第81話 74


 心臓が胸を内側から突き上げる。

 はっ、はっと肺から空気が押し出され、指先が冷える。


 地を蹴り、後方の通路へ跳ぶ。

 着地。

 既に俺の矢は敵の心臓を睨んでいる。


「アキ……!」


「お久しぶり~」


 夜の水面に浮かび上がるようにして、アキが姿を現す。

 裾の長い貫頭衣を着ているので、見えるのは顔とプルに乗せた脚だけだ。

 アルケオの赤い戦士は少しだけ頬を膨らませる。


「声を覚えてくれてなかったの、ちょっと傷つくな~」


「動くな……!」


 既に矢は番えている。

 絞りも十分。『透かし彫り』には獺祭だっさい

 いつでも殺せる。

 ――理屈の上では。


「もちろん。私は動かないよ?」


 異変を察した蓑猿みのざるが速度を上げ、俺の傍へ。

 灯りを持つヴァンも到着する。


「! 九位、こやつは……!」


「お。やっぱり美人だったな」


「はい、そこで止まって」


 アキがこれ見よがしに爪をちらつかせた。

 人ならぬ脚で胸を踏まれた子供。

 さすがのヴァンも軽口を引っ込めた。


「九位。あれは――」


「セルディナの妹だ。俺たちが探していることはバレてる」


 そう話す間も俺はアキから視線を逸らさない。

 当のアキはいかにも上機嫌で、鼻歌らしきものが漏れている。


「それ、毒だよね? やってみる? 一撃で私を殺せるかな? そもそも当たるかな?」


(! こいつ、毒のことを知ってる……!)


 ザムジャハル経由だろう。

 本当に迷惑な連中だ。


「! 動くな!」


 警告するも、アキは意に介さない。

 やや腰を曲げ、見上げるようにして俺の全身を眺める。


「動いたよ。どうする? 殺してみる?」


「……」


「最後のあがきで間違いなくこの子を殺すけど、それでもいい?」


「いいさ。その子と引き換えにお前を殺せるなら、こっちにとってはありがた「はい、嘘~」」


 アキはけたけたと陽気に笑った。


「ワカツ、けっこう偉い人なんでしょ? その偉い人が直々に助けに来る相手が、私と引き換えになるわけないじゃん」


「……」


「そっちの二人も強いっぽいし。この子が只者じゃないことはもうバレているのでした」


「だったら何だ?」


「ふぇ?」


 俺はぴんと張った弦を緩めない。

 やじりはアキの心臓を捉えている。


「その子が只者じゃなかったとして、生かして取り返す必要があると思うか?」


「思うよ」


「こっちじゃ貴人は死体でも価値がある」


「ふーん。だから見殺しにしちゃってもいいって? っふふ」


「生きててもいいし、死んでてもいいって話だ」


 緑色の目は爛々らんらんと輝いている。

 人間の笑みの上で光る爬虫類の目。

 俺の心拍は高鳴ったままで、鎮まる気配がない。


「でも死なせちゃったら罰ぐらい受けるでしょ? ワカツは軍人なんだから」


「お前がやったことにすればいい」


 俺は半分本心でそう答えた。

 どうせ俺の嘘など簡単に見破られるからだ。


 アキは曖昧な笑みを浮かべた。

 まるで、出来の悪い子供を諌める大人のように。


「……ん~。じゃあ、もうちょっと大局的に考えてみようよ、ワカツ」


「あン?!」


「知ってるよ? この子、どこかの国のお姫様なんでしょ?」


 返答はしない。

 蓑猿は仮面があるので表情を読み取られず、ヴァンは事情を知らないので困惑するばかり。

 アキの言葉を裏付けるものは俺の声と表情以外にありえない。

 だから無表情を決め込む。


「……。ワカツ達はこれから大勢で作戦会議をして、こっちに攻め込んで来る予定じゃん?」


(四カ国会談のことまで知られてる……?!)


