老人会の人々
ムラカワアオイ
第1話
「すみません、許して下さい。お金、これだけしか持ってないんです」
「こら、クソ餓鬼、靴下、脱がかんかい。こら、分かってるんか、ああ」
俺は今、情けないことにチンピラ二人組にからまれている。顔中、血まみれだ。鼻血がだらだらだらだら。嗚呼、無情。口からも、流血。流血。嗚呼、情けねぇ。その時だった。男のかすれた低い声がした。
「こら、佐々木、石橋。お前等、まだ、懲りてないんか。かたぎには手、出すな、言うとうやろが」
白髪のおじいちゃんが金属バットを持って立っていた。何者だ。何様だ、このおじいちゃん。
「すいません。原さん。土下座で許して下さい」
「どあほが。金、返したらんかい。それから、この兄ちゃん、血まみれや。うわ、歯もボロボロやで。お前等、慰謝料、分かってんのやろな。兄ちゃん、大丈夫か。車、待たせてるから、それ、乗って、夜間、行こうか」
「は、はい」
「すみませんでした。今、これだけです」
「五万と、四千ちょいか。ほんまにこれだけか」
「はい。本当にすみませんでした」
え、チンピラ、急に態度、変わっちゃったよ。もしかして、この原さんって人、どっかの組の組長さん。
「もう、こんな事、すなよ。チンピラはチンピラらしくやる事、他にあるやろが。分かったか」
「申し訳御座いませんでした」
「ほな、兄ちゃん、行こか」
そこには、白い軽トラがあった。何なんだ。このご老人の皆さんは。
「あの、助けていただいてありがとうございました。あの、皆さんはやくざさん、なんですか」
「ちゃう。ちゃう。わし等か。港地区の老人会や。やくざやないで。安心し。わしが会長の原。で、後ろにおる、でっ歯が理事長の具志堅さん。その隣におるんがわしのいとこで長老の中川さん、九十五歳や」
「こんばんは。具志堅です。好きなたべものは餃子。きゅうりは苦手だな」
「ういっす、中川です。中ちゃんって呼んでね。チャームポイントは歯茎です」
「兄ちゃん、派手にやられたな。後、信号二つで病院や」
老人会。そしたら、何で、チンピラと繋がりがあるの。ご老人を乗せた軽トラで不思議に思う俺の夏。駄目だ、前歯が、ない。奥歯もない。恥ずかしい。
「おう、黒ちゃん、元気か」
「あ、原さん、また、人助け。やるね。老人会も」
「兄ちゃん、保険証、持ってないわな」
「はい。ないです」
「黒ちゃん、わしの力で何とか、してやってくれへんか。言ってみりゃ、黒ちゃんはわしの可愛い孫の手なんやからよ。よろしく頼むわ」
「はい。はい。原さん、そのセリフ、好きだね」
「わしは黒ちゃんも好きやで」
「一応、主婦なんですよ。会長さん」
「兄ちゃん、いっつも、わし、黒ちゃんにふられるんよ。わしのどこが悪いんやろか」
「いや、それは俺にも分かりません」
診察室で横たわる間抜けで歯抜けな俺。痛てっ。痛いな。もう、ぼろぼろだ。喉、からからだよ。
「一応、レントゲン、撮っておきますね。歩けますか」
「あの、水、貰えませんか」
「ちょっと、待ってね」
白衣の黒ちゃんが、いい感じに見えた。嗚呼、恋がしたい。ここんとこ、全く、ご無沙汰だ。痛い、痛いよ。くそ、あのチンピラが。老人会って、なんだか、頼もしいな。原さん、並びに、皆々様、本当にありがとうございます。よろよろと、歩く。レントゲン室の暗闇が怖い。
「はい。お疲れ様でした。今、先生が来るからもうちょっとだけ、待ってね」
「あの」
「どうしました」
「あの、原さんってやばい人なんですか」
「とってもダンディなおじいちゃんよ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
黒ちゃんが、そそくさと、診察室を出て、原さん達と談笑。こんな俺は立派な怪我人である。もう、一時か。良い子は寝る時間なのに。背中がかゆい。腹、減った。
