追憶……(十)  【彼土】

 ◇◇◇




 告げられた、言葉は……。


「――前提から、ね……。りんり、其方が異成り世に戻ることは叶わぬ。故郷に帰る事は、ほぼ不可能だと告げなくてはならない……ごめんね」


 ……とても、残酷な真実であって。


 ハクシのそんな言葉に、目を見張った。

リンリは何か喋ろうとして、けれど言葉を見付けられずに唇を開閉するだけに留まる。


 数秒、数十秒と。長い沈黙の末に。


「……帰れな、い――」


 消え入りそうな声を、なんとか発せた。


 ようやっと口から出たのは、その程度。

極度の緊張と心痛からか口内の水気が失われ、喉に異常なまでの渇きを感じる。そこに胃液が上がって来てしまい、口を押さえて強く噎せる。

 そんな姿を見兼ねてだろう。沙汰に立ち会っている誰か一人がリンリの背中を撫でてくれた。


「其方は、帰郷は叶わず。死を待つ定め。

簡潔に告げるならば……その二つが実情だ」


 分かっていた。もう分かっていたさ。

 正直なところ現代もとのせかいに帰還が不可能なのは、この地で再度の目覚めを自覚した時には、次いでハクシからここが『異世界』のような場所と聴いた瞬間には予想できてしまっていた。だけど、


 だけれども『心構え』という意味では、てんで構えてはおらず。まったくの無防備であった。ここまで『おざなり』であったのだ。思考をしないように逃げていた。よって、いざその真実を突き付けられてしまえば、どうだ? 精神的に多大な負荷やら損傷を受けてしまったという結果であり。


 自分は直ぐに死んでしまう。帰れないから。

実感がない死よりも、後述された『帰れない』という事実によって完全に打ち拉がれた。


「はは……なんだ。帰れない……かぁ」


 リンリは虚しく言葉を反復。もう立てない。

途端に膝が笑い出して、体幹の安定を欠いた。

その場に四つん這いのまま、動けなくなった。


「……ねぇりんり、其方は」


「そうか……。いや、そんな――」


 深くうつむいて、嗚咽。てのひらで顔を覆う。

 これまでずっと現状を直視しないように必死に自分を騙し続けて、どうにか目を逸らし、見て見ぬふりをしてきたが。もう完全な手詰まり。


 もう限界に達した。ここらで直視をしなければならないらしい。彼女からはっきり『帰れない』と告られてしまった以上は、精神的にも現状としても逃げ場などは何処にも無いのだから。


「……ふか、のう。か」


 続く、言い表せぬ虚脱感やら絶望感だ。

 生まれ育った地への『帰還』が叶わない。そんな悲劇は到底信じたくない……。

 突然に知らない場所に放り出されて、帰る事は不可能だと判明してしまって。だから仕方なく『これまでの日常を諦めよう』など……。そうそうできるものか。できるはずがないだろう。故郷には大切なものがあった。やり残したことがあった。

 あぁ本当に馬鹿げている。ふざけている。常人が簡単に納得できるわけが無いのだ……!


 夢想くうそう非現実そうさくの世界の中ならばいざ知らず。

これは、ここは紛うことなき現実だ。決してリンリは物語の『主人公』などではないのだ。今この現実を生きている一人の血の通った人間だ。

 不完全で不確実で不条理な『現実』を不器用で不恰好に不合理に足掻きながら、ままならないと嘆きつつも食いしばって。喜も楽も、苦も哀も嫌なほど経験し。唯一の肉親に先立たれても、それで理不尽な目に遭おうと唯人ただひと並みに乗り切りって来た、どこにでもいる一般人だ。なのになぜ……何故、どうしてこんな羽目に陥っている……?


「……なぜだ? なんで?