「その直前にどこかの国のお姫様が『敵』に殺されちゃったら、どうかな?」


「……」


「士気とか、勢いとか、盛り下がっちゃうんじゃない?」


「その子は――」


 大勢いる王族の一人に過ぎない。

 兄が実権を放棄した今、争いの火種に過ぎず、当の実権は腹違いの兄と姉たちが奪い合っている。

 だから、死なれても四カ国軍の士気に影響を及ぼすことはない。

 現に、貴人の救援にしては人数が少なすぎるだろう。


 こう言い返すべきか、否か。

 言い返すことで余計な情報を与えることはないか。それは俺たちに不利をもたらさないか。

 噴き出した汗が前髪の毛先に至り、滴となって揺れる。

 考えなければならない。アキが何をどこまで知――




「私は戦士だよ?」




 通路全体に響くほど強く大きな声。


 強風に煽られた雨上がりの木のごとく、俺の髪から汗の粒が落ちた。

 それはぱらぱらと地を叩き、己の緊張のほどを思い知る。


「命乞いのために好機を逃すだなんて、本気で思ってる?」


 アキの顔に浮かぶのは獰猛なアルケオの笑み。

 必殺の爪はプルの衣服に食い込み、皴を作っている。


「……」


「死なせていいなら、射てみたら? 私に当たっても当たらなくても、この子は絶対殺すから。そして――――刺し違えてでもあと二人は殺す」


「……!」


 蓑猿が動かない。

 弓兵より俊敏な忍者ですら対処に困る状況なのだ。


 俺たちとアキの距離はほんの数歩。

 ほんの数歩が、あまりにも遠い。


「今、有利なのは私。ワカツじゃないよ」


「……」


「私、傷ついてるから一度しか言わないよ? 武器を下ろして」


「……」


 どぐっ、どぐっと心臓が嫌な音を立てている。


 武器を下ろせば、もはや抵抗はできない。

 そのまま一方的に嬲り殺されるだろう。


 だが矢を射たところでアキが即行動不能になるとは限らない。

 獺祭を恐竜人類に使うのは初めてだ。致死までにどれほど時間を要するのかは見当もつかない。


 射られた後に少しでも余力があればアキは確実にプルを殺し、最後の力で俺たちを殺しにかかるだろう。

 ここは建物の中。弓兵にとっては最悪の環境だ。

 蓑猿がいるとは言え、真正面からやり合えば全滅の可能性もある。


 武器を下ろせば死ぬ。

 射殺しても死ぬ。

 だったらどうすべきか。


 部外者のヴァンは何も言わない。

 忍者である蓑猿は決定的な『判断』にまで口を出すことはない。

 決めるのは俺だ。


 そして俺も戦士だ。

 無抵抗で嬲り殺されるぐらいなら、徹底的に抗うのみ。


「返事は?」


 決まっている。


「――」


 断る。

 そう言わんとしたところで、気づく。

 アキの様子がおかしいことに。


(……?)


 貫頭衣姿の彼女は『脚で』プルを踏んでいる。

 ――『脚』。


「……。お前、手はどうした?」


「失くしちゃった」


 アキは軽く肩をすくめた。

 が、俺たちが反応しないと知るや、くすりと微笑む。


「縛られてるの、後ろ側で」


「何……? それは「あ、あ、あ。動かないで動かないで~」」


 アキは軽く首を振り、爪の一本でプルの胸を小突く。


「命令してるのは私。アキちゃんとお話をしたいんだったら、ワカツは何をすれば良いのかな~?」


「……っ」


 まずい状況だ。

 だが、光の筋が見えないわけでもない。


 アキは両腕を拘束されている。

 これはつまり彼女の戦闘能力が激減していることを意味する。

 今やり合えば、もしかすると勝てるかも知れない。


 考え方はもう一つある。

 アキと『交渉』する道だ。


 よくよく考えてみれば、彼女は俺が檻に入った時点で首をねじ折ることができたはずだ。

 ――なのにアキはそうしなかった。

 今もこうして、自分より弱い相手に対話での降伏を求めている。

 何か事情があるに違いない。


(どうする……)


 相討ち覚悟で戦いを挑むか。

 一時休戦し、状況を見極めるか。


 他の十弓ならどうするだろう。

 

(――――)


