第12話 11

 

 ルーヴェが大型鳥をどうやって手なずけているのか、気にはなっていた。

 答えは簡単だった。


「とぉーと、とーぉ。トぉぉと、とぉ」


 ルーヴェは腰を低くし、草を食む鳥にそろそろと近づく。

 首の長い鳥は何事かとルーヴェを見たが、すぐにぷいと顔を背けた。

 おそらく俺たちが猿に見えているのだろう。凶悪な鉤爪を持つこの土地の鳥にとって猿は虫けら同然なのかもしれない。


「と、ととぉぉと。とー……と」


 盗人のごとく近づいたルーヴェは矢庭に跳躍し、がしっと鳥にしがみついた。


 ころろろっと鳥が鳴く。翼がぶわりと広がり、長い足が地を蹴った。

 が、その時にはすでにルーヴェが鳥の頭に大きな頭蓋骨を被せている。


 視界を塞がれた鳥は首をぶんぶんと振り回し、暴れ牛さながらに走り回り、乗り手を振り落とそうとした。

 が、どうあっても頭蓋骨を外せず、乗り手を振り落とせないことに気付くと、徐々に抵抗を弱めていった。

 だがルーヴェの調教は終わらなかった。

 鳥に乗る彼女はどかどかと不定期に腹を蹴り、首を絞め、完全に自分が生殺与奪を握っていることを知らしめている。

 一時間が経ち、二時間が経つ。

 鳥は完全におとなしくなる。

 これにて一丁上がり。


「ワカ。シア。いいよ」


 ルーヴェが俺たちの潜む茂みに向けて言葉を放る。

 今や彼女自身も大きな頭蓋骨をかぶっていた。


「力ずくだな……」


「鳥の言葉でも話すと思っていたんですか? ああする他に無いでしょう」


 俺とシアは朝方に捕まえた別々の鳥に乗っていた。

 彼らは既に俺たちの従順なしもべだ。首には太く丈夫な蔓が巻かれており、時折苦しそうな呻きを漏らしている。


 ルーヴェが新たに捕獲した鳥に乗り、とたとたと帰還した。

 これで三羽。

 日の出と共に始まった『鳥捕獲作戦』は昼下がりにようやく終了した。


「これで「きり」にいける」


「ああ」






 俺たちは広大な丘陵を駆け上がった。

 目の良い俺が先頭で、脱落する危険性の小さいルーヴェが最後尾、シアが中央だった。


 矢のように、という比喩がある。

 鳥の駆ける速度はまさに矢のそれだった。

 俺は今、天へ放たれた矢と同じ光景を見ている。


 強靭な二脚は人間を乗せているとは思えないほど軽快に、そして力強く地を蹴る。

 見る見るうちに景色は左右に流れ、冷たい風が頬を撫でる。


 鳥には鞍をつけていないので、尻に伝わる衝撃は小さくない。

 だが俺の目や耳が受ける衝撃はそれ以上に大きかった。


 丘を駆け上がれば駆け上がるほど、世界は広さと奥行きを増していく。

 大地はめまいがするほど遠くまで続いている。

 池かと思っていた水源が、近づくにつれ巨大な湖に変わる。

 小枝のような木々が、近づくにつれ城ほどの大樹であったと分かる。


 天を仰げば、突き抜けるような青空。

 背を打つ風は大きく力強い。

 鳥が転びでもしようものならそのまま凧のように飛ばされてしまうのでは、と思うほどだ。



 安全な岩場で一度だけ休憩を取り、俺たちは更に鳥を走らせた。



 丘陵を下り、山の中腹を走っていると小さな恐竜の群れが俺たちに追従していた。

 尾が地面と水平に伸びた、ラプトルそっくりの黄緑色の恐竜。

 後方から現れたそいつらは人間の足をくぐる猫よろしく鳥たちの隙間を縫って走り、そのまま渡り鳥のごとくどこかへ去っていった。


