追憶……(四) 【羽衣】
◇◇◇
――気が付くと水中。
意味が解らないまま水面から顔を出すと、何故だか裸姿で河川に流されていて。おまけに片足を痙ってしまい痛みから岸に上がれず、それで流されるままに滝に落ち、しまいには滝壺で溺れかけた。そんな風に災難続きだったリンリ。
だが過程はどうあれだ……。
彼女との邂逅。【ハクシ】という少女と出会えた事は実に幸運であった。でなければ、リンリは濡れた身体にムチを打って、当てもなく大自然の中をさまよう羽目になっていただろうから。
食料はもちろん無く。それどころか荷物や衣服の装備さえも無くて。山道を進む知識も持っていない野外活動の素人中の素人。おまけに不摂生から体力も万全ではない。そんな人間が挑むには、その挑戦は無謀過ぎるものであったろう。
仮に運良く人に出会ったり、人が住んでいる場所にたどり着けたとしても……。
悲しきかな、今のリンリの裸姿では不審者として警戒されてしまい、ろくな扱いを受けられなかっただろう事は言うに及ばない。
周囲に口利きをしてくれる、こちらの境遇を理解した案内人の存在はとても望ましい。
――だから自分は、心からハクシというあの少女に感謝しなければいけない。彼女がたとえ『どんな存在』だったとしてもだ、と。
リンリはそんな風に思いながら「先に上がって衣を着てくる」と告げて、一足早く岸に上がって行った彼女の小さな背中を遠目に眺めていた。……具体的には、身体を振って水気を飛ばし、その背中でゆらゆらと揺れる尻尾を眺めていた。
「尻尾。あれ、付いてるな……やはり本物だ。
かわいい。猫派だったけど、犬も良い……犬?」
――しっかりと、銀色のフサフサの尻尾が彼女の臀部、尾骨の辺りから生えているのを確認する。あれは本物に間違いはない。少女に対してやましい感情は抱かないが、可愛らしいと思うリンリ。はからずも些細な目の保養となってしまう。
それから。獣っぽい身体的な特徴は瞳や耳や牙に尻尾くらいかと思ったが、違うらしい。
彼女は背中側の肩甲骨の下くらいから臀部にかけて柔らかそうな白銀の被毛に包まれている。冬は暖かそうで夏は暑そうな毛皮で体温調節などをどうしているのだろうか。そも二足歩行にあの大きな尻尾は邪魔でしかないのでは。などなどと。半人半獣の身体を眺め続けて、彼女は“どこまで”人と違う存在なのだろうとリンリは思考を切り替えた。
「豆腐かぁ……」
リンリは【ケイトウドウフ】【トウフ】というのは彼女の肩書のようなものと解釈したが。その人外的な特徴を『
ここは、領域。彼女【トウフ】のような“特別な存在”が入れる場所だとも。つまり、
「つまり、豆腐のゲシュタルト崩壊……」
現状、考えてもしかたがない。得られた情報を頭の中で組み立てた結果、リンリは脳内の『豆腐』という言葉の概念が崩れただけに終わり。まったく役にたたない脳だと自分に悪態を吐く。
「豆腐って、なんだっけ……?」
むなしい呟きが聞こえでもしたのか、彼女がこちらをちらりと振り向いた。
リンリは視線をズラす。思考しながら、もう少しだけ優雅に揺れる尻尾を眺めていたかったところだけども。流石に何時までも年頃の少女の着付けを眺め続けているというのも良心が咎め、岸の反対の滝壺側を向いて、痙った足のふくらはぎを揉みながら気長に待つ事にした。
「うん。我の着付けは済んでいるぞ。
少々待たせてしまったか。其方も岸に上がって来ると良い。もう……構わないからね」
「あ、あぁ!」
しばらく経つと、ハクシが離れた場所に居るリンリへと大きめの声でそう伝えてきた。
一言返事を返し。リンリは振り返って「ようやく陸に上がれるな」と、岸へ向かい歩き出す。
「あれ……? どこへ行った?」
リンリが岸に上がると、ハクシの姿が何時の間にか消えてしまっていた。本当にほんの一瞬で姿が消えてしまったのだ。
「ハクシ様……? ハクシさん? おーい!」
はてさて、彼女は何処に行ったのかと探すと、岸辺にいくつか転がっている大岩の影から“ぴょこん”と獣の耳が生えてくる。