「えっと、斉藤一徳さん。レントゲンなんですけれども、見て下さい。え、ろっ骨にひびが三か所、入っています。今すぐ、入院ということになりますが、よろしいですか」
「いや、それはちょっと、出来ないです」
「え、何だ。その口のきき方は。俺は医者だ。エリートだ。忙しい時には小便も我慢できねぇんだ。え、こら。従え。この野郎。せっかく、疲れきって、寝てたのによ。責任、取れ」
「うるさいこと言うな。明日、バイトがあるんだよ。俺は、コンビニ店員だ。副店長だ。文句あるのか。俺だってトイレも我慢できねえぐらいな時にレジだお客様ですよって忙しいんだ。貴族面するな。こら」
「はい、はい。分かりました。応急処置だけしておくので、そう、興奮せずに。お手柔らかにね」
ぐるぐると、腹に包帯を巻かれ、医者は俺の背中を叩いた。自販機で110円の缶コーラを買って、飲んだ。久々のコーラは汗だくの俺にとって最高に気持ちのいいものだ。
「兄ちゃん、もしかして、斉藤信義さんの息子さんか」
「あ、はい。そうです」
「やっぱり、そうか。信義さんにそっくりやな」
原さんは親父のことを語り始めた。そして、今は亡き、じいちゃん、斉藤新次郎の武勇伝を俺に囁いた。
「今やから、言えるんやけど、新ちゃんには良くしてもらってな。昔な、二百万、賭けて、勝負した事あってな」
「麻雀ですか。じいちゃん、麻雀大好きでしたから」
「いや、もっと、凄い、勝負や。怒らんで聞いてくれるか」
「あ、まあ、はい」
「全裸で歩いたら、二百万円で勝負したんよ。それでな、新ちゃん、ほんまに全裸で歩いてな。警察の世話になったんや。ごめんな。兄ちゃん。ちゃんと、お金は払ったから、許してな」
「本当なんですか」
「ほんまや。ほんまにごめん」
俺は何も知らなかった。初耳だ。寝耳に水だ。そんな博打をあんなに格好良い、じいちゃんがするなんて。一人、立ち尽くす俺に原さんは、
「飯、行こう。わしがおごったるわ」
と優しく、さりげなく、言ってくれた。軽トラに再び、乗って、着いたのは、ラーメンやかまし。
「お、原さん。毎度。相変わらず、お元気そうでなによりです」
「おおきに。やかましラーメンこってり大盛り四つと餃子、四人前。それから、ビール五本、頼むわ」
「はい。よろこんで」
「あの、僕、明日、仕事あるんで、もう、帰らせて下さい」
「兄ちゃん、人生、よう、考えてみ。その顔で仕事出来るわけないやろ。な。当分、金の世話はわしがしたるわ」
「そう言われましても。仕事は仕事ですから」
「時給、なんぼもらってるんや」
「八〇〇円ですけど」
「なら、わし等が一日、八千円、出したるわ。な、世の中、義理人情よ。歯も入れなあかんやろ。悪いこと、言わんから、わしの言うこと、素直に聞いとき」
溜め息を吐いて、ラーメンをすすった。まず。不味すぎる。何だ。この不味さは。よし、世の中、義理人情だ。あっさりを食らおう。
「すみません。あっさり、大盛り一つ」
「今、食べてんじゃないの」
「あの、不味いんで」
「不味いだと。こんな客、親父の代から一人もいねえ。これ、見ろ。全国選ばれしラーメン屋地図だ。この歯抜けが」
「うるせえ、じじい。お前、客にどんな口、聞いてんだ。不味いもん、不味いつって何が悪い。不味いラーメン屋に選ばれてんじゃねえのかよ。え、こら。俺のバックにはな、老人会がついてんだよ。分かったか、このハゲ。客あってのお前等だろうが。分かってんのかよ」
「はい、分かりました。よろこんで作らせてもらいます」
このくそハゲが。老人会の皆様はこっくりと寝てしまった。寝る老人は若返る。なんやそれ。テレビではマフィアものが流れている。イタリア人にも日本人にも悪と善があるものなんだな。俺は煙草に火を点けて。
「歯抜けさん、あっさり、ごゆっくりお食べください」
「歯抜けは余計だ。馬鹿野郎」
「素直に言って何が悪い」
「俺のバックにはな、老人会がついてんだよ。何度も言わせるな」
「はいはい」
原さんが起き上がって、鼻糞をほじりながら言った。