 しばらくすると、右手の山の平原に鹿らしき生き物が飛び出すのが見えた。

 ねじれた二角を持つ、奇妙な鹿だった。

 そいつはぴょんぴょんと軽快に駆け、斜面を転がるまりさながらに方々へ散っていく。


 ややあって、彼らの後方から暴君竜ティラノが現れた。

 どだん、どだん、どだん、と地が揺れるほどの速度で走っていたそいつは鹿の一頭に追いついたが、今まさに噛み殺そうとした瞬間、盛大に転ぶ。

 どだっ、どだだっ、と巨体が転がり、やがて俺たちの視界から消える。



 山を下り、湖畔を駆ける。



 水中からは例の背びれ恐竜が顔を上げるところだった。

 海さながらの広さを誇る湖からは数頭もの背びれ恐竜が顔を出していた。

 一匹はサメ並みに巨大な魚を咥えており、びちびちと跳ねる魚に合わせて顔を振動させている。


 その周囲には毛むくじゃらの象がたむろしていた。

 ブアンプラーナの象よりは小さいが、立派な牙を持つ象だ。

 と、目の前を虎らしき生物が横切る。

 盛り上がるほどの筋肉を持つ、毛の薄い虎だった。

 そいつは俺たちには目もくれず、象目がけて襲い掛かる。

 ぷおお、ぱおお、と象たちが吠え、どたどたとその場を逃げ出す。

 その地響きで危うく鳥が転ぶところだった。


「――――」


 いまだに信じられなかった。


 霧一つ隔てた隣の土地にこれほどまでに雄々しい生物たちが暮らしていた。

 そして世界は、俺が思っていた以上に雄大だった。

 弓の腕を磨き、名声を勝ち取ろうとし、国に裏切られたと拗ねていた自分がひどくちっぽけに感じる。


 俺は打ちのめされるような気分を味わうと同時に、いくらかの清々しさも感じていた。


 この世界の雄大さは、俺の未熟さや至らなさなど気にも留めていない。

 それが少しだけ、心地よかった。






 どれぐらい走っただろうか。


 俺たちは青に近い緑色の山々と相対していた。

 ここを越えろと言われたら胸中を絶望が過ぎっただろう。


 だが俺たちは何も冒涜大陸を横断するわけではない。

 山嶺に面した俺たちの左手側に目的地が見えていた。


「霧だ……!」


 見間違えようもない。

 あの忌まわしい霧がすっぽりと土地を包んでいる。


 それは山裾をすっかり覆っており、終わりが見えない海のごとき様相を呈していた。

 だが弓兵の俺がじっと目を凝らすと霧の向こうに山や建物の影が見える。

 あの先に俺たちの世界がある。


「シア」


「ええ。行きましょう」


 だが俺たちはすぐに急停止することとなった。

 断崖が目の前にあったわけでも、広大な湖が広がっていたわけでもない。



 そこには何も無かったのだ。

 いや、正確には何も『居なかった』。



 初めに異変に気付いたのはオリューシアだった。

 彼女はぐいと鳥の首紐を引き、その場に停止する。


 続いて俺が。それからルーヴェが。


「妙だな」


「ええ」


「みょう?」


「生き物がいない」


 俺たちの行く手は樹林に囲まれた平野部で、霧に包まれた土地はその更に向こうだ。

 ちらと見れば澄んだ川も流れており、大きな虫も飛んでいる。

 草木はみずみずしく、土の匂いは香ばしい。

 ――なのに、生き物がいない。


 哺乳類も、鳥類も、もちろん恐竜も。

 何一ついないのだ。


 辺りはしんと静まり返っている。

 真昼間の静寂ほど薄気味悪いものはない。


(何なんだ、ここは……)


