◇追憶の一幕【系統導巫】
追憶……(一) 【泡沫】
「――人として
それは、色の失われた世界に再び
ふと浮かんだ思考は、しばらく水中の気泡のように漂った後に意味を成さずに四散する。
そんな曖昧で朧気な状態の“
「――うぅ……ぅ、くぅ……」
もう消失の間際というところだった意識を、辛うじて
「…………ッ?」
――目を開くと、ぼやけた視界。
物の輪郭までしか判別できない曇った世界。
「――ッ!」
次に、頭痛か。自らの頭の内より、
それと呼応するよう、聴覚への苦痛。至近距離で銅鑼でも打ち鳴らされているような。同じく耐えるのがやっとな程の不快な耳鳴りに襲われた。
「――ァ……ぁァッ……!」
何かの言葉を口に出そうとする。
けれども意思に反して、口からは乾いた空気が力無く漏れて行くだけに留まる。遅れて焼け付くような喉の痛み。吐気。喉で発音する程度すら
これは異常だ。とてもじゃないが、正常な状態であるとは思えない。……今この現状、自らの熱っぽい体温を感じられる以外は頭の痛み。それと出所の知れぬどこか漠然とした疲労感や倦怠感といった苦しみ以外、殆どの肉体的感覚を失っていた。
――風邪か。それも非常に質の悪い風邪。
苦痛の荒波が過ぎ去って行き。訪れた静寂で「風邪だろう――」思い做し、一呼吸。頭の中「そうだろう」と見当を付けて一度熱い息を吐く。
あぁ事実として、現在の状態は多少なりとも重症化しているのだろうが風邪の時のソレに酷似しているようにも感じられたからだ。
――そうか、風邪ならば仕方ない。
そう自己完結。あるいは現実から目を背け
眠りへ
「――人として逝きたい……?」
夢中で聞こえた時とは違い、
己のすぐ近くで繰り返された同じ言葉。
「……?」
言葉が発せられた方向に、現状で唯一動かせる状態だった瞳をそっと向けた。
そうすると、小さな輪郭が控えている。
輪郭の正体、言葉の主。始めのうちは未だぼやけてよく解らなかったが……。意識すると徐々に鮮明になる視界で……言葉を発していたのが、床に
「……ぁあ――」
――思わず目を見張るほどの可憐な少女。おおよそ神がその身姿を愛でる目的でもって、天上の神業で創り賜うた人形のような。普通の人間とは一線を画す容貌、というか実際に人ならざる特徴を身体に持つ存在なものの、本当に愛らしいと思わせる白銀色の少女であり。彼女はいったい――?
「りんりぃ……。人として逝きたい?」
――彼女が呼んでいる、
その【リンリ】という名を持つ者は誰だ?
いいや、これは。そうか。
呼ばれているのは
(……り、ん……り……?)
己に対し、呼びかけているのだ。その名を。
ならばその名が、己の名前だったのだろうかと疑問に思う程に
その自覚が無い事は、
でも同時に、胸が締め付けられるような感覚。
少女との間に有ったのだろう記憶や思い出。それだけではなく、己と少女の周りに存在していたのであろう“大切な何か”を見失っている。そんな根拠もなにも無いのに確証めいた想像が、数え切れぬほどの罪悪感や自己嫌悪を抱かせる。
「人として……逝きたい?」
少女は未だに、床の相手が目覚め。視線を向けられている事には気が付いてはいない。
彼女は涙を溢れんばかりに金の瞳に溜めて、ただ彼の片腕を両手で大切そうに握り締めて、ただ同じ言葉を繰り返していた。
そんな少女の姿、いじらしくも悲痛な彼女の様子に胸を痛め、伴う苦痛を押し殺して『持ち直そう』と足掻く。結果として、ほんの僅かばかりの自意識を取り戻す事ができた。
「ねぇ、このまま人として、逝きたいの?」
「…………」
――リンリに何度もそう訊いてくる彼女。……金の瞳と銀の髪の……頭で揺れる獣の耳や腰で垂れた尻尾を身体に持つ、いと愛らしくも美しい少女。彼女がいったい誰だったのか、そして、投げ掛けられるその“問”の意味すら理解できない。
どうしようもなく、わからないのだ……。
リンリは自らの存在に
――白紙のような状態の己。
本来なら、自分自身という紙に書き込まれ、描かれていたものは、夢中の深淵に蠢く墨色と同化し溶け込んだのだろうか。意識が浮上する際に、汚染された己の部分を切り離したのだろうか……。
抽象的で、支離滅裂な考察。
思考は、そこで途方に暮れる。
徐々にまた意識が沈み始めた。
掴みかけた機会は、されど無意義に。
(白紙……はく、し……?)
――しかしそこで偶然の光明か。
何か、何かが。何かが引っかかった。
それも理解出来なかったが。理解出来ないという事実が、堪らなくリンリが取り戻した“自意識”を苦しめるのだ。よって『このまま沈むわけにはいかない』という執着が
至らない己に叱責。自我を奮い立たせる。それでも『自分には、まだまだ足りない』そんな自己嫌悪が欠けていた“意思”を揺り動かして行く。
……それらは、やがて彼の中で一つに折り重なり、束なり、紡がれ。
――彼女の名は、白紙。否、否だ。
違う。いや合ってはいるが、正しくは、
――ハクシ。
「……ッ!!」
……ハッ、と。
彼女、ハクシに返事をしなければならない。
何故だか解らないが、ただそれだけを直感的に判断できた。だからリンリは、感覚も無い自らの身体に可能な限りの力を込めたのだ。
「……!? りんりっ!? りんり!!
――その結果。本当に僅かにだが、ハクシに握り締められている指がぴくりと小さく動かせた。それに気が付いた彼女は、驚きを含んだ声と共に耳と尻尾を跳ねさせて反応する。
「ぅ、ぅ、りんりぃ……う゛う゛」
ハクシはリンリの目が開いているのを見て、その瞬間に感情の抑えでも効かなくなったのか。その腕に抱き付き、頬擦りをし。息をつまらせるようにしてむせび泣いてしまう。
「うッ……うッ、うぅ」
愛おしい者との最期の別れを惜しむような悲痛な顔で泣き続けるハクシ。
「グッ……うぅん。……りんりぃ!」
そのままにしてしまえば、永遠にさえ泣き続けてしまいそうな雰囲気だった。けれど、そう長くは泣いてもいなかった。ハクシは自身の唇を噛んで無理に泣くのを堪える。何故ならば、
――泣いていられなかったから。
「りんりぃッ……あのね……!」
彼女は、強い意を決した表情で真っ直ぐリンリのことを見ると。抑えきれない、堪えきれない涙が自身の頬を濡らして行くのを無視して告げる。
「りんりは――」
続く『言ノ葉』を声として発してしまえば、もう後戻りは出来ない。
だけれど――彼女には関係が無い。
構わない。後悔なんて無い。そう自身の神に、天命に誓えた。故に口を開く。だから彼女は何一つの迷いすら無くその言ノ葉を紡ぐのみ。
「――或いは、人を捨ててまで生きたい?」
◇◇◇
――それは、
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