第71話 65


 葦原あしはらと呼ばれる国がある。


 五大国最小で、五大国最弱。

 ただ海戦においてのみ、五大国最強。


 葦原は水に例えられる。

 物静かで、慎ましやか。

 争いを好まず、さらさらと万事を受け流し、自らも流されやすい。


 鏡のように水の張られた田畑では昼間から狸がうたた寝をしている。

 夜は鈴虫が羽を震わせ、眠りと癒しを与える。

 歌に満ちた漁船では鮮やかな真鯛が掲げられ、寡黙な男たちが仕草だけでそれを称える。

 静謐な野点のだての席では、しゃかしゃかと茶筅ちゃせんが快い音を立てる。


 水には表情があり、姿がある。

 時として澄んだ清流は底の見えない濁流へと変わり、油凪ぎの海は船を噛み砕かんばかりに荒れ狂う。


 秋茜あきあかねの飛ぶのどかな田園風景から、太刀を咥えた鎧武者が百足の大群よろしく現れる。

 虫の音涼やかな宵闇から、毒をまき散らす黒装束の忍者が溢れ出す。

 つづみの音に包まれた陽気な漁船から、海を血染めにする鯨撃ちが飛び出す。

 番傘の下で茶と句に興じる麗人が、雀蜂すずめばちのごとく敵に襲い掛かる。


 葦原は水に例えられる。

 荒々しく、獰猛。

 好戦的で、立ち塞がるすべてを飲み込み、噛み砕く。

 

 水の優美と、水の苛烈。

 それが葦原。











「……」


 窓のすだれがするすると持ち上がる。


 御楓みかえでの街には名の通り楓の木々が多い。

 それに銀杏いちょう

 川沿いに並ぶ木々は秋が深まれば深まるほどに、赤と黄の葉で街路を彩る。


 川面は昼の光を反射し、きらきらと輝いていた。

 川を下る小舟には、竿を操る船頭の姿。


 牛車から見える町並みは賑やかだが、どこか忙しなさを感じた。

 人々は俺の牛車を指差し、あれこれと囁き合っている。


 十弓が三人以上揃うのは珍しい。

 今回は文字通り『全員』で、数年も僻地に飛ばされていた俺までもが加わるのだから、ちょっとした騒ぎになっているのだろう。


 からからと車輪が回り、牛の爪が地を叩く小気味よい音が聞こえる。

 話し疲れたのか、シアは仮面をつけたまま眠っているようだった。


 ルーヴェは窓枠に顎を乗せ、外の景色を楽しんでいる。

 三つ目の狼面を目の当たりにした町民たちは騒然としており、彼女の座る側だけ人々の逃げ去る音が聞こえていた。


(……)


 葦原は水に例えられる。

 ――そして水は腐る。

 口さがない者に言わせれば、葦原は『争いに恵まれていない』らしい。


「ふう」


 濁った息が漏れた。

 俺は目を閉じ、車輪の音に身を任せる。






「九位」






 蓑猿の声で我に返る。

 既に牛車は止まっていた。


「頃合いでございます」


「……すまん。寝入っていた」


「無理からぬことです」


 すっと天板が開き、猿の面が現れた。

 差し出されたのは濡れた手拭。

 よく冷えている。


 顔を拭き、目を拭う。

 シアとルーヴェも面を外し、同じことをしていた。

 

「シア様にはこちらを」


 蓑猿が見せたのはエーデルホルン製の長剣だった。

 

「我ら様々な得物を用いますゆえ、さほど目立ちはしません。ご安心あれ」


「分かりました」


 ルーヴェとシアが面を下ろす。

 三つ目の狼と、一つ目の猫。

 

(気持ち悪い……)


