌で拭い、俺は水槽を眺めた。この世界だけは、以前と変わらぬ様相を見せていた。赤い金魚が水面をすいすい動き回り、その影になって黒い出目金が這っているのを、人間の手が水に沈んで追い回している。水中の平穏をかき乱す手から、金魚らが渾身の速さで逃げていく様を、客らは面白そうに眺めたり、指をさしたりしていた。

 それぞれが笑顔ではしゃぎ、夏を満喫している。――祭囃子が、耳元に近づいたり遠ざかったりして、言葉に出来ない不安を煽るようだった。いったい俺は、何を見ているのだろうか。

 頭を項垂れたとき、前髪に何かが引っ付いているのに気がついた。つまんで見てみると、それは白桃色の小さな花弁だった。何の花だろうと考えていると、その花弁が指先から滑り、空中をひらひら舞って水面に落ち、薄い波紋を広げた。

 水面をたゆたう花弁を見て、それが桜の花弁だということを思い出した。

 なぜ頭に桜の花が、と疑問に思った時、反対側の隅にいた客が「え、え、ちょっとまって」と焦りだした。金魚らが一斉に客から離れて、こちら側目掛けてバシャバシャと泳ぎはじめていた。突然の奇行に客らが眼を丸くさせ、豊田も口をあけてそれを眺めていた。

 水槽の半分が空っぽになると、もう半分のこちら側には、数百匹の金魚が赤も黒も混ぜこぜに、桜の花弁を囲って蠢いている。俺の近くにいた客らは水槽から退いて、気味悪そうにそれを見つめている。ベビーカーの子供は泣きじゃくっていた。

俺の指先が、操られたようにその花弁を摘んで、持ち上げた。

 金魚らはそれに吸い寄せられるように水面から浮かび上がる。腕をさらに持ち上げると、水面で蠢く金魚がどんどんせり上がり、赤と黒の鱗が生々しくてらついた、生臭い山が形成された。山の火口で、花弁を見上げた金魚は口をパクパクさせて、今にも食いつかんとしていた。

「うわ、お前何してんねん!」

 豊田が叫ぶのが聞こえた気がしたが、見向きもしなかった。

 そんなに欲しけりゃくれてやる。――摘んだ指を開くと、水気を含んだ花弁は、金魚の山の火口へと真っ直ぐに吸い込まれていく。金魚らは花弁の引力を喪い、山の形を崩して落ちていく。バチャバチャと水が跳ね飛び、青い水面に金魚の色が一気に拡がる。水面が波打ち、数匹の金魚が水槽の外に跳ね落ちていった。辺りが水浸しになって、落ちた金魚がビチビチ跳ねる。ワッと客が跳ね退き、あちこちに逃げ出していくのがとても愉快に思われ、口の端が上がってしまう。わけのわからない状況に、自分でもわけのわからない方法でやり返してやったのだ。

 和太鼓の音が段々と大きくなり、頭の内側で大きな一打が響いた。……


「お前どうしてん、はよ座りや」

 豊田が不審げな視線をこちらに投げていた。シャツの袖を肘のあたりまで捲って、暑そうに顔を手で扇いでいる。

「ん、あ、ああ」言われるがまま座る。曇りがかった頭が急に晴れたようで、とても身軽になった心地がするが、今俺は、何を見ていたのだろうか。

「今さっき、浴衣のカップルが来てなかったか?」

「いやいや、いくら暑いからって夏を先取りすぎやろ。んなもん居ったら笑ってまうわ」

「お面を被った子供は?」

「来てない。っていうか何、お前がトイレに行ってる間のこと聞いてるんか?」

 話が噛み合わない。互いに少し見合って、「は?」と首を突き出した。

「暑さで頭イカれたんちゃうんか。って言っても、さすがに涼しくなってきてるけどな」豊田が外のほうを見やる。確かに、さっきまでの眩いほどの日差しは感じられなくなって、蒸し暑さもどこかに引いているようだった。よく見ると、地面に散らかっていた金魚も見当たらない。

 視界の端でなにか白いものがちらついた。見ると水面に、金魚らを惹きつけた筈のあの花弁が、金魚に挟まれて浮かんでいた。それを摘んで持ち上げてみても、金魚らは見向きもせず、口から泡を吐き出していた。


                                   了

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金魚回遊 かしはら @morarara

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