 何人かの十弓の顔を思い浮かべた俺は、ちらと蓑猿を見た。

 彼女の足はたたた、と三度地を打つ。

 判断を委ねる、の合図だ。蓑猿の目から見て、進退が同価値の場合に使われる合図。

 言い換えれば、彼女も戦いを挑むべきか戦いを避けるべきか判断しあぐねている。


 決めるのは俺だ。


「……九位」


「……」


 国のため、人のために強敵と戦い、死ぬ。

 それはアキの言うように、戦士にとって最高の誉れだ。

 疑いようもなく勇敢で、『正しい』決断。


 だが、今ここで俺が死ねば一位にアルケオの正確な情報を伝えられない。

 十弓は四枚落ちで、シアやサギ、ナナミィ、それにルーヴェを野に放り出すことになる。


 俺は気持ち良く死ぬために生きているわけじゃない。

 果たさなければならない責任がある。

 人にも、国にも。


「……蓑猿。このままやり合っても全滅だ」


「御意」


 俺はゆっくりと矢を弦から離した。

 そして弓を下ろす。


「ん~。ワカツは良い子だねぇ」


 アキの顔に満足げな笑みが広がる。

 少しだけ気を緩めたせいか、長い黒髪がさらりと揺れた。


「その子を離せ」


「いや、今離したら射られちゃうじゃん。何言ってるの。……ちょっと下がってて」


 アキはプルを脚で掴み上げ、器用に片脚立ちとなった。

 貫頭衣を着ているので腿や内股が見えることはない。

 アルケオの戦士はその格好のまま、てん、ててん、と一本足で跳ねながら通路へ。


 後ずさる俺、蓑猿、ヴァンを順に見たアキはにこりと笑う。


「はい。じゃ、お邪魔虫の皆さんはこちらへどうぞ」


「お邪魔虫?」


「決まってるじゃん。おじさんと、その変な人」


(!!)


 どうやらアキは俺と二人を分断するつもりらしい。

 思わず弓を持ち上げようとするが、「あっあ~」とアキが歌うように警告を発する。


「もう『交渉』は終わりにする? 力ずくでガーッとやっちゃう?」


「……」


「九位。入ります」


 蓑猿はつかつかと檻の中へ。

 肩をすくめ、灯りをその場に置いたヴァンも続く。


「ワカツ、鍵かけて」


「っ」


「いや、入れて終わりなわけないじゃん。分かってたでしょ? ほらはやーく」


 俺はやむなく格子へ向かい、錠に鍵を突っ込む。

 が、回す直前で踏みとどまる。


「二人を殺せとか言い出すなよ、アキ」


「!」


「そのつもりなら、ここで『交渉』は終わりだ。力ずくでガーッとやらせてもらう」


 んふ、とアキは喉を鳴らした。

 猫を思わせる悪戯っぽい目。


「いいよ。二人は殺さなくても」


 突っ込んだ鍵を回す。

 きちんと締まっていることを見せつけ、鍵をアキに放る。

 プルを地面に下ろしたアキは脚で器用に掴み、ぶん、と勢いよく後方の闇へ放り投げた。

 湿った土を叩く音は聞こえない。


「さて。それじゃお話しようかな」


(……)


 俺は意識して蓑猿を見ないようにしていた。


 鍵などどうでもいい。

 この程度の格子、忍者なら簡単に開けてしまうだろう。

 だがアキにはそれが分から「その黒い服の人、さ」


(!)


「ずいぶん身軽だよね」


 アキは蓑猿に向けていた視線をゆっくりと俺へ。

 片目の瞼を半分ほど落とし、探るように笑う。


「何か特別な仕事をする人?」


 再び、俺の鼓動が速度を上げる。

 額はびっしょりと濡れ、垂れる汗が何度も目に入るようだった。


「……その子を連れて運ぶ役だ」


「んん? 今、なんか嘘っぽかったな~」


「……!」


 交渉や駆け引きを馬鹿にしてきた過去の自分を殺したくなる。

 ミョウガヤ五位やツボミモモ六位、エノコロ七位なら平静さを繕えただろう。


「ちゃんと私の顔を見て答えて。その黒い人の仕事は『この子を運ぶ』。本当にそれだけ?」


 アキが爪をぎらつかせた。

 嘘を言えばどうなるか。

 否、嘘だと露見したらどうなるか。


 蓑猿を檻に入れてしまった今、俺は明らかに不利だ。


「暗殺と諜報を務める特別な仕事人だ」


 ふーん、とアキはつまらなさそうに唸り、蓑猿を見やった。


(……)


 気になるのかも知れないが、両手が動かないのであれば殺すことはできない。

 俺にそれを命じることもできない。さっき口約束を交わしたばかりだからだ。

 だから何の問題も――




「鍵、開けられるかも知れないよね」




(!!)