「今、何時や」
「三時半過ぎです」
「お、もうそんな時間か。おあいそ」
「あっさりも不味いんだよ。二度と来ねぇからな」
「それはこっちも同じだよ。もう、来るんじゃねぇ。歯抜けのチンピラ野郎が」
俺は手早く、のれんを潜り、軽トラの運転席に座って、何だ、これ、ミッションじゃねえかよ。俺、オートマ限定しか免許を持ってない。まあ、いいわ。ギアを入れるとあちゃ、バックしてしまった。もうちょっとで、ラーメンやかましをぶっ壊すとこだった。いっそのこと、ぶっ壊せばよかった。ま、いいか。一速に入れて、走る。久々のクラッチ。港バイパスを乗る。行き先は原さんの家。今日は満月かよ。高校の頃、担任だった有方先生が満月の話を授業中によくしていた。満月になると人はいやらしい事を考え、性行為を求める。その話をクラスの全員、大山大輔以外は、有方のあり方と呼んでいた。有方先生はそのうち、学校から消えた。
心がときめいた。午前五時の原さんの家。二度、見つめあってしまった。事務服を着た瞳が大きな、美形でやせ型で身長約160センチの女性がいた。
「おはようございます。お世話になります」
「あ、こちらこそ。原の孫の綾子です。お腹すいてませんか」
「いや。その。あの。はい。食べたいです」
「分かりました。お味噌汁は好きですか」
「はい」
「どんな、お味噌汁が好きですか」
「え、あの普通のお味噌汁です」
「お豆腐は入れましょうか」
「はい。お願いします」
「おたまねぎはお入しましょうか」
「はい。お願いします」
赤面してしまった。一目惚れだ。愛の花よ、咲いてくれ。綾子さんは台所で事務服で美人だ。
「お風呂、どうされますか」
「ありがとうございます。今日はちょっと」
「歯、どうされたんですか」
「いや、ちょっとわけがありまして」
「私の友達に腕のいい歯医者さんがいるんですけど、ご紹介しましょうか」
「あ、考えさせてください」
「あ、今、ご飯、ご用意します。コシヒカリでいいですか」
「はい。コシヒカリは健康に良いですね」
「そうですね。では、いただきましょうか」
「いただきます」
なんだろう。幸せとはこういうことなのであろうか。神様、ありがとう。しかしだ。何故、綾子さんはこんな俺に素敵な幸せを与えてくれるのであろうか。裏があるんじゃないか。とは、一瞬、思ったが、すぐに消えた。なにせ、お味噌汁が美味しいのだから。綾子さんと正座をして、日本のこれからについて熱く語った。今度、デートの約束もした。二人で選挙へ行こうと。
「では、行って参ります」
「あ、はい。気を付けて」
「おじいちゃん、二階にいますので、起きたら、ご飯、食べてと伝えておいてくださいますか」
「はい。分かりました。お伝えします。選挙、楽しみにしておきます」
「はい。私もです。では、行って参ります」
「いってらっしゃい」
お味噌汁、最高だ。愛あるお味噌汁。こんな経験、俺の人生の中で実は初めて。さあ、選挙デートが楽しみになってきたぞ。その前に眠ってしまおう。良い夢を見れますように。これが本来の日本のあり方なのだ。携帯、鳴る、眠りたいけど、俺は出た。
「あの、斉藤さんですか」
「はい」
「ビジュアル系の斉藤一徳さんですか」
「あの、どなたさん」
「あ、すみません。自己紹介が遅れました。綾子の父の原貴夫と申します。娘をよろしくお願い致します」
「はい、どういうことですか」
「いや、綾子からですね、貴方に嫁ぎたいと先程、メールがありまして、ビジュアル系の貴方が原家にはふさわしいと思い、ここは僕も恥ずかしながら、お父さんになりたいもので、相思相愛のお二人ですから承諾は致しますと申しましょうか、是非、日本のロックシーンの内助の功に綾子をよろしくお願いします」
俺と綾子さんが結婚。まだ、熱愛が発覚した訳でもなんでもないのに。ビジュアル系でもロックンローラーでもないんだよ俺は。しかし。