「……。今、何か考えました?」


「いや」


「私は普段通り動きまする。ルーヴェ殿、怪しい者が近づかないか警戒を」


「うん」


「……怪しい者、な」


「九位、何か?」


「いや。『十弓』にはそんな奴しかいないだろうと思ってな」


「さもありなんと思いまする」


 牛車を降りると、寄棟造よせむねづくりの屋根が見えた。

 高さはそれほどでもないが、渡り廊下で幾つかの棟と繋がっている。

 広さだけなら唐で滞在した屋敷より上だ。


 庭は不必要に広く、端から端まで歩くのに十数分を要するほどだ。

 誰も蹴鞠けまりなどやらないし、ここで茶会など開きはしないというのに、わざわざ広く造らせたそうだ。


 やたら手の込んだ曲線を描く庭木。

 鯉やら亀やらが泳ぐ、民家一つ分ほどの池。

 渡された赤い橋。

 色とりどりの花々。


「誰が喜ぶんだこんなもの……」


 俺は苦い唾が滲むのを感じた。


「軍議なんか掘っ立て小屋でもできるだろうが」


「掘っ立て小屋で軍議をする精鋭になんて、誰も成りたくはないでしょう」


 猫面のシアが横に立った。


「人の上に立つ人間が貧相だと、目端の利く人間は皆逃げ出してしまいます」


「……ただの独り言だ」


「それは出過ぎたことを。ワカツ九位」


 俺の乗って来た牛車がからからと下男に曳かれている。

 その先には既に数台の牛車が停まっていた。

 色鮮やかな装飾に包まれた、『精鋭』の牛車。

 彼らのものに比べると、俺の牛車は――掘っ立て小屋だ。


「行くぞ」


「御意」


 蓑猿がすっと姿を消し、シアとルーヴェだけが残った。

 俺は牛車同士を戦わせてもなお余る庭園を横目に、十弓用の裏口から中へ入る。


『九位』用の通路を歩くのは久しぶりだった。

 壁には風景や虎を描いた水墨画が飾られており、平たい花瓶には花ではなく折った炭を重ねている。


 ルーヴェがきょろきょろしているのは、そこかしこに忍者が潜んでいるからだろう。

 ここは葦原最強の弓集団が使う建物であり、その警護が厳重なのは当然のことだ。

 まして『獣面』から裏切り者と不埒者が出た直後だ。

 忍者たちはさぞ緊張していることだろう。


「この先が控えの間だ」


 俺は分かれ道で停止した。


「ルーヴェ。たぶん俺たちの声が届くと思うが、内緒話だから口を閉じててくれ」


「うん」


「シア。忍者には色々な奴がいる。普段通り振る舞ってくれて構わない」


「分かりました」


「呼称だけ決めましょう。ルーヴェ殿が『翔狼しょうろう』で、シア様が『歌猫うたねこ』です」


「蓑猿。後は任せる」


「承知」


 俺は一人別方向へ歩き出した。






 屋敷には『十弓』一人ずつに居住区が設けられている。

 議事堂付近が高位の十弓の部屋で、位が下がれば下がるほど街区に近い部屋が宛がわれる。


 十弓は庭に面した廊下を渡って議事堂へ向かう。

 支流が集まって本流となるように、各『十弓』の部屋から伸びる通路は途中で合流する。

 最終的には十人全員が揃った状態で議事堂に到着する――という趣向らしいが、実現したことはない。

 全員を招集したとしても、いつも誰かが欠けているからだ。

 

「――――!」


 廊下を歩いていると、少し離れた場所でおかしな声が聞こえた。

 女の声だ。

 それにぎしぎしという妙な音。


(……?)


 何気なくそちらへ足を向けると、忍者が三人がかりで『何か』を掴んでいるのが見えた。

 その『何か』は部屋の扉に引っかかっているらしく、はみ出した黒い布を三人の忍者が引っ張っている。

 布団でも取り出そうとしているのか。


「おい。何して――」


 忍者三人が勢いよく後方へ転び、回転しながら立ち上がった。

 そして―― 



「ひゃっっ!!」



 一人の女が扉から引っ張り出され、すてん、と尻もちをついた。


 いや、『すてん』は少々優し過ぎる音だ。

 もう少し重たげな――有り体に言って『どしん』という音――と共に女が一人転んだ。


 床にへたり込んだ格好の女は、鬼灯ほおずき柄の入った黒い付け下げ姿だった。

 袴も黒く、背に流した髪も黒い。

 瞳は俺と同じ青で、温和な顔では眉がいつも困惑の八の字を描いている。

 年は俺より少し上。シアと同じぐらいだろう。


「アマイモ十位」


 俺が声を投げると、転んだ女が弾かれたように立ち上がる。

 翻るのは灰色の狩衣かりぎぬ

 額のやや上には葉のついた芋蔓いもづるを模した髪飾りが巻かれていた。


「あ、わ、ワカツ九位っっ!!?」


 立ち上がった女は俺の顔をしげしげと見つめ、じわっと目尻に涙を浮かべた。


「ワカツ九位だ……!! 本当にご無事だったんですね……! 良かった……!」


 年の割に甘ったるく、覇気の無い声。

 こそばゆさのあまり苦笑を浮かべてしまう。


「泣くほどのことじゃ……。……あー。まあ、お陰様で」


「なに笑ってるんですかぁ! 心配したんですよぉ!」


「十弓が気安く泣くなよ」


「そんなこと言ったって、出るものは出るんですよぉ……」


 目鼻を赤くしたアマイモ十位が瞼を閉じると、幾つかの涙が頬を伝った。


 それは俺の頭の少し上で彼女の顎を離れ、ずいぶん時間をかけて床に落ちる。

 俺は床で跳ねる涙を見届け、ゆっくりと視線を上に動かす。


 膝。腰。腹。

 ようやく、胸。


 首。顎。

 そろそろ、頬。


 やっと目が合う。


 俺は彼女を見上げていた。

 ――――長くそうしていると、首が痛むほどの角度で。


「……またでかくなったんじゃないのか」


「え? ぅぅ……」


 十位は申し訳なさそうに身じろぎした。

 