 ルーヴェの経験に照らし合わせると、暴君竜ティラノを筆頭に巨大な肉食恐竜がうろついている土地では生物が姿を消すらしい。

 だがそれは所詮一時的なものだ。

 満腹の恐竜は獲物を襲わない。

 肉食生物が腹を満たすと、どこからともなくぞろぞろと生物が集まって来る。


「ラプトルの群れとか、大きな肉食恐竜でもいるのか……?」


「らぷとる、そんなにたくさんではくらさない」


「……」 


「山ぐらいでかい奴だったら……、おい、シア!」


 シアは青ざめていた。

 早くも鳥を駆り、前へ進もうとしている。


「嫌な予感がします。早く霧を抜けましょう」


「抜けましょうって……どうするつもりだ」


「それは……」


 シアは口ごもった。

 ふう、と俺はため息をつく。

 そして昨夜から温めていた考えを口にする。


「俺が鼻と舌を潰す」


「?!」


「それしかないだろう」


 冒涜大陸を包む霧の性質は「五感をめちゃくちゃに入り乱れさせる」こと。

 視覚と聴覚が入り混じり、嗅覚と味覚が入れ替わる。

 触れるものを味わい、見たものを聞く。

 嗅いだものを音として感じ、聞いたものが肌をざらつかせる。

 平衡感覚に影響が出るわけではないのだが、外界の刺激をまともに知覚・受容できなくなった人間は歩くことすらままならなくなる。


 だが裏を返せばそれは、「五感を潰していれば」霧が無力化されるということでもある。


 さすがに五感すべてを潰して前進できるほど俺は器用ではないし、それでは死ぬのと大差ない。

 なので、部分的に潰すことにした。


 目を潰したら生活できないし、耳を潰せば軍にはいられない。

 皮膚をぜんぶ剥ぐのは無理だ。


 翻って、耳と舌ぐらいならどうにかなるだろう。

 匂いを嗅げなくても日常生活に支障は無いし、飯の味が分からなくともとりあえず生きていくことはできる。


「な、何を冗談言ってるんですか……?」


「冗談じゃない。本気だ」


 元より、五体満足で戻れるとは思っていない。

 鼻と舌だけで済むなら安い。


「霧に近づいたら俺が鼻を削いで、舌の皮を削ぐ。これで霧の影響を受けるのは目、耳、皮膚の三つだけだ」


 目に見えるものを皮膚で感じ、音に聞く。

 音で聞こえるものが目に見え、肌に感じる。

 肌に感じるものが目に見え、音に聞こえる。

 これだけだ。

 これだけなら、どうにかできるはず。


 問題は、国を挙げて冒涜大陸へ侵攻しようとしていたザムジャハルがとっくにこの方法を試しているのではないか、ということ。

 あまり考えたくはないが、俺がこの方法で無事脱出できた場合、あの国が密かに冒涜大陸への侵攻を成功させている可能性が高くなる。

 もっとも、この方法で脱出できなければ俺はここで死ぬしかない。


「ワカ。おはなとべろ、つぶす? なんで?」


「あー……五感が……『五感』ってわかるか?」


「ごかん」


「そう。五感だ」


 俺たちは鳥の速度を緩め、樹林に立ち入ろうとしていた。

 視界の隅にちらりと川が映る。



 瞬間、心臓が止まりかける。



(っ!!)


 おそらく『それ』は俺にしか見えなかったのだろう。

 シアは睨むように前だけを見ているし、ルーヴェは俺の言葉を待っている。


「シア」


「何ですか」


「ちょっと用を足してくる」


「あっちを向いています。そこでしてください」


「……いや、向こうに行きたいんだが」


「だめです」


「だいじょうぶ。わたし、いっしょにいく。ワカをみてる」


「あー……いや……」


 ルーヴェの申し出はありがたいのだが、できれば一人で行きたかった。

 なぜなら俺は茂みの奥に見えた川の傍に、人の姿を見たからだ。


(正直に言うべきか……? いや……)