 蓑猿がぎくりと肩を震わせた。

 アキはゆらりと俺を見、目を細める。


「ね? ワカツ。この人、鍵を開けたりできるんじゃない?」


「どうやってだ」


「さあ? でも、この鍵作ったのは人だよね? だったら、人の技で解けるんじゃないの? 素手では無理でも、道具があればさ」


「……何をどこまでできるのかは知らない」


 嘘ではない。

 俺は本当に、忍者の技術のすべてを知っているわけではない。

 だからアキにこの嘘は見破れな




「服、ぜんぶ脱いで」




 アキはあっけらかんと言い放った。

 俺ではなく、蓑猿に。


「聞こえなかった? 服をぜんぶ脱いで、仮面も外して? 隠してる道具があるならそれもぜんぶ出して」


「……私は女だ」


「私もだよ。……それが何?」


 朗らかに応じたアキの爪がプルに食い込む。

 少女が僅かに苦し気な顔を見せた。


「あなたは自分のために戦う感じの人かな? 違うよね。さっきから九位九位うるさいけど、もしかして護衛とかじゃない?」


「……」


「いいのかな? 『護衛』が『自分の事情で』、護る相手に迷惑をかけても」


「っ」


「あーあ。あなたが言うこと聞かないから、ワカツと私がここで殺し合うかも知れないねー」


 蓑猿が一瞬、俺に目をやる。

 それは意思を問うものではない。

 やります、という意思表示だ。


「ぜんぶ脱いだら、お尻の穴をこっちに向けてね?」


 ヴァンが初めて青ざめた。


「ま、待ってくれ。私もそれをやるのか?!」


「おじさんは要らないよー。丸腰だって知ってるもん」


「あ、そうなのか」


「何でちょっと残念そうなの、おじさん」


 アキは小さく笑った。

 俺は思わず「アキ!」と吠える。


「そいつは俺の部下だ……!」


「へえ。そうなんだ」


「服を脱ぐだと? そんなことはさせない」


「えー。それぐらいは確認させてくれないと、こっちが困るなぁ。鍵を開ける道具とか持ってたら、閉じ込める意味ないじゃん」


 緑色の目が再び爛々と輝く。

 交渉不能を意味する禍々しい笑み。


「じゃあワカツ、どれか選んでいいよ。今ここでその二人を殺すか、その変な人が裸になるか、もしくは私とやり合うか」


「……!」


「九位。構いません」


「蓑猿……!」


「そ、その代わり、目を閉じていてくださいますか」


 適度な羞恥を混ぜた声音。

 違和感を覚える。


「恥とは思いませぬ。私も忍びですので。それに初めてティラノに襲われた時も、同じことをした記憶がございます」


 俺はその言葉を普通に受け止めかけ、はっと気づく。


(初めてティラノに襲われた時……?)


 一体何の話だ。

 初めてティラノと出くわしたのは確か俺の守護地である砦だ。

 そこで蓑猿は――――


(煙玉!!)