「ありがとうございます。日本のロックシーンの為、お父さん、綾子さんを僕に任せてください」
良し、ガッツポーズと投げキッス。おじいちゃんを起こしに行こう。階段を昇る。口笛を吹きながら。赤コーナーから王者おじいちゃんの赤いマフラーです。赤は俺のラッキーカラーだと俺は信じて込んでいて、高校の合格祝いに赤いマフラーと赤いパンタロンを衝動買いしてしまい、さらには赤いポケベルを買って、髪の毛を赤く染めて、次の日にはまた、黒に戻したものだ。入学式に赤いパンタロン、赤いマフラーで決めて行くと、校門に赤いローラースケートが落ちていて、履いてみたまま体育館へとおもむくと、
「サイトウ、アーユーオーケー」
と生涯の友、茶畑君がお菓子をくれた。茶畑君はとても優しくルックスも良く、
「今度、赤いカツラを買いに行こうぜ」
が口癖だったが夢は儚く散ったナウい奴だった。俺の赤いパンタロンと茶畑君のピンクのパンタロンを卒業式に交換し、
「大人になったら、赤いカツラを一緒に買いに行こうぜ。三年間、楽しかったよ。斉藤、新幹線って速いらしいぜ」
「茶畑、俺もだよ。銭湯って熱いらしいぜ」
良し、部屋をノックすると、ドンという音がした。え、どういうことだ。おじいちゃんの身になにかあったのか。
「原さん、入りますよ」
「おう、ええで」
そこには、ダーツを楽しむおじいちゃんが、おでこから血を流していた。
「原さん、大丈夫ですか。救急車、今すぐ、呼びます」
「兄ちゃん、あほか。これは、あれや。実験や。血と血のりの違いも分からんのか。これは死ぬ実験や。わしはこの部屋でありとあらゆる実験に取り組んでいる、老人や。びっくりさせて悪かった。せや、綾子、美人やろ」
「はい、おきれいなかたですね。僕達、結婚するんです」
「な、なんやと」
「お父様からもご承諾いただきまして、僕達、愛し合っているんです。あの、血のり、拭いたほうがいいですよ」
「そうか。まあ、座れや。お前、ええ奴やな」
「はい。よく言われます」
「お前、車の運転、得意か」
「はい。よく、速いって言われます。それがなにか」
原さんと俺は正座をして、向かいあった。
「今度、富田林でな全国大会があるねん」
「ゲートボールですか」
「いや、ちゃう」
「あ、分かりました。俳句でしょ」
「ちゃう。やっぱり、ええわ。お前、見込みない」
「すみません。お許しください」
原さんが押し入れから、洗濯バサミを取り出し、ヤンキー座りになった。そして、一枚のポスター。格好良い。美男子だ。イケメンだ。炒飯が食べたくなった。そのポスターには、一人の若き、男が存在し、
『1970。原仙一。私が初代ワールドチャンピオン。乳首相撲には愛と夢と希望が時にはあります。私が必ずお約束します』
乳首相撲。格好良い。格好良すぎる。そして、原さんは熱く語りだした。微熱が出そうだ。
「ええか。1970年。わし、原仙一。1971年。わし、原仙一。二連覇や。1972年。平手屋浩二。1973年。三度目のワールドチャンピオンをわし、原仙一が獲得。えっと、なんやったかいな。なんの話やったかいな。そうや、忘れとった。乳首相撲に夢中でな。今、何年やったか」
「え、今、2010年だったと思います。確か」
「地デジタルは来年として、マイナス1として2010年か」
その後も乳首相撲を原仙一さんは熱く語り続け、「もう一度チャンピオンを奪回するんや」「兄ちゃんより綾子がイケメンや」「今も元気や」「男やったら一度は頂点に立たなあかんものなのやで」「わしは、八度のワールドチャンピオンや」「冷静に聞けよ。お前とわしはええ仲や」「最高や」俺は起きたふりをしたような、寝たふりをしたような。気付けば夕方の五時になっていたような、なっていないような気がした。乳首相撲。洗濯バサミに魅せられた男たちの物語り。70センチの白いロープで繋がれた洗濯バサミを両選手の右乳首と右乳首に挟み、先に洗濯バサミが外れたほうが負け。長くその計り知れない苦しみに耐え、洗濯バサミを乳首に保ち続けたほうが勝ち。これが正しい日本語か。まあいいだろう。
