第20話


 「うわー、また来たんだけどー。本当、空気読めないよねアイツ」


 言葉とは裏腹に嬉しそうにしている子どもっぽいゆりかを無視して机と机の間を通り抜けると、彼女はやはりおもしろくなさそうな顔をした。ここ最近いつものように机に落書きをされる日々が続いていたが、今日も例外ではない。

 ブス、消えろ、死ね、ビッチ、最低。何処かで見たことのあるような景色がそこにはあった。ペンケースから取り出した消しゴムを懸命にかけていると、少しずつ忍笑いが大きくなっていく。油性のマジックで書かれた文字がそう簡単に消えてなくなる訳がなかった。

 諦めて消しゴムを放り出すと、私の前に誰かが立つ気配がした。早坂さんが涼しげな微笑みを浮かべてそこに立っていた。


「おはよう」


 おはようと小さな声で返すと、早坂さんは液体の入った小さなボトルを私の机にことりと置いた。ラベルには除光液と書かれているのが見える。


「あたしがネイルに使ってるやつだけど。油性マジックならこれで落とせるよ」

「…ありがとう」


 早坂さんは無言で頷くと、ポケットから取り出したティッシュで黙々と落書きを落としてくれた。少しずつ消えていくマジックの線。信頼できる人が側に居るというだけで、こんなにも胸が熱くなるものなのだろうか。冷たかった指先が熱を取り戻し始めているのを感じる。

 ゆりかがこっちを睨みながら取り巻きに何か囁いていることに些かの不安はあったけれど、昨日までの恐怖は何処かに消えていた。


*


 「中庭でお昼ご飯食べようよ」


 そう言われたとき即答できなかったのは、ゆりかと過ごしていた昼休みの光景が脳裏に蘇ってきたからだった。ベンチに座ってお互いのお弁当のおかずを交換し合っていたあの頃を思い返すと、微かな痛みが胸をちくりと刺した。

 陽の光が強くなってきたせいか、小さな池に向かって置かれているベンチはガラ空きの状態だった。コンビニで買ってきたジャムパンは人工甘味料特有のジャンクな甘みがして、舌がぴりぴりと麻痺しそうだった。

 私の簡素な昼食とは違って、早坂さんがふろしき包みから取り出したのはアルミのお弁当箱だった。卵焼きにウインナーとアスパラの炒めもの、おにぎりが綺麗にそこに収まっているのを見て、思わず感嘆の声を上げてしまう。


「早坂さんのお弁当、美味しそうだね。これも早坂さんがつくってるの?」

「そーだよ。あんたのは、栄養偏りそうだね。なにそれ、お菓子じゃん」


 菓子パンとカフェオレだけの食事を見て、早坂さんは眉間にしわを寄せた。

 早坂さんは、あんまりこういうの食べないの?ジャンクフードとか、ファストフードとか。そう聞くと彼女は、「食べない」と即答して、黄色く色づいた卵焼きを私の口元に差し出した。


「あげる」


 かじると出汁の微かな香りが鼻に伝う。お母さんのつくる甘い卵焼きとは少し違うけれどとても美味しい。そう告げると、早坂さんは嬉しそうな表情を浮かべながらおにぎりを箸でつついた。

 そういえば、早坂さんと始めて会話をしたのもこの中庭だったっけ、とふと思い出した。お弁当をひっくり返した私に差し出してくれたサクマドロップの赤い缶の色を今も覚えている。早坂さんは制服のポケットにいつもドロップの缶を入れているから、歩くたびカラカラと飴の跳ねる音がする。

 肌身離さず持ち歩いている理由が気になって、思わず尋ねる。


「ねえ早坂さん。どうしていつも、ドロップ持ってるの?」

「あー、コレ。死んだお母さんの数少ない思い出。小さいときあたしがぐずる度、いつもこれくれてたんだよね。何つーか、今もお守りみたいに、手放せなくって。未だに親離れできてなくて、かっこ悪いんだけどさ」


 恥ずかしそうにそう言う早坂さんのことを、笑うことは私にはできなかった。気の利いた言葉をかけることができない自分の幼さにげんなりしながら、乾いた喉にカフェオレを流し込んだ。

 早坂さんは10円玉を使ってドロップ缶を開けると、中を覗いてがっかりしたような声を上げた。


「どうかした?」

「ハッカしか残ってない。メロン、レモン、イチゴ。好きな味から食べちゃうから」

「…じゃあ私、もらってもいい?」

「別に、いいよ」


 手渡されたドロップ缶の中には白い砂糖の塊が幾つも残されていた。パンを食べ終えた口の中に放り込むと、ツンとした香りが鼻を抜ける。

 理由は良く分からないけれど、私はこの味を忘れられずに一生覚えているような気がした。早坂さんと並んでお弁当を食べる何気ない一瞬とともに。


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