第8話


 パッと立ち上がって駆けていく。嬉しそうなゆりかの華奢な背中が遠ざかっていく。私はゆりかを呼び止めたい衝動にかられながら唇を噛んだ。

 ゆりか、好きな人いるんだ。どうして私の気持ちはこんなに揺れるんだろう。仲の良い女の子に好きな人がいる、ただそれだけのことで。


 強い風に吹かれてぐちゃぐちゃになった髪の毛を指先で直していると、大きな桜の木のそばにある緑の茂みからガサッという物音がした。初めに見えたのは枝のように細い腕。立ち上がる少女の陰に驚いて、食べかけのお弁当箱を膝から取り落としてしまう。

 唖然として固まる私に視線を遣ると、少女はゆっくり近づいてきた。ローファーで地面を踏みしめるたび、まっすぐでサラサラの長い黒髪が揺れているる。少女はひっくりかえった私のお弁当箱を見つめた。しゃがみこんで、砂のついたおにぎりを拾い上げる。


「あーあ。これじゃもう食べられないね」


 透き通ったガラスみたいな声だった。太陽を反射してきらきら光る黒目がちな瞳。10人いたら10人とも「美人」だというような美しい少女に緊張しきった私は「大丈夫です」と言うのが精一杯だった。

 話したこともない彼女のことを私は良く知っていた。教室の一番左、窓際の席に座っている猫背を覚えている。誰ともつるまず、ひとりぼっちを貫く彼女を初めて見たとき、「一匹狼」という敬称がこれほど似合う人がいるのかと驚いたことを思い出す。少女の名前は早坂めぐみといった。

 早坂さんは謎の多い少女だった。いつもイヤホンを耳にはめており、誰かに話しかけられても一言、二言くらいしか返事をしない。時々授業中であっても教室を抜け出して、先生に注意されると「トイレです」と言って廊下へ出て行く。次第に先生たちも諦めたのか、休憩時間が終わっても戻ってこない早坂さんを咎めようとする人は誰もいなくなった。

 自由気ままな猫のような早坂さんのことを、クラスのみんなは「ビッチっぽい」「変人」「なんか目障り」「嫌なら学校来なきゃいいのにね」というような言葉で攻撃したけれど、早坂さんは汚物をみるようにこちらを一瞥しただけで何も言わなかった。私はそんな早坂さんに憧れていたのかもしれない。

 一人で居ることを恐れない気丈な態度をかっこいいと思う気持ちに嘘はつけなかった。周囲を気にしてばかりで本音を出せない私とは、全然違う。


「あのさ。代わりといってはなんだけど、これ。嫌いじゃなかったら」


 早坂さんは制服のポケットから赤いドロップの缶を取り出した。「ん」と促されて慌てて両手を広げると、懐かしい音とともに、真っ白なドロップがひとつ私の手の中に転がる。


「ハッカ味。残しちゃうんだよね、いつも。なんか、包帯みたいな味がするから」


 ありがとう、と言うと、早坂さんは小さく微笑んでどこかに行ってしまった。白いドロップは口に入れると冬の空気のように冷たくさみしい味がした。舌の上で転がしていると何だか泣きたくなってしまって、私はガリガリと音を立ててドロップを粉々にして飲み込んだ。

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