「おい、兄ちゃん。1990年のチャンピオンは誰や」
「え、原さんです」
「もう、ええわ」
「ごめんなさい。誰ですか」
「鈴木や。鈴木卓郎や。あいつだけは許せん。わしは寝る」
「お疲れ様です」
「兄ちゃん、わしに喧嘩、売ってんのか」
「いえ、ケアレスミスです」
「それじゃ、寝るから富田林大会、頑張ろう」
「はい」
「あのご飯は」
「寝る」
「かしこまりました」
痛て。オシピン、踏んじゃったよ。ああ、早く綾子さん、帰ってこないかな。バイクを盗んだら犯罪ですよ。乳首相撲か。こんな、暗い世の中にはこういうスポーツが必要だ。原さんは今年、千葉県の代表選手に選ばれた。俺は意味もなく自分の乳首を触ってみるのであった。しかし、歯が一本も無い、俺は腹が減って仕方がない。
「ただいま帰りました」
あ、綾子さんの優しい声だ。玄関へ行くと、綾子さんが牛丼を小脇に抱え、
「ふつつかな娘ですが、私をよろしくお願いします」
「勿論です」
「今日はお祝いに牛丼、買ってきました。あの私、牛丼にきゅうりを乗せて食べるのが大好きなんです。こんな私を軽蔑なさいますか」
「最高だよ、綾子」
綾子さんが涙を流し、服を脱ぎ出した。桜色の乳首。涙を拭いて全裸になった綾子さんは、
「ここで私を抱いていただけますか」
キスを交わした。熱く長いキスを交わした。そして、二人は同化した。綾子。一生、俺がついているよ。幸せになろう。玄関で服を着る二人。
「さあ、涙を拭いて。綾子には笑顔でいてほしいんだ」
「す、すみません。私、嬉しくて。はい。一徳さんの為に笑顔でいます」
「こんな歯が無い口ですまない綾子。歯の治療に一丸となって取り組むよ」
「はい。牛丼をいただきましょう」
玄関で牛丼を食べる贅沢。すると、ドアが開き、
「ただいま。あ、あなたが斎藤一徳さん。あ、私、神奈川なっちゃんケーブルテレビのプロデューサーで綾子の父の原貴夫といいます。綾子、良かったな。結婚おめでとう。斎藤さん。結納などは原家代々、行わないことになっているのです。そして、あなたは、『花沢美穂の無邪気に土曜プロデュースくすぐれくすぐられフェスティバル』をご存じですか」
は。何言ってんだ。花沢美穂。ちょっと待てよ。あ、知ってる。千葉ではかなり有名な千葉県出身初の本格派アイドルだ。と言っても今年で39歳だったと思われる。それにしても俺はなんでこんなことを知っているんだ。あ、そうだ。原宿で一度、花沢美穂にインタビューされたことがあるわけで。その前に結婚問題クリアして牛丼をいただかなければ。
「いや、斎藤さん」
「はい、お父さん」
「テレビの世界は素晴らしいですよ。ま、その前に牛丼を食べましょう。良い一日になったな。綾子。夫婦そろってきゅうりが似合うじゃないか」
お父さんは満面の笑みだ。出すもの出したら腹が減るわけで。俺はきゅうりを口にして感想を述べた。
「おいしくはないですけど幸せです」
綾子さんの瞳がギラリと輝いた。お父さんが俺を一瞬睨んだ。そして、綾子さんは顔中の汗を手でぬぐい、
「やっぱり、私もおいしくはないけど幸せな存在なんですか」
「違う。違うよ。綾子。俺は君を愛しているんだ。F1レーサー並みにね」
「凄い、凄いわ。私の人生がF1レーサーだなんて。一徳さん、私の部屋に早く来て」
俺が頷くのをよそに、お父さんはぽつりと言った。
「綾子。貴葉美ちゃんからお久しぶりにお葉書をいただいたよ」
きばみ。貴葉美ちゃん。
「貴葉美ちゃん。お元気ですか。もう、こんなに大きくなって。私、貴葉美ちゃんの夢を叶えてあげる」
何だ。何なんだ。このテンションは。綾子さんは俺にディープキスをいきなり施した。
「あの、ちょっと、待って下さい。あの貴葉美ちゃんの夢って何なんですか」