 彼女の身長は俺より優に頭二つ、もしかすると三つは大きい。

 シャク=シャカやセルディナといった偉丈夫より、更に頭一つは背が高い。

 女性としては異常なほどの高身長の持ち主で――もっと言えば、大きいのは縦だけではない。


 肩幅が広いので、横にもやや大きい。

 骨が太く、筋肉が厚く、その上よく食べ、よく運動をするので、手足にもしっかりした肉がついている。

 胸と尻もかなり大きく、小さな弓なら乳房の上に寝かせることすらできる。


 太っているわけではない。

 頬や顎はすっきりしており、動きも機敏だ。

 腹や腰にもそこまで肉がついているわけではない。


 ただ、彼女は生まれつき身体が大きい。

 そしてどれほど成長しても、一般人との差が埋まらない。

『人間としての設計図』が俺たちの五割増しで大きめに描かれているようなものだ、と誰かが言っていた。


「十位。ここで何してたんだ?」


「あの、『また大きくなりましたね』って四位に言われて、それで、ここのお部屋――」


 示されたのは先ほど彼女が詰まっていた部屋だ。

 物置らしく、出入口は小さい。


「去年はぎりぎり入れたんです。今年は……今年も入れるよねって思って」


「入ったのか」


「入りました」


「で、詰まった」


「詰まりました……」


 しゅん、とうな垂れる。

 うな垂れてもなお俺より遥かに大きい。

 背にする弓すら見えない。


「気にするな。大きい方が良いこともある」


「ほ、本当ですかっっ!!!?」


「ッッ!!!」


 ふすまがかたかたと震えるほどの大声。

 きいん、と耳に痛みを感じた。

 彼女を引っ張り出していた下忍三人も、両耳を押さえている。


「じゅ、十位」


「はい?」


「声がでかい」


「ぁぅ」


 十位は再び、熊並みに大きな身を縮ませた。


「ご、ごめんなさい……。私、大きくてごめんなさい……」


「……そう落ち込むな。元気そうで何よりだ」


 こんなやり取りをするのも久しぶりだ。

 俺が懐かしさに頬を緩めていると、萎れていた十位の顔にゆっくりと、柔らかな笑みが広がる。

 それは朝顔の開花を思わせた。


「……」


「……?」


 アマイモ十位は手伝いを終えた娘が母に褒められるのを待つかのように、もじもじと身じろぎしている。

 ちらちらと上目遣い――らしきものをこちらに向けているが、彼女が上目遣いできる相手は象か馬ぐらいだろう。

 俺は象でも馬でもないので、普通に見下されている。


「九位。九位」


 きゅーい、きゅーい、としか聞こえない。


「どうした?」


「何だかおっきくなりましたね」


「……」


「えへへ」


 意味は分からなかったが、無邪気な笑顔が癇に障った。


「それはどう――もっ!」


 俺はそのでかい体にぶつかってやったが、十位はびくともしなかった。

 それどころか体当たりした俺の方が反動でよろめき、すてんと転ぶ。


「だ、大丈夫ですか?! だ、誰か! 誰かある! ワカツ九位が何も無いところで転びました! 手当を!!」


 ざざざ、と大勢の忍者が現れる。

 俺は尻もちをついたまま彼らを見渡し、肩を落とした。


「十位」


「ダメですよ、無理しちゃ。ちゃんと休めてないって聞いてますよ?」


 俺は差し伸ばされる手を掴み、試しにぐいと引っ張ってみた。

 十位は城のように重く、本当にびくともしない。


「十位」

 

「はい?」


 立ち上がり、緑の狩衣に傷が入っていないことを確かめる。

 弓とうつぼに触れ、問題ないことを確認する。


 俺は目配せで忍者を下がらせ、アマイモ十位を見上げた。


「ただいま」


「……! おかえりなさい!」


 十位はにっこりと微笑んだ。

 俺は濁りの薄まった息を吐き、彼女と共に歩き出す。

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