 洞穴の骨のために墓を作るぐらいのことはしてくれたが、シアは基本的に脱出を最優先に考えている。

 彼女は脇道、寄り道、道草を許さない。

 おまけに今、どういうわけか彼女はひどく緊張し、焦燥している。

 唇は青紫に変色し、肌からは血の気まで引いていた。

 この状況で「人影が見えたから様子を見に行きたい」なんて言えば怒鳴られるに決まっている。


 申し訳ない、という気持ちはある。

 目的を忘れるな、忘れるな、と言われているのに俺は今からそれを忘れようとしている。

 俺が足を止めれば止めただけ、シアとルーヴェを危険にさらしてしまう。

 俺が様子を見に行く間に、彼女たちはラプトルに噛み殺されてしまうかもしれない。


 だが――やはり俺は放っておけない。

 ルーヴェのようにこの土地に迷い込み、取り残された人間がいるのなら助けてやりたい。


 『それはシアとルーヴェを危険にさらしてまでやるべきことなのか』と、意地悪な誰かが頭の中で囁く。


 そうだ。

 その通りだ。

 俺は今から女二人を危険にさらす。


 もし戻ってきたときに二人が死んでいたら、俺も後を追う。

 できるだけ苦しい死に方を選んでやる。

 だから文句を言うな。


 俺の目に何かを感じたのか、シアがため息を漏らす。


「ルーヴェ。この辺りに獣の気配はしますか?」


「んー……」


 ルーヴェは少しだけうつむき、うつろな目をした。

 放心しているのではない。集中しているのだ。


「へんなにおいはないよ。あまいおはなのにおいがちょっとするだけ」


 シアは俺をちらと見た。


「……手短に。何もいないとは思いますが、ここはおそらく危険です」


「何もいないのに、か?」


「その『何か』が戻って来るかもしれないからです」


「……」


 ああ、とシアは付け加えた。


「鳥から降りないようにしてくださいね」


 頷いた俺は茂みの奥へ向かった。






 俺が茂みをかき分けたのは数十秒のことだった。

 視界が開けると、そこには清らかな川がさらさらと流れている。


 雪解け水のように美しい川だった。

 水深は浅く、水底の小石がところどころに突き出している。

 ふっ、ふっと鳥が舌を出していた。きっと水が飲みたいのだろう。


 俺は手綱をうまく操りながら水辺に近づく。





 ――居た。


 女だ。

 女が立っている。





 川岸に立つ彼女は水底を見下ろしていた。

 貫頭衣の上から外套を羽織っており、長い裾が地を擦っている。

 背丈は俺より少しだけ低く、長い髪の色は黒。


「お、おい。……おい!」


 鳥を止め、声をかける。

 女がゆらりと振り返る。


「およ?」


 甘い氷が陶磁器の中を転がるような、何とも可愛らしい声だった。

 側頭部には紅葉を思わせる濃淡まばらな琥珀の髪飾りがあしらわれている。

 彼女は驚いているようだった。


 目はくりくりと丸く、その色は――――驚いたことに緑色だった。

 エーデルホルンやザムジャハルでは「翠玉エメラルド」なんて気取った名で呼ばれる緑。

 葦原風に言えば、明るい常盤色ときわいろ


「んん~?」


 女は愛嬌のある顔に難しい表情を浮かべた。

 その仕草は子供っぽく、「女」と言うより「少女」のようだった。

 ただ胸元は膨らんでおり、発育の良さを窺わせる。


「ん~……んっ!」


 やがてその顔にぱっと笑みが広がった。

 出会ってまだ一分も経っていないというのに、色々な表情を見せる少女だ。


「いい匂いがするね、おにーさん」


「!」


 ルーヴェのふにゃふにゃした話し方とは違う。

 ごく一般的な文明人の、理路整然とした話し方。

 俺は涙が出そうになった。


「お、あ」


「おあ?」


「お、俺は」


 俺は思わず鳥から降りそうになった。

 が、どうにか踏みとどまる。

 ここでうっかり鳥から降りて、そのまま鳥に逃げられて、その後恐竜に襲われるなんて無様な事態だけは避けたい。