どうして……? どうしてだよッ!!」


 譫言を放ちながら、脳内は「なぜ自分が――」から続く言葉の数々で取り乱すリンリ。

 錯乱、狼狽、恐慌の渦。顔が引き攣る。息ができない。心臓の鼓動が早まり、身体中へと無駄に血流が巡る。毛穴という毛穴から油汗。全身の震えが止まらない。あと頭が痛い。

 しかしながら外面は大丈夫そうに取り繕おうとしてしまうのは、他人に自分の弱い部分を見せまいとする意地は、リンリの弱さ。気質や本性。


「ねぇ、其方……大丈夫か?」


「あぁ、はぁ、大丈夫だ。

続けてくれ、ハクシ……様。頼む」


 ――本当のところ、大丈夫ではない、が。

壊れそうな思考を中断して、もう半ば機械的に彼女の姿を見上げた。それで目から溢れてしまった涙が頬を伝って行く。きっと自分リンリは、かつてなく惨めで無様な酷い顔をしている事だろう。


「――其方の帰還は叶わない。何故なら、此土しど彼土ひどここノ土と彼方かなたノ土の境界は絶対的なもの故。そも、彼方との境界線のような高次を観測する方法が此土には無い……たぶん。だから、“人”が自力で土の境を渡るのは“不可能に限りなく”近い」


 それなら、何故――?


「それなら――

「ならば何故、其方はここに現れたか?

即ち、人が自力では無理なれど、それが不可抗力という形でなら有り得てしまうのだろう」


「不可抗力……」


此土始ふるくからの導至集ものがたりにもある。異成り世から人が紛れるのは、言わば『水の満たされたさかずきどうしの乾盃』様々なセカイせかいが邂逅する乾盃すれちがいの最中だと。ある盃に満たされていた水の“ほんの一雫”が何かの拍子に跳ねてしまい、たまたま近くの盃に混入したと喩えられるか……あくまでも想像だけどね?」


 ――不可抗力の不幸、そんなもので。

そんもので、こんなな苦境に陥っているのかと。リンリは自分の運の無さに嘆く他に無い。


「嫌な……乾杯だな。まったく」


「ぁぅ」


「なんで、よりによって、俺が」


「うん。……そう、だね」


 ハクシは目を伏せた。


「其方は……死んで、しまう。今しがた、我はそう言ったな。聞き逃してはいないか?」


「死んで……しまう、か。大丈夫、聴いてた。理解が追い付いてないだけで」


「――こほっ……其方には知る権利が有る。

故に告げよう。真実、異成り世から来た者は一月と持たずに衰弱して、そのまま逝ってしまうのだ。悲しい事にそれがこの世の常なの」


「…………」


「――イヌモノ。りんり、ねぇ、答えて。

この言ノ葉が其方には理解できる……か?」


 リンリは力無く首を振る。


「そう。そっか……。解らないと言う事は、其方の居た彼土せかいでは『イヌモノ』が認識されていなかった。即ち、存在してはいなかったという事か。うん。例に漏れず、やっぱりそういう事だね?」


「……いぬ、もの」


 ――元の世には存在しない、


「『イヌモノ』とは? それは此土ここの命ある物、取り分けて意識や感情を強く持つ存在達が切り放し、どこかへ置き去りにした残思。置き去りにされ、時をかけ大きな流れによって浄化されゆく“何かだったもの”の残滓。……よく理解ができないなら単純に、りんりにとって微弱な『毒』だと捉えてね?」


 ――微弱な毒?