「ん……いや、なぜ隠れるんだ?」
そして次に、白くて小さな腕だけが綺麗な布を握って遠慮がちに出てくるのだ。
「我は失念していた。やむを得ぬな、これを其方の腰にでも巻いて。良い? そうしたら……あぅ、そうしてから、我に声を掛けてね?」
腕の主はそんな事を言ってくる。
「あぁ……俺に配慮が無かったな。悪い」
リンリの股間の物体は丸出しだった。
どうやらハクシは、直接に男性の陰部を見るのが恥ずかしかったらしい。リンリも勿論好きで年頃の異性に見せ付けてはいないし、むしろ縮んだ情けない物体なぞ見られたくない。実際に水中では彼女に気を配ってずっと両手で隠していたのだが。ここまでの彼女の反応が薄かったし、心身の疲労も合わさって岸に上がる時から隠していなかった。
落ち着ける場所へ案内をしてもらえるとの事で気が緩み、リンリの彼女へ対する配慮が疎かになっていたのは事実。股の間でぶらぶら揺らして水から上がってきたのだから無配慮もいいところ。
でも正直、岸に上がる前にでも「隠せ」と伝えて欲しかった所でもある。ハクシの小さな腕が小刻みにぷるぷると震えているのを見ると、実は直視しないように、意識しないようにと彼女なりに我慢でもしてくれていたのかも知れない。失礼だが可愛らしい話であり、また非常に申し訳なくなる。
「ありがとう。これ、借りるな?」
リンリはソレを受け取って、広げる。渡された物は金の刺繍で装飾されている純白の艶々した肌触りをした肩掛けのようだった。
素人目でも非常に高級そうな一品だと解る。だけれど、リンリの掌から水分を吸うと、その部分が薄く透けた。とても吸水性が良いようで、直ぐ布全体が“向こう側”が見えるほど“薄く透けて”しまった。
「……そ、そうか。貸してくれて感謝する……んだけども。あー、無いよりはマシだろうけど。コレ見方によっちゃ全裸より変態度がアップしない? スケスケな褌野郎とか、もうド変態だろ」
が、仕方なく、実際に巻いてみた。
やはり透けている。むしろ、全裸男から完全な不審者に昇格……否、降格している。なまじ布が良い為に、かえって悲惨な見た目になっているまである。
「……あの、やっぱコレ。キツイって!
ハクシ様! どうしようこれ、違う布は……」
「んむ? 終わった、の……?」
ハクシは初めてリンリに声を掛けた時以上に、おそるおそる岩影から顔を出してくる。
のそーりと出てきた顔は、実ったホオズキのように真っ赤っ赤。リンリと視線が合い、ハクシはゆっくりと視線を下に降ろして行き……。
「――ぁぅ、其方っ!! 透けているっ!!
男の人のが、ま、丸見えだけどっ!?」
ハクシは叫んだ。
リンリは叫ばれてしまった。
「あぁはい。丸見えだよ……な?
……うん、知ってた。いや悪いホントに」
少々理不尽なハクシの叫びに、
呆れながら謝っておくリンリであった。
◇◇◇
「あぁほら、その辺に浮かんでた大きな葉っぱを布とソレの間に挟んだから、もう大丈夫だっ! ほらほら、透けてないっ! 安心してくれ!」
「最初からそうしてぇ……」
「悪かったよ。でもさ、自分で濡れるとスケスケになる布を渡してきたんだろうに。単に俺は『巻け』と言われた指示に従っただけだから。……とか責任転嫁の言い訳をするリンリさんであった」
ハクシは伸縮性が高い羽衣のような物にくるまって身体を小さくし、涙声で文句を言ってくる。だが、リンリの言葉に何も反論を返せないのか、小さく唸るだけでそれ以降は何も言わなかった。……どうも、透ける布は素で渡してしまったご様子。
「そうだなぁ……。物を借りる身で言うのも厚かましいのだけど、どうせなら
「……なっ?! なんと!?
其方は、我の
「えーと……悪かった。ゆりかご? いまいち意味がよくわからないけど、酷い事を言ったのなら悪かった! とりあえず謝罪するよ!」
「謝罪は必要無いが、覚えておくのだ。良いか?
「ゆりかご、肩のそれ……?