 そうだ。あの時、蓑猿と舞狐はティラノに煙玉を放った。

 あれと『同じ』ということは。

 脱ぎながらアキの不意をつくということか。


 俺は昂揚しかけたが、慌てて感情を押し殺す。

 アキに気付かれたら最後だ。


「ヴァン様」


「何でしょう。もちろん私も目は閉じますので、ご安心を」


「いえ、少し距離を開けてください。この通り、色々出てきますので」


 蓑猿はじゃらりと長い鎖鎌を取り出した。

 それを見た瞬間、アキが警戒心を露わにする。


「うわ、やっぱり隠してるじゃん」


「……。先にこれらを出す。でないと脱ぐものも脱げぬ」


「どうぞ。おかしな動きをしたらこの子を殺すからね」


 蓑猿は手裏剣、くない、小刀、鉤縄といった小道具を一つずつ取り出し、床に落とす。

 それは着衣を一枚ずつ脱ぐ様にも似ていた。


「待った。それ濡れてるけど、毒?」


「答える義理はない」


「あるでしょ。言ってよ」


「……。毒だ。だが九位の毒とは違う。深く刺さらねば効果の出ない毒だ」


「待った。その赤いのは?」


色豆いろまめだ」


「食べるの? 用途は?」


「忍者同士の合図に使う」


「……待って。それは?」


「ただの筒だ。長時間水中に潜むのに使う」


 アキは完全に前のめりになり、蓑猿の取り出す道具の用途をいちいち尋ねた。

 サギの話から察するに、アルケオは手足を使った直接的な戦闘を得意とする生物だ。

 忍者の小道具はさぞ珍奇に見えるのだろう。


(!)


 プルの布の皴が消え、胸に乗る爪が時折離れていた。

 明らかにアキの注意が逸れ始めている。


 意図的なものではない。

 今更、俺の攻撃を誘う理由はないからだ。


(……これなら……!)


 距離はほんの数歩だ。

 煙玉が放たれた瞬間、俺はアキを突き飛ばす。

 そして獺祭の矢を―――――


「水の上を歩く?!」


「足場を作るだけだ」


 蓑猿はいかにも鬱陶しそうに、不機嫌そうに答えた。

 それがますますアキの問いを誘う。


「そのトゲトゲは?」


「これは折りたたんで使う」


「どう折りたたむの? やってみて」


 プルから爪が離れた。

 まだだ。まだ飛び出してはいけない。

 煙玉を待て。


(……)


 どくっ、どくっと鼓動を感じながら、俺は密かに拳を開閉させる。

 脚に力を込め、踵を浮かせる。

 汗が鎖骨に池を作る。


 煙玉。

 煙玉。

 煙




「九位!! 後ろを!!」



 

 この状況。嘘ではない。


 振り返ると同時に、手に持つ矢を放擲する。

 びゅっと音を立てる矢羽を見送り、後方へ駆ける。

 すなわち――逆巻さかまき


 どう、と蹴った土が前方で巻き上がる。

 瞬き一つの間に二歩の距離を稼いだ俺は、そのまま一気に通路を逆走した。


 見えるのは闇。

 否、闇の中に忍者。


 矢を番える。


「止まれ」


 闇から這い出した黒ずくめの忍者は一直線に駆けた。

 瞬く間に距離を詰められ、目が合う。


 敵の手には刃。距離、四歩。

 警告はした。問答は無用。


「『蛇の矢』!」


 忍者が俺の手元に意識を向ける。

 その刹那、ブーツで土を蹴り上げる。


 柔らかい土をまともに浴び、忍者がたたらを踏む。

 瞬時に俺は前進に転じ、矢を番えた姿勢のまま体当たり気味に飛びかかる。


 忍者は身をよじらせ、鏃を避けた。

 即座に俺は矢と弓と分かち、仰々しく両手を振り上げる。


「!」


 忍者が上を向く。

 既に俺は矢を手放し、うつぼに収まる次の矢を掴んでいる。


 まだ空中の矢を見ている忍者の横腹に、矢を突き立てる。

 ぶぐっと呻き声。続いて短い痙攣。

 心中で名を呼ぶ。


(『獺祭だっさい』)

 