「お前にとってどうでもいいことだ。夫婦は二階の部屋で抱き合うものです。一徳さん、花沢美穂の件よろしく頼むよ。それが結婚の条件です」
やらずもがらの俺の台詞。
「はい。夫婦は二階で抱き合います。花沢美穂の件は任せてください。神奈川県民の為に千葉県民の為に高校球児のように頑張ります」
「凄い、凄いわ。私の人生が高校球児だなんて。一徳さん、早く、私の部屋に早く来て」
「君は素晴らしい私の息子になるよ。一徳君。今日の無礼な私の行為を許してくれたまえ」
「はい。今日という日を忘れません」
「一徳さん、それより早く来て」
綾子が俺の手を握る。俺の心は盛り上がり、まるでかちわりも売り切れるアルプススタンドの暑さのようだ。
「綾子と正式に呼んでもいいかい」
綾子はつぶやくように可愛く言った。
「はい、一徳さん。私の人生が正式だなんて。凄い。凄いわ。こんなに嬉しいことは産まれて初めてだわ。もう、早くぎゅっと抱きしめて」
階段を駆け上がる。手を繋いで。夫婦となる現実。確かに俺達は今を輝き生きているのだ。継続は力なり。ボストンっていったいどこの合衆国だ。モナコはF1で有名だから走りたい。ユニオンジャックのノレンを潜り二人の世界はどこまでも続くに等しいのである。
「一徳さん、抱いて。お願い。ねえ、事務服って可愛い」
「ああ、綾子には事務服がベストさ」
「もう、いじわる」
キスキスキス。愛の嵐が鳴り響く。腹が減っては戦は出来ぬ。ワシントン条約に実印を押したくなった。ぴゅっ。
「ごめん、綾子、俺、早すぎたか」
「もう、一徳さんたら。い。じ。わ。る」
婚姻届を提出する二人の幸せ金曜日。今日も綾子は事務服だ。で、新婚二人はどこへ行こうか。南か北か。
「あ、見て見て。あの車、トラック野郎だわ。一徳さん、ヒッチハイクしましょう」
俺の返事を待たずに綾子は、紫、赤、黄色。車のいたる所に、「THE悪」とペイントされたトラックへと全力疾走。こ、怖い。トラックからパンチパーマで強面の紫色のつなぎを着た眉毛がくっきりとない男が俺に向かって歩いてきた。
「兄ちゃん、お前、誕生日いつなんだ」
強面の男はさらりと俺に聞いた。
「あの三月三日で三十三になりました」
「そうか。俺より年上か。で、兄ちゃん、綾子ちゃんはいくつなんだ」
「あの俺より二つ年上です」
「そうか。俺より年上か。乗ってくか」
「はい。乗ってきます」
「兄ちゃん、俺の名前は飯田民男。生まれ育ちはこう見えて六本木。酒屋の二男だ。よろしくな。趣味はエレキギターと作詞だ。分かったか」
「はい、よろしくお願いします」
「おう、兄ちゃんも綾子ちゃんもセンスがいいぜ。俺は今日、ライブだ。THE悪の作詞ノートを見ていけ」
「は、はい」
なになに。作詞ノート。THE悪。
『俺達、悪。風邪をヒイテモ医者に行かない。俺達、THE悪。医者に迷惑かけちゃいけない。THE悪。人助けをしよう。ハートがラブリィーでも俺達THE悪。本当は肉じゃがを食べたい。俺達極めたTHE悪。人を尊敬しよう俺達THE悪。ポイ捨てはTHE悪。THE悪。いけない行為さ俺達THE悪』
綾子が涙を流し始めた。どうなってんだ。もうすぐ首都高に乗るところ。悪ってなんだ。
「素晴らしい歌詞だわ。今日はどこでライブなのですか。私、久々に感動したわ」
「今日は武道館だ。綾子ちゃんよ、兄ちゃんは歌は上手いのか」
「はい、夫は良い声を持っていますわ」
「おい、兄ちゃん。THE悪のメンバーになってくれるんだよな。でないと胃を悪くするぞ」
ビビりながらちびりながら答えるしかないんだろう。
「はい」
「そうか。商談成立だ。それから、途中に床屋があるからパンチパーマだ。印税がいっぱい入ってくるぜ。THE悪のメンバーになるとよ。兄ちゃん」
「わ、わかりました」
老人会に、THE悪。そういえば、綾子のことを俺は何も知らない。どこで働いているのかさえも。それにあの夜から俺は実家に一度も帰っていない。親父にもお袋にも結婚したことを話していない。よし、分からないことは聞いてみよう。