「俺は葦原のワカツだ。君は?」


「あし……はら?」


「?」


「あしはらって何?」


 ふつっと怒りが小さく泡立つ。


 確かに葦原は五大国の中で最も国土が小さく、人口も少ない。

 だがそれでも、五大国の一つを担う国家だ。


 この田舎者、葦原を知らないと抜かしやがった。


「あ、あれ? なんか怒ってる?」


 黒髪緑目の女は顎を引き、いたずらを見破られた子供のような上目遣いをする。

 危うくどきりとするところだったが、俺は努めて冷静に息を吐く。


「葦原は良いところだ」


「良いところ?」


「そうだ」


 この田舎者が、という言葉をどうにか飲み込む。


「知らないのはちょっともったいないな」


「そうなの?」


「ここから出たら連れて行ってやる。旅費は俺が持つ」


 勇壮ではないが剛毅な城。

 美麗ではないが興趣ある街並み。

 赤く染め上げられた名所。笛の音。鼓の響き。

 この少女の驚く様が目に浮かぶ。


 夜桜など見たらきっと――と思ったところで思い出す。

 今は秋だ。


「ぷっ」


 女が笑みを漏らした。

 服の下で持ち上げられた手が首の辺りに膨らみを作る。


「おにーさん、変な人だね」


「そうか?」


「だってまだ自己紹介も終わってないのに『連れて行ってやる。旅費は俺が持つ!』って」


 この子供っぽい女に笑われた悔しさと恥ずかしさで顔が熱くなった。

 だが、不快感は覚えなかった。

 心地よい恥ずかしさだった。


「君、名前は?」


「名前?」


 俺の脳裏にルーヴェの顔が過ぎる。


「頼むから、無いとか言わないでくれよ」


「? 名前が無いわけないじゃん。何言ってるのおにーさん」


 あはは、と女は屈託なく笑う。

 その甘い声音がひび割れかけた俺の心にじんと沁みた。


 そういえばシアもルーヴェもほとんど笑わない。愛嬌もないし、むっつりしている。

 それに比べて目の前の少女はよく笑うし、表情もころころとよく変わる。


「私の名前はねえ……アキノアカイアマイナツカシイカゼ」


「……」


 ひょう、と風が吹いた。


「す、すまん。もう一回頼む」


「あはは。聞き取れないよね。ごめんね?」


 おほん、と咳払いした女は繰り返した。


「私の名前は『秋の赤い甘い懐かしい風』」


「……変わった名前だな」


 どこかの国の祭祀職か何かだろうか。

 葦原でもそういった家柄の人間は特殊な名を持つことがあると聞く。


「そうかな~? ……」


 と、俺の乗る鳥が首を伸ばし、川の水を飲み始めた。

 ごぐごぐという嚥下の音が首を伝ってここまで響く。


「美味しそうだね」


「水がか?」


「違うよ。その鳥がだよ」


「……そうか?」


「まあ、私は食べないんだけどね」


「?」


「お肉。好きじゃないの。食べたことないんだ」


 だったら何で美味しそうなんて言うんだよ。

 そんな言葉を飲み込む。


「奇遇だな。俺もだ」


「ふぇ?」


「食わないんだ。肉」


 幼い頃、生焼けの肉に中って以来、俺は一度も肉を口にしたことはない。

 牛や豚、鳥だけではない。基本的には魚も食わない。

 食うのは主に米と野菜だ。それに卵。大豆や海藻も好きだ。海老や蟹はかろうじて食える。

 よく筋肉がついたものだと呆れられることも多い。


 ついでに、肉に中った経験が毒に興味を持ったきっかけでもある。

 肉は色々な意味で俺の人生を変えた。


「あー。だからいいにおいがするんだね。おにーさん――ワカツの身体、果物みたいな匂いがする」


 女が俺に顔を近づけ、すんすんと鼻を鳴らしている。

 ぞわりと背筋が震えた。

 恐怖ではない。甘い感覚にだ。


「お、おい顔近づけるな。あきのあかい……あー……」


「『アキ』でいいよ」


 ふふん、とアキは笑った。

 彼女の身体こそ良い匂いがする。

 爽やかな花の匂い。香水でも身に着けているのだろうか。ルーヴェが感じ取ったのはこの匂いだろう。