 強毒をまともに受けた忍者はその場に倒れ伏した。

 ラプトルが即死する毒だ。俺特製の毒なので、獣面ですら対策・解毒は不可能。

 二秒後には、そいつの呼吸が聞こえなくなった。


 ヴァンが格子から鼻を突き出す。


「生け捕りにしなくていいのか、九位」


「俺は忍者じゃない。忍者の捕虜は取れない」


 支障はない。

 事情はもう少し無害な奴を捕えて聞く。


 アルケオの戦士は俺が戦う間も動かなかった。

 足の爪はプルの胸に乗っている。


「九位。お急ぎを。次が来ます」


「分かってる。……アキ。こっちも急いでる。まどろっこしい話は無しだ」


「……」


「俺に何をさせたいんだ?」


「これの鍵、見つけてほしいな」


 アキはプルを踏んだまま、ぐるんと俺に背を向けた。

 後方に回した手には、いかにも頑丈そうな鉄の枷が嵌められている。

 輪を繋げた枷ではない。板に丸穴を二つ開けた形状の枷だ。

 アルケオの腕力でもこれは外せないのだろう。


 蓑猿なら外せるのかも知れないが、今彼女を見れば流れが悪くなる。

 それに用が済めばアキは俺を殺す。

 なので俺は別角度から問いを放った。


「お前、ここの奴らと敵対してるのか? ザムジャハルと組んだんだろ?」


 一瞬、ヴァンが何かを呟いた。

 よく聞き取れなかったが、驚きの声のようだ。


「知ってるんだ? まあ、私たちにも色々あるの」


「身内に裏切られるとは間抜けだな」


「うへえ。言うねえ。……ワカツにやってほしいのは、私の護衛」


「護衛?」


「敵が来たらやっつけてほしいの」


「俺がいる必要、あるか? お前ひとりの方が早いだろ」


「そんなことないよ。ワカツ強いじゃん」


「……」


 嘘だ。

 アキなら両脚だけでもそれなりに戦えるはず。


 ここが敵地であるがゆえの警戒だろうか。

 毒や罠を危険視するあまり、俺に露払いをさせたいのか。


 ――何か妙だ。

 だが、疑念があるからと言って協力を拒むわけにもいかない。

 拒めばそれで話は終わる。


「どうする? 私と一緒にここ、出たくない?」


「出たらその子を解放するか?」


「出たらじゃなくて、私の錠を外して、ここを出られたらね。それまでは一緒にいてもらうよ」


「お前が約束を守る根拠は?」


「それは信じてもらうしかないよね。ただ、自力でどうにかできるならとっくにワカツを蹴っ飛ばしてるよ」


「……」


 悩みどころだ。

 だが決して不利な状況ではない。

 アキの言う通り、本気なら彼女はとっくに俺を叩きのめしているはず。

 それが行われない以上、彼女にも何らかの事情があるのだ。俺を伴わなければならない理由が。


(それを逆手に取れば、もしかすると――――)