「綾子。大事な話がある。お前はどこで何をしているんだ」
「一徳さんのいじわる。私のことなら全部知ってるくせに。もう」
「いや、俺は知らない。仕事は何をしているんだ」
「もう、愛し合ってるんだからそんなことは大丈夫よ」
民男さんが語り出した。
「兄ちゃん、綾子ちゃん。俺が何故THE悪をやってるのか教えてやるよ。あれは亡くなった親父との最期の会話でよ。『良い奴ほど悪い奴はいねえ。俺は人生でそれを学んだ。民男、いいか。よく聞け。良い奴ほど悪い奴なんだ』ってよ。だから、ごちゃごちゃ言わずに夫婦らしくしとけ。すまんな。説教じみて。今日も悪い奴等が良いことしてるんだ。それが生きるってことよ。よし、もうすぐ床屋だ。一徳とかいったな。床屋の便所に俺達の楽譜とMDが置いてある。そこで曲を覚えるんだ」
なるほど。一理ある民男さんの言葉だ。そうか。愛があれば大丈夫だ。その前に、THE悪が本当に武道館でライブをやれるバンドなのか。携帯でTHE悪を検索してみた。あ、あった。
『THE悪。ビジュアル系人気ロックバンド。2008年結成。ギターの飯田民男は昨年、「THE悪、奇跡のテーマ」でミラクル音楽祭ベストオブギタリスト賞を受賞。これからの日本ロックシーンを大きく揺るがす存在。2009年、国会議事堂ライブで魅せたパフォーマンスに大きな反響を得る。しかし、飯田民男の傲慢ぶりにメンバーが脱退し、現在、THE悪は飯田民男、一人で活動中である』
え、まじで。凄い人だ。国会議事堂でのライブをよく国が許したものだ。いや、その前に凄いギタリストなんだ。もうすぐ、俺はTHE悪のメンバーになってしまう。お金持ちだ。
「綾子、俺が悪かったよ。美味しい物たくさん食べような。THE悪は最高だよ。民男さん、今日からよろしく」
「おう、一徳。お前も分かってくれたか」
「一徳さん。愛しているわ。事務服って可愛い」
「おう、可愛い過ぎるよ」
ちょっと待て。何かがおかしい。原綾子を検索してみよう。まあ出るわけないか。で、出た。『原綾子。良い女』ま、これでいいだろう。でもって、床屋に着いた。
「いってらっしゃい。一徳さん」
株式会社床屋マイペースの看板の前。深呼吸。深呼吸。伸ばした髪がパンチパーマへ。よし、行かねばならん男なら。カランコロンカラン。
「ようこそ、床屋マイペースへ。あ、THE悪のメンバーの方ですね。えっと、斎藤一徳さん。飯田民男さんからのご紹介で予約が入ってます。こちらへどうぞ」
「そうだ。THE悪の斎藤だ。その前に、小便がしてえ。おやっさん、トイレはどこだ」
「『6』とペイントされている紫の扉をお開けください」
「悪いな。兄弟」
よし、MDウオークマンを耳に設置。1234。なになに。
「キャー民男―民男民男」
民男コールの中でうんこ座り。「ミラクルミラクル民男民男」「よし、行くぜ。THE悪、ペンギンのテーマ」ギターが鳴り響く。「キャー」「俺達は悪酔いしないぜ。気持ちよく花を供えようぜ。ペンギンのように。デフレってなんだ。俺には関係ねえ。よし、みちのくペンギンTHE悪。サンキュー」「民男民男」確かにデフレってなんだ。インフレデフレ。「今日の為替と株です」と美人アナウンサーがニュースで言っても俺には全く分からない。
よし続けよう。「俺達のライブハウス甲子園球場で暴れようぜ。カモン。暴れようぜ。カモン暴れようぜ。もっと。暴れようぜ」「暴れようぜ」「サンキュー」ああ腹が減る。あ、電話だ。原仙一。お、おいじちゃん。
「わしや。お前どこにおるんや」
「あの床屋です」
「そうか。後でかけなおすわ」
「はい。失礼します」
や、やばい。下痢が止まらない。水に近い便だ。思春期を思い出した。俺が、この俺がTHE悪のヴォーカルに。武道館でライブをすることが許せないと言った空手家だった親父の言葉を思い出してしまった。モラルって何だ。おじいちゃん、待っていてください。乳首相撲の夢がほとばしるから。さてさて。曲を覚えよう。耳には大きな民男コールと素敵な歌詞がある。
