第二十話 雨

 ──ベルレ公爵邸──


「カナデさん。もう少し離れましょう? いつ何が来るか分かったものではありませんよ」


 ミセスカリファの言葉を背中に受けながら、それでもなお、手入れの行き届いた窓硝子の向こう側を見つめる。


 リサがカーシィを背負って来てからかなりの時間が経過していた。かなり出血してはいたが治療は終わった。彼女の命に別状はない。今は奥の部屋で眠っている。


「……」


 灰色に淀んだ鈍重な雲が唸り声をあげている。西の方で立ち上った黒煙は今はもう消えている。東寄りにあるこの伯爵邸までは喧騒は届いて来ない。


 まだ続いているのだろうか。

 まだ誰か戦っているのだろうか。


 硝子に触れる掌は、もう随分と冷たくなっている。


「……」


 ここで待っている事しか出来ない自分に歯痒さを覚えてしまう。


 リサの様ないついかなる時でも自分らしさを保ち、恐れること無く目の前の敵へと立ち向かうあの勇敢さが羨ましい。

 リエラの様な、力は無くとも知恵を駆使して戦場に立つあの聡明な姿に憧れてしまう。


 自分はこうして、非力な身体を自身の腕で守るように抱きしめながら、彼等の帰りを待つことしか出来ない。


「っ!? 誰か来た!──」


 屋敷の敷地に繋がる大通りに、こちらへと近づいてくる人影が現れた。誰かを背負っているのが遠目からも確認できた。きっと怪我人なのだろう。

 それを視界に捉えるやいなや、身体が無意識のうちに動き出していた。


「いけません! 危ないのですから、ここで大人しく待ちましょう!」


 扉の近くで控えていたミセスカリファが、肩に手をかけて静止を促してくる。重症だったカーシィの姿を目の当たりにしている彼女は、不安に満ちた表情で私の顔を真っ直ぐに見つめる。

 危ない目にはあって欲しくない。自分がいながら、みすみす怪我をさせたくないと、普段から険しい目付きが更に真剣なものへと変わり、私に訴えかけてくる。

 彼女の想いは理解できる。反論の余地もないほど正当なものだ。しかし、今の私にも何かできるのだとしたら、それはいち早く彼の元へと駆けつける事だ。今ここに居る誰でもない、私にしか出来ないことがそこにはあるから。