 考え方を変えろ、と自分に言い聞かせる。

 アキはアルケオの中核をなす『爪』で、それでいて俺との会話を拒む様子がない。

 何か、何か引き出せるものがあるはずだ。

 これは窮地ではなく好機だ。

 必ず何かを掴み、一位の元へ持ち帰る。


 それにこの砦の連中は俺にとっても敵だ。

 遭遇が戦闘を意味するのは、アキがいようといるまいと変わらない。


 俺は彼女の提案を吟味検討する振りをし、重々しく頷いた。

 できるだけ葛藤した風を装って。


「……分かった。協力する」


「さすが。話が分かるね~」


「条件を足す」


「何?」


「俺の仲間と出くわした場合、危害は加えない。いいな?」


「いいよ。手足は縛らせてもらうけどね。背中、刺されたくないし」


 どこかだ。

 どこかで必ず、アキは隙を見せる。

 そこで獺祭をぶち込む。


 決心と共に背を向ける。


「行くなら行くぞ。灯りはお前が咥えろ。俺は両手を使う」


「ねえねえワカツ。毒蛇って呼ばれてるんだよね?」


「『蛇飼い』だ」


「でも毒を使うのは本当なんでしょ? さっき使ったもんね?」


「……」


 振り返る。

 アキは快活な笑みと共に続ける。




「毒、捨てて。今ここで」




 言葉が刃となって心臓に触れるようだった。


「そんなの持たせたままだと私、危ないもん。捨てて」


 考えてみれば当然の警戒だった。

 先ほど『獺祭』を見せなければこうはならなかっただろうか。

 いや、異名を知られている以上、とっくに『毒』の調べはついているはず。


「捨てられないなら、ご一緒できませんねえ」


「……!」


 獺祭を失えばアキに抗う術が無くなる。

 だが捨てなければ、おそらく先へは進めない。


 俺は奥歯を軋らせた。


「……全部は捨てられない」


「何で?」


「ここの奴らに用がある。捕獲用の毒が要る」


 俺は二つ目のうつぼを開き、一本の矢を見せた。

 触れただけで『獺祭』と識別できるよう、矢羽には細工をしている。


「下半身が麻痺する毒だ。食らったら半日は動けなくなる」


「……うわ、怖~い」


「さっき使った毒矢は捨てる。だがこっちのは使わせてもらう」


 俺は猛毒の矢が入った靭を放る。


 やむを得ない状況だ。

 それにこちらの矢でもアキを無力化することはできるだろう。

 両腕は拘束されているのだ。この状況で下半身を潰せば、さしものアキとて無力化できるはず。


「これでいいな?」


「……」


「アキ?」


「それ、見せて」


 俺は手にした矢をアキの方に投げた。

 アキは燃える棒でも掴むように恐る恐る矢を拾う。――脚で。


「何か先っぽ、変だね。……ああ、ここに塗ってるから外側には触っても大丈夫ってこと? へえ~」


 アキは興味深そうに爪の先で透かし彫りをつついている。

 秘密を覗かれているようで気分が悪い。


「ほら、もういいだろ。いつまで見てるんだ。さっさと――」


「九位っっ!!」


 蓑猿の声に振り向く。




 アキがプルの腿に爪を突き刺している。

 ――毒に触れた爪を。



「ッッ!!」


 心臓が止まりかけた。

 が、よく見ると刺さっているのは爪一本だ。

 それに傷はかなり浅い。引っかき傷同然だ。


「お前何を……っ!」


 アキの一瞥で俺はその場に縫い止められた。


 プルは小さく震えたが、それ以上おかしな反応は見せない。

 それはそうだ。この毒は先ほど説明した通り、下半身を麻痺させるだけで痒みや痛みを伴わない。

 分量もアキの爪に僅かに付着した程度だ。後遺症のおそれもないだろう。


「……。本当に死なないみたいだね。いいよ。これ使っても」


「お前……!!」


「怒らない怒らない。アキちゃんは用心深いの。……ほら、それ置いてこっちに来て。この子を私の背中に乗せて?」


 俺は弓を置き、ずかずかと奴に近づいた。

 プルの呼吸は問題ない。あとでセルディナに知られたら殴られるだろうが、それはそれだ。

 ブアンプラーナ王女の尻はうまい具合にアキの手枷に乗った。


「次に何かやったら殺すぞ」


「ふふっ。こ~わ~い~」


 俺が弓を拾おうと身を屈めると、アキは「止まって」と告げた。

 言われた通りに止まると、正面に回ったアルケオがゆらりと顔を寄せる。


 耳を噛まれ、甘い恐怖に痺れる。


「っ?!」


「九位!!」


 捕食を想起する行為に全身の血が引き、唇が震えた。

 身は緊張し、思わず拳を握る。


 だが、アキに害意は無いようだった。

 かぷ、かぷふ、と彼女は繰り返し俺の耳を噛んでいる。

 艶めかしく舌を使う様を見るに、これが愛情表現なのかも知れない。


 そのままアキは俺に胸を押し付け、抱き合うような格好で顎を俺の肩に乗せる。

 じわりとアルケオの体温が俺を伝う。