えぇと、それ取れないの……?」
「とれないのっ!」
「そうなのか!? えじゃあもしかして、ソレって身体にくっついてるのかっ?!」
「そういうわけではない……けど」
では彼女の専用装備として納得するとする。
「ぁぅ……もぅ」
「ははっ」
疲れたように彼女は耳を倒し、その口先を小さく尖らせた。いじらしい姿だ。
リンリは敢えて触れなかったが、ハクシの中途半端に厳粛な喋り方や『我』という一人称。
仰々しい口上。人外の特徴。以上から、彼女が……【トウフ】がどんな存在なのかを秤兼ねていた。だけれど今現在の彼女を見ると、そんな事どうでもよくなってしまうのだから不思議だ。既にリンリには、ハクシが仰々しい言葉を使って背伸びをしている……年相応の、獣の耳と尻尾をつけた可愛らしい少女にしか見えなくなった。
――だから無意識というか。リンリが小さい子供をあやすように、又は小動物を愛でるようにハクシを撫でてしまったのにも特に理由は無い。
「よし、そうだな……。えーとじゃあ、お詫びに機会があれば俺特製のプリンとか、甘い物でも作ってご馳走するからさっ! 今さっきの粗相は水に流してくれないかな?」
「――甘い物? 否、我は基本的に捧げられた
「新鮮な食物しか口に? ……そうなのか?
なら新鮮なら食べられるのか……? あー、もしや耳とか尻尾に獣っぽい特徴あるから、血の滴るような生モノしか食べられない体質とかだったりするのかな? それか宗教的な戒律みたいな?」
「其方は、何を言っている? 我を何だと思っているのだ。
「ほうほぅ。捧げ物しか口に、ね。
今更ながら、もしかしてハクシ様って、なかなか高貴な身分の方だったりして? おっと、これは失礼。ゴホンッ……ないでしょうか?」
「高貴な身分? 前提から誤っている。
……其方。だから我は、己を統巫だと何度も申しているではないか……。……あ!」
言葉の途中で。少し、間が空いた。
ハクシの顔を見ると、彼女はハッとした表情で小さな口を開き、固まっている。
「どうしたんだ?」
「……我としたことが。ぁぅ、そうか……。
その『統巫』がわからなかったね? ぅう……」
瞳を潤ますハクシ。
「……?」
リンリには解らない。何故、彼女はこのような感情を見せるというのかを。
先程までは初々しい反応と共に、ホオズキみたいな紅潮顔から少し落ち着いて、頬を可愛らしく桜色に染めている程度だったというのに。眉をハの字にして伏し目。一転して明らかに“哀の表情”をみせられている。
「ごめんね」
そして謝罪された。謝罪の意図は解らない。
察するに、『申し訳なくなって思わず謝ってしまう』ほど、リンリは無知を憐れまれているとかだろうか……? いやきっと違うか。
謝罪の言葉の部分。まるで、リンリの置かれた境遇に『気を回せなかった自責』の感情が溢れて口から出てしまったようにも感じられた。リンリ個人に対しての感情のようで、そうではないようにも。それ以上の事は詳しく解らない。
「おい、そんな顔しないでくれないかな?」
妙な雰囲気になってしまったが、
「あっ、その服すごい似合ってる。
物語の中の天女様とか女神様みたいだなっ!」
そこでハクシの衣姿が目に入り。
何とか彼女の哀の感情を払おうと、リンリはそう唐突に口に出した。女性との会話で困ったら『とにかく服装を褒めておけ』だったか。昔に父親に教えられた処世術の一つだ。これが悲しいほど貧相な発想で、口下手なのは自覚しているとも。
それでも実際、美しかったのは事実。
ハクシが身に付けているのは、彼女の特徴に合った金と銀の色合いで装飾された膝下までの長さの白い小袖のような衣装。所々複雑な紋様が描かれたその装束は、羽織るように着てから腕を出し、帯で纏めて結ぶことで着付けている。それは和服のようでいて、細部の細かな装飾等はまた違う民族衣装のような独特の趣があるものであった。
――肩に掛かる羽衣と、ハクシ自身の美しくも人ならざる特徴も相俟って、堅苦しくは感じさせないものの神聖な礼装装束を思わせた。
それを身に纏うハクシがどれ程可憐な事か。
今ならば【トウフ】が神様の類に奉仕する神職の存在。或いは、その神様自身だと名乗られた場合、とてもしっくりきてしまっただろう。
……それは彼女とのここまでのやり取りで、どうにも見え隠れしていた子供っぽい“素”の部分をリンリが見ていなかった場合の話だったが。
「女神様みたい……?」
「あぁそうだ。この世の存在じゃないみたいに綺麗だよ。俺はお世辞じゃなくて、そう思った。……思わずこの場で拝みたくなるくらいになっ! ありがたや、ありがたや!」