「異成り世の者には、己の内に取り込んだ『イヌモノ』を自浄じじょうする器官が無いのだ。より正確には、器官が有ってもその能力が備わってなどいない。……故に微弱な毒とて身体に溜まり、徐々に蝕まれる」


 ――それに蝕まれ、


「少しずつ、確実に蝕まれ。蝕まれ続け、やがて『穢不慣イヌモノミシリ』と言う病を発症する。これは此土では些細な旅病。しかし、病の元凶を自浄できぬ特異な存在が発症したならば……病は進行する。『イヌモノ』に徐々に精神を侵され、存在しない痛みや苦しみ、虚脱感に支配される。ゆくゆくは心が壊れ、五感を失い、衰弱し。最期に逝ってしまう……」


 ――逝ってしまう、と。


 ――ハクシは顔では非常に言い辛そうにしながらも。その半面、淡々とした口調で告げてきた。この世界では直接的に『異世界』が観測されていないとしても、その異世界から来た者の存在は十分に認知されている……のだろうか? そして、その者達の最期も同様に認知されていると?


 ――自分リンリは差し迫った“死”を待つだけの運命。

彼女の告げる言葉を全て信じるとするなら、何と言い表すべきか『泣きっ面に蜂』ではないか。


「――りんり……だが案ずるな。この運命から抗う方法は有るとも。返事はまだ良い。今は耳を傾けるだけで良いから、しっかり聴いていてね?」


 ハクシは立ち上がり。上座から降り、

トコトコとリンリの前まで来て、止まった。


「一つ、殆どイヌモノの入り込まない隔離された環境、及び浄化された環境で生活する」


 ハクシの肩に掛かる羽衣が、風もないのにリンリを撫でるように靡く。


「二つ、特別な統巫やその眷族に穢不慣イヌモノミシリが発症しないうちに、それも定期的にイヌモノを抜いてもらう」


 ハクシは優しい顔で、いや慈しむような顔で、そっとリンリを覗き込み、伝えてくる。


「我が其方に『統巫屋トウフヤで暮らさないか?』そう訊いた理由は、一つ目で上げた隔離された環境というのに当てはまるのが統巫屋だからだ。この領域は、系統樹ウゾティケクパの存在故に清められているし、土地そのものにイヌモノを大きな流れに乗せ浄化を促す加護もある。故に長い時を延命出来る……あ!」


 近すぎて恥ずかしくなったのか、ハクシはトコトコと元の場所に戻って行った。


「……決して、強制はしないから。

己の死なんて気にしない。我の話を信じない。或いは故郷に帰還する方法を探す為に抗う。どんな理由でも領域と統巫屋ここから去るというならば、我と我の使従は其方を止めはしない。少しばかりの食料と旅銭を与えて送り出そう……」


「…………」


「ただ我は個人的に、其方が統巫屋に留まる事を推奨する。雑用でも任せる代わり、生きる上で何不自由ない暮らしを約束しよう。我は求められるのであれば、可能な範囲で手を差し伸べたいのだ」


「……ハクシ」


 純粋な、善意による行為だ。そこまでしてくれるとは願ってもないリンリ。自分リンリにとって都合が悪過ぎる状況なれど、望むのならば、彼女は可能な限りの保障をすると約束してくれた。


 彼女を疑う理由は無い。告げられた事は全て真実なのだろう。ならば、返答は、


「では……うーんと」


「……あのっ」


 返答。返事を、しなければならないのに。


「うーんと、我からは以上だ。返事は……りんりの心の準備が出来るまで待とうかな?」


「俺は……っ」


 しかし、沙汰が終わるまで返答の一声を出す事は叶わなかった。稚拙な理由ながら、答えてしまう事は『現実を受け入れる事』になるから。その“受け入れる勇気”が少しばかり足りなかったから。


「今日の沙汰は、此処までとする――」


 ――沙汰の内容は、こんなものであったか。




 ◇◇◇




 頬に、鈍い痛みが走ったような――。


「……ん」


 夕焼けが紅く照らしていた立派な回廊。


 もうじきに闇に包まれようとしている。


 どれ程の間、意識を飛ばしていたのか。


「……痛っ」


 リンリは痛む頬を押さえる。


「サシギさん……?」


 表情は無いけれど、何かを言いたげな瞳。

掌を振り抜いたままの体勢で動かない彼女。


 ――サシギによって頬を叩かれていた。

 

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