 はああ、と漏れる恍惚の吐息。


「いい匂い……」


「……」


「この匂い、何回も夢に見たんだよ? 美味しそうだなー。欲しいなーって」


 肉を食わずに生きてきた俺から放たれる香り。

 同じく肉を食わないアキをも狂わせた匂い。

 俺自身は感じないそれを、赤いアルケオは啜るように嗅ぎ続ける。


 とくっ、とくっ、とくっと心音が速度を上げる。

 俺の心臓ではない。

 アキの心臓だ。俺より強靭な心臓。


「声、覚えててくれなかったね。私はワカツの声、覚えてたのに」


「お前のことなんか忘れたかった」


「そんなこと言わないでよ」


 黒髪は汗を吸っているはずだが、仄かに甘い匂いがした。

 石鹸や香油ではない。

 天然の葉や花蜜、果実から採取したのであろう、野性の芳香。


 アキの肢体は熱い。

 夜だというのに、太陽を浴びたばかりのようだ。


 彼女はもう一度、愛おしむように俺の耳を噛み、舌を這わせた。

 既にその呼気は荒く、熱を帯びている。


「約束は守るよ。無事に出られたら『この子は』解放してあげる」


 でも、とアキの声色が変わる。

 低く、暗く、甘いものへ。


「ワカツは逃がさない」


 アキの顔から笑みが拭い去られる。

 捕食者ではなく、簒奪者の表情。

 それもどこか虚ろで、危険な熱情を帯びている。


「ぜったい連れて帰る。ぜったい……」


 アキの脚が俺の脚の間へ割り込み、彼女の下腹部が腿に触れた。

 貫頭衣越しに感じる仄かな熱。


「ずーっと、ずーっと、ずーっと、私のにする。毎日、毎日、毎日、好きなだけ好きにするの。それで、たくさん子供作って、それから……一番おいしい方法で食べてあげる」


 愛の告白にも似た言葉が、浅ましい欲の熱を帯びる。


「肌を洗って、歯と髪を抜いて、お腹の中を空にして……。甘いイチゴをたくさん添えて、緑のソースをたくさんかけて、苦い葉っぱできれいに包んで。血も、肉も、骨も、ぜんぶ私が食べるの」


 ぬたあ、と舌が伸びる音。

 肩に唾液の滴が落ちる。


「誰にも渡さない。ワカツは私のもの……。もうすぐ、私と一つになれるから」


 心を湿らす恐怖を、怒りで散らす。

 胸に火が燃える。


「その時は――」


 俺は歯を剥き、アキの耳元で猛る。


「腹の中からてめえを食い破ってやる……!」


「……ふふっ」


 アキはゆっくりと身を離した。

 既に暗い感情は拭い去られ、そこには笑みだけが残っている。

 繕うような笑みではなく、本心から浮かんだと思しき快活な笑み。


「じゃあ、頑張ってね。これを外してもらうまで私はどこにも行かないから」


(……!)


 その表情を見て、俺は確信した。


 こいつは既に俺の狙いに気付いている。

 俺がどこかで自分を出し抜くであろうことに気付き、それを楽しんですらいる。

 自分が俺より強いと知っているから。

 あるいは、俺ごときにそれはできないと確信しているから。


 上等だ。

 アキも俺も、枷が外れたら互いを殺すつもりなのだ。

 だったら何一つ隠す必要は無い。


 みちみちと顔面が歪む。


「殺してやるからな、アキ……!」


 にたーっとアキが嗤った。


「私も同じ気持ちだよ、ワカツ」




 九位、と蓑猿が後方から声を投げる。

 俺は僅かばかりの冷静さを取り戻す。


「今宵は猫も歌う赤星あかぼしの夜でございます。ご注意を」


「……」


 猫。猫が歌う。

 赤星。赤い星。

 挨拶にしては妙な言葉だ。

 

 そう考えたところで意味に気付く。

 気づき、凍り付く。


(『歌猫』……!)


 シアだ。シアの呼び名。

 であれば『赤い星』が意味するのは、シアからの合図。


(まさかあっちに何かあった……?)


 蓑猿を見る。

 彼女はごく僅かに、頷いた。

 これで決まりだった。


 アキを殺すか、振り払うだけでは足りない。

 シアとナナミィの援護にも向かわなければならない。

 そして彼女達の救援は期待できない。


 焦燥が熱と汗を呼ぶ。

 気を付けなければ呼吸が乱れてしまいそうだった。


「……。もし俺が死んだら、狼のことはよろしくな」


 狼。

 つまり『翔狼』はルーヴェの呼び名だ。


「はい。狼は私が世話をいたします。近頃は大きな犬を見つけて、すぐに吠えるようですが」


 犬。――犬。

 人ではない。人なら人と呼ぶはず。


 では犬とはまさか――――恐竜か。

 ルーヴェは大型恐竜の気配を――――


「……挨拶はそれぐらいでいいよね?」


 アキが俺を軽く蹴り、自分の前に立たせた。

 見えるのは暗い通路。


「さあ、格好いいところ見せてね? ワカツ九位」


 俺は矢を番える。

 ――敵に背中を預けて。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る