「お願いします! 玄関前まででもいい! 少しでも早く迎えに行きたいんです!」


 真っ直ぐに彼女の視線を受け止めて、こちらの意思を伝えようと試みる。

 私が使える能力は『治療』だ。それは彼女も分かっている。だからこそ私の想いも理解してくれるはずだ。


「……分かりました。私も一緒に行きましょう。ですが、玄関前までですからね?」


 ミセスカリファは溜息をつきながら肩から手を離して反対の手で扉を開けた。


「ありがとうございます!」


 彼女と共に玄関先まで移動する。ミセスカリファは玄関を開け放ったまま、その場で周囲を見渡している。


 近づいてきたのはジャビスだった。銀髪をなびかせながら、青年を一人背中に背負っていた。玄関先までという約束だったが、彼の元まで飛び出していた。


「ジャビスさん! その人は!?」

「カナデちゃんか? 良かった、無事だったんだね」


 勇ましい顔つきには似合わない朗らかな声が帰ってきた。近づいてくるにつれて、背負っている青年の様子も確認できた。


「グラなら平気だよ。ヴァニラが治療したからね。火傷跡は残るかもしれないけど、これくらいなら大したことは無いさ」

「そう……ですか」


 安心しなければならないはずなのに、心のどこかで落胆している自分がいる事に気がついた。それがとても恥ずかしくなり、自分で自分を哀れに感じる。


「あの、他のみんなは?」

「西門前で戦ってるよ。でも心配要らないさ。皆が強いのは、カナデちゃんも知ってるだろう?」


 私の不安を取り除こうとしているのだろう。優しい声音で喋ってはいるが、顔は依然として険しいままだ。その不自然さが、逆に私の不安を一層強くしていた。


 皆が戦ってるであろう西の方向に視線を送る。耳を澄ませても、彼等の声は愚か剣戟の音すら聞こえることは無い。


「……っ!?──」


 ひたすら、視線と共に皆が無事でいてくれるようにと祈りを贈っていたその時だった。


「何? 今の……」


 一瞬だけ、黒い柱のような物が視界に映った。再度目を凝らしても、それがまた現れることは無かった。

 心臓が早鐘を打ち始め、不快な汗が身体から溢れ出してきた。凄く、凄く嫌な予感してならない。不安がさらに煽られる。


 やがて頭上の曇天から次第に雨粒が落ちてきて、その一部が頬に当たる。その瞬間、彼の姿が脳裏に浮かんだ──


「っ!──」

「っ!? カナデさん! 待ちなさい──」


 走り出していた。ミセスカリファの静止する声を振りほどいて、さっきの黒い柱の見えた場所へと向かっていく。


「お願い──」


 どうか、どうか無事でいて──そう繰り返しながら休むこと無く脚を動かした。




 ✱✱✱



 ──気が付けば雨が降っていた。


 次第に意識が覚醒していく。

 さっきまで立っていたはずなのに、膝立ちになって、足元をぼんやりと眺めていた。左腕は、何故か裸になっていた。革製の手甲も、着ていた服も肩から先が無くなっていた。


「いったい……何が……っ!?──」


 顔だけを上げて周囲を確認しようとする。そして最初に視界に入ったのは、通路に仰向けに倒れたヘル・オーガの姿だった。


「なんだ……これ」


 立ち上がって、その姿を見下ろす。大の字なったその身体は全身が焼け焦げていた。地面も黒く焦げ付いた跡が残っている。そして一際俺の目を引きつけたのは、その身体に刻まれていた。三本の爪痕のような裂傷だった。

 その爪痕は、深くその身体に刻み込まれていて、骨や臓器が一部露出していた。


 眼下に広がる無残な光景は、まるでに襲われた人間の様で、俺の心をざわつかせていく。


「……マ」

「っ!?──」


 微かに、誰かの声が耳に届く。我に返って、その声の主を探す。


「タ……クマ」

「っ!? ロラン!──」


 後ろで倒れているロランの口元が微かに動いていた。弾かれるように身体が動き、ロランの元へと駆けつけ、右腕側へと膝をつく。


「ロラン! しっかり! ロラン!!」


 こちらの呼び掛けに答える素振りはなく、浅い呼吸で時折咳き込みながら血を吐いていた。


「はぁ……夢を……はぁ……見た……んだ」

「そんなのいいから! 今は喋るなよ!」


 吐血しながらも、途切れ途切れに言葉を紡いでいく。やはりこちらの声は届いていない。


「おまえを……視た……」

「っ!?」

「お前を……丘で……探して……ぐっ!?──」


 盛大に血を吐き出す。だがそれでも、ロランは言葉を紡ごうとしていた。


「白い……髪……乙女に……」

「もういい! もういいから!──」

「タクマくん!?──」


 急に聞こえた声に反応する。その声の先には、激しく肩で息をしたカナデの姿があった。目を見開いたまま佇んでいる。


「っ!? カナデさん! ロランが!!」

「っ!──」


 硬直していた身体に電気が走ったかのように動き出し、滑り込むようにしてロランの側へと膝をついて、両手をロランの左脇の傷へと向ける。


 ──光よ、彼の者の傷を癒し給え──癒しの祈祷ヒール──


 ロランの傷口を眩い光が覆っていく。しかし、その光は次第に衰え、微弱なものへと変わり、揺らめきながら消失した。

 ロランの傷は何の変化も見られなかった。


「え──」

「なっ!? カナデさんコレって──」


 彼女は弱々しい光を見ながら口を開き始める。


「治癒魔法は、無条件に傷を治療するんじゃないの……その人の体力も、少しだけ使わせてもらうの……」


 カナデは今にも震え出しそうな声で言葉を続ける。


「もっと高度な回復魔法もあるって言われたけど……扱いが難しいからって、ヴァニラさんにも使えないから、教えてもらえなくて……」


 そう言いながら、ボロボロと大粒の涙を流し始める。


「それじゃあ……」

「ごめ……ごめんな……さい……ごめん……なさい」


 嗚咽を漏らしながら俯くカナデは、途切れさせながらも謝罪の言葉を繰り返す。


「ごめんなさい……私、これしか──」


 彼女の瞳から溢れ出る涙は、さらに勢いを増していく。


「タクマ──」


 カナデの嗚咽の間を縫って、ロランの声が俺の名を呼んだ。その声は、その声だけははっきりと耳に届いた。視線を向けると、ロランは左手で自分の胸元から何かを取り出しそうとしていた。


「これ、を……」


 何かを掴んだその左手をこちらに向けようとするが、首に紐が回っていて胸の上から動かせない。

 そっと、その左手を両手で包み込む様に握りしめる。


「わた……して、くれ……」

「渡す? これを……誰に……」


 血の匂いの混じる吐息を漏らしながら、ロランは掠れる声で言葉を続ける。


「アル……フレイア……」


 その言葉を振り絞るように紡ぎ終わると、ロランの腕が途端に重たくなり、俺の掌からするりとこぼれ落ちた。


 降り続いていた雨の勢いが激しさを増した。

 視界を遮るように降り注ぐ雨が全身を濡らし、涙の跡すら分からなくなる──

 滝の如く大粒の雨が穿つように地面を叩き、泣き叫ぶ声を呑み込んでいく──

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