ハクシは耳をひくひく動かして言葉を発したリンリを見上げる。リンリはここぞとばかりに彼女の機嫌をとってみた。
「……その言い回し、むず痒くなる……。
懐かしいな。どうも其方に……気をつかわせたか。すまぬ。……妙な顔を見られちゃったね……」
瞳を擦るハクシ。
綻んだ彼女の顔を見ると、リンリの薄っぺらいお世辞言葉でも、彼女の哀の感情を吹き飛ばすという役にはたった? という事だろうか。いや、単純に彼女が勝手に泣き止んだだけかもしれない。
そもそも彼女が瞳を潤ました内情さえ、リンリにとって預かり知るところではない。
「……ぁぅ」
「俺はここの事、ハクシ様の事も、トウフの事も、まだ何も解らないけども。俺が関与した事で、誰かが悲しい気持ちになるってのは我慢できない。俺に落ち度が有ったなら言ってくれっ!」
こういう時に、相手を思って取り繕うのも男の甲斐性だと。キメ顔で笑い掛けるリンリ。
「……其方のせいでは無い。それに、我は些細な事では己の感情を揺り動かしたりなどしない……っていう事で良いね? 今のは忘れてね!」
しかし、無駄な計らいに終わった。
彼女は想像よりも強い精神性をしているのか。
「えぇ……。あぁ、はい」
泣き止んだと思ったら、泣いていた事実を無かった事にするよう要望されるとは。
それは構わないものの、
「――ハクシ様は、男のナニかを見たくらいで動揺したりもしないよな?」
あまりにも呆気に取られたので、ついでに猥褻物陳列罪の件も無かった事にしておく。
「ぁぅ……」
彼女の精神は猥褻物には弱いらしい。
これがズルい遣り口なのは承知しているとも。
だが、リンリが彼女にこれ以上不快な思いをさせずその上で行動を急いでもらうには……。
「はははっ……はッ、ハックショッ!!」
何せ、ずぶ濡れの状態で、ハクシに渡された布を巻いただけのリンリの装備。
ここいらで正直に明かすと、時間の経過と共に体温と体力が奪われている。流石にすぐさま命の危機とまでは行かないが、川で流されていた時に消耗した分もあり、じりじりと肉体の限界が見えてきた事実を無視も出来ないからだ。
「ぅ……勿論もちろん。勿論、無論むろんだとも。我は、ナニを見ても。その程度では動じないに決まっている。……統巫だからね!」
――とは言ったものの、リンリの股の間をチラッと見て身震いし、直ぐに顔を背けてしまう。だけれど、元々は彼女自身が渡した布が透けてしまったからこその茶番なので……。ハクシは必要の無い責任を感じてか、またチラッとリンリの股間の部分を見返して、
「我が其方の“男の人”を見て叫んだり、目を背けたこと等で気を悪くしたりはしないで。我が慣れて無いだけだから……。そちらについても、ごめんなさい」
そう、いじらしく事の顛末の補助。リンリへの謝罪だろう言葉を言ってくれた。
「あぁ、大丈夫だ」
「その……其方に、うーんと、我の渡したソレ……。に、似合ってるね? ん、似合ってるかな?」
「いやいや、気を使って変なフォローしなくても大丈夫だからな? この格好が似合ってるって寧ろ傷付くぞっ?! やめてくれっ!!」
「へぇっ!? ……じ、冗談だから!」
ハクシは「しまった!」と顔を変えて、飛び上がり、苦し紛れに冗談だと言う。
「冗談か。あれ、素で言ってなかった?」
「んぅ……」
ハクシの尻尾が膨らんだ。
「悪い、無粋だったな」
「……はふぅ」
ハクシの尻尾が垂れた。
「キミ、やっぱり色々と可愛いな」
「ぁぅ……って、もう! 我で遊ぶでない!
其方なかなか意地が悪いぞっ!」
ハクシの尻尾が振られた。
――ちょいと怒られてしまった。
リンリは苦笑いする。こんな状況だというのに愉快な心地となり、彼女に何処となく心をくすぐられて、好感を感じてしまうからか。
そう“こんな状況”でなければ、苦笑いで留めずに普通に笑っていられた。元々子供と関わるのは嫌いではないし、年下や後輩の面倒を見るのもお節介好きでやっていて。人付き合いに前向きだった。
色々とリンリは思い出してしまう。置き忘れてしまった感情の数々を。彼女と接していると不思議と気の許せる存在、家族とでも触れ合っているような“得も言えぬ”心身の温かさを感じてしまって。
同じくらいの感傷も。恐怖も。苦悩も。
「――じゃあ、ナニも無かったって事で。
気を取り直して、案内をお願いします!」
リンリは軽く手を叩いて、この場の事を全て“無かった事”にした。それ以上ここで彼女と触れ合っていれば、内面の醜く酷く脆く弱い自分の本性をさらけ出してしまうのではという恐れから。
「……ん? うん。我に付いてきて!」
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