 その奔放な雰囲気に飲まれかけていた俺はようやく本来の目的を思い出す。


「ここで何してるんだ? 他に仲間は?」


 アキは質問の意図を読み違えたらしい。


「私? 私はねえ……軍人なの」


「グンジン?」


 俺は思わず鸚鵡おうむ返す。

 軍人といったのか、こいつ。


「そ。軍人。ほら、あそこ」


 アキの示す方角を何気なく見やった俺は戦慄した。




 そこは山間の平地で、ルーヴェやシアの立つ場所からは見えない位置にあった。

 肩をぶつけ合い、熱い鼻息を噴き、呻きを漏らしている生き物の軍勢が目に入る。


 恐竜だ。

 十数頭もの暴君竜ティラノ、数十頭もの異竜アロ、それにおぞましいほどの盗竜ラプトルが山間を埋め尽くしている。

 鞍が嵌められているものは見当たらない。

 首輪もなければ、鎖も見当たらない。

 なのに、奴らはおとなしく列をなしている。




 顎が外れるほどぽかんとした俺がゆっくりと視線を戻すと、アキと目が合った。

 彼女の顔にはうっすらと笑みが浮かんでいる。

 冷酷さは感じない。

 そこにあるのは猫を思わせる無邪気さ。


 俺たちの間に言葉は無かった。

 ただ、柔らかいのりが固まるようにして、互いの関係性が固まっていくのを感じる。


 世界が、いやに静かだった。

 ひりつくような緊張に汗が流れ、口の中がからからに乾く。


「ワカツこそ、ここで何してるの?」


 アキが一歩、俺に近づく。

 俺は手綱を引こうとしたが、できなかった。

 指先が冷え切っている。


「他に仲間は、いるの?」


 鳥は。

 恭順の意を示している。

 俺ではなく、目の前の少女に。


「私はね? これから攻め込むの」


 どこに、という言葉が喉から漏れる。

 枯れ木がかさりと落ち葉を擦るような、ひどく小さな声だった。


「どこだろうね? どこにしようかなって思ってたの。霧がこんなに薄くなるの、初めてだから。――でも、今決まったかも」


 アキの口元に笑みが浮かぶ。


「――――『葦原』」


「!!」


「そんなに素敵なところなら、見に行ってみようかな。今から楽しみ♪」


 アキを包む外套が、はらりと解けた。

 すっと伸びた手で彼女は貫頭衣すら脱ぎ捨てる。






 彼女の手は。

 手首から先が深緑の鱗に覆われていた。







 五本指はやや長く、先端には硬く鋭い爪が伸びている。

 足もだ。

 膝から先が頑丈な鱗に覆われ、むき出しの素足は蹴爪のある五本指。


 腕の側面から肘、肩、そして背部にかけて目と同じ緑色の羽が連なっている。

 まるで長い羽衣を纏っているかのようだ。


 胴体は紛れもなく人間だった。

 胸元はスカーフのように小さな布で覆われ、腰から腿にかけても僅かな布が巻かれている。ほぼ半裸だ。

 白く艶めかしい腹部にはうっすらと筋肉が浮き、むき出しの二の腕や腿、鼠径部付近には汗の玉が浮いていた。



 手足がトカゲの人間。


 いや、違う。

 こいつらは――――





 『恐竜人類』






「あ……ぁ……」


 俺は今度こそ本当に腰を抜かした。

 すとん、と骨が抜けるような感覚。思わず鳥にしがみつく。

 弓すら手放しかけていた。


「ふふっ……。――――」


 含み笑いに続いて、もう聞きなれたあの声音が響いた。

 すっかり聞きなれた、聞きたくない声。



 クオッ、クオッ、クオッ、と。

 彼女はラプトルそっくりの鳴き声を発した。



「みんな~~~~~~~!!! 生き残りがいたよ~~~~~!!!」




 樹林の中をざざざざ、と何かが迫って来る音。

 四方八方から『何か』が近づいてくる。

 俺は辺りに視線を這わせたが、やがてアキ自身の目線とかち合った。


 彼女は俺に秋波を送る。


「あ、ごめん。『生き残り』じゃなかったね」


 しゅるり、と舌が覗く。


「『食べ残し』だ♪」

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