「THE悪。インフルエンザのテーマ。カモン。すぐに知らせよう。俺が、俺達がインフルエンザにかかった時は必ず検査に行こう。それが優しさだ。俺たちゃTHE悪。カモンセイ。病院が込んでいたらせき込むおばあちゃんにみかんをプレゼントしよう。しよう。THE悪は意外とTHE悪じゃなくTHE悪。サンキュー。今夜は皆どうもありがとうだぜ。素敵なクレイジーなTHE悪な夜になったかい。なったみたいだな。サンキュー。今日はTHE悪の素晴らしき友人、花沢美穂さんが一列目で俺達のライブを楽しんでくれたぜ。美穂さん、ステージのほうへお越しください」
「キャー民男。キャー美穂さん」
花沢美穂だ。もしかして、俺はもうすぐ死ぬのではないか。ケーブルテレビの企画は花沢美穂。老人会は富田林。こんなにテンションが高いのは俺だけではないのだろうか。低気圧に気をつけよう。落雷に気をつけよう。相変わらず歯がない俺を愛してくれる妻、綾子。おじいちゃんに電話しよう。なにかあれば老人に聞けとお袋が言っていたことをものすごく経験的に今、理解した。
「おじいちゃん、僕です。相談がありまして」
「どないしたんや。お前、綾子と別れたそうやないか。夕刊の一面トップやぞ」
「いえ、そんなことは全くないです。今朝入籍したばかりです」
「お前、今、どこや」
「武道館の近くの床屋のトイレです」
「なにしとんや」
「下痢に近い大便です」
「そうか、健康で何よりやの。ワールドチャンピオンのわしを相当怒らせた罰や。綾子と正式に離婚してわしとチャンピオン争いに決着つけようやないかい。コラ。歯抜け。どうするんや」
「どうするもなにも」
「人生たった一回や。はっきりせい」
「てめえ、こうなったらはっきりとくっきりとしてやるよ。俺はTHE悪のヴォーカリストだ。チャンピオンシップに用はねえんだよ。じじい。俺を甘く見るな。綾子は俺を心底愛してくれている。文句あるか」
「そうか。そこまで言うんやったら、しゃあない。おい。部隊一号。標的は決まった。応答せよ。兄ちゃん、後悔すなよ」
「俺には後悔したことなんて一度もない。やるべきことを人生でやってる男だ。この老人が」
こうして俺はトイレを出た。新しい兄弟達とやることをやるんだ。そうだよな。おやっさんよ。
「おやっさん。パンチパーマネントナチュラルを俺に施してくれ」
「はい。分かりました」
少し寝てしまおう。ぐったりと寝てしまおう。
「斎藤さん、斎藤さん。お疲れ様でした。3600円になります」
パンチパーマネントナチュラルな鏡の中の俺。良く似合うじゃないか。出来過ぎだ。中学の頃、夏休みの宿題を先生に全く認められなかったこの俺が今、輝きだしている。おやっさんに挨拶だ。
「おやっさん。また切りに来るよ。兄弟、お前は最高のテクニシャンだ」
「ありがとうございます。あのよろしければ、娘にサインしてくれませんか。今日が娘の誕生日なんです。記念にお願いします」
「分かった兄弟。娘さんの名前はなんていうんだ」
「本場所貴葉美と申します。今日で18歳になるんです」
「分かった。愛する兄弟の為だ」
えっと、斎藤一徳。愛する本場所貴葉美ちゃんへ。サイン終了。も、もしかして。
「THE悪よ。お前の奥さんの名前は綾子さんだろ。え、こら。じいちゃんは原仙一さんじゃねえのか」
「何故、それを」
「貴葉美、カモン」
脂汗が流れだした。新陳代謝が良すぎる俺が見たものとは。それは。戦闘服を着た大柄と申しましょうか、デブといいましょうか、素敵なと想いましょうか、不細工なと言い表しましょうか、強そうな女性がいた。
「綾子さんのご主人になろうってのがそもそも思い上がりなんだよ。THE悪の斎藤さんよ。斎藤一徳さんよ。私が貴葉美よ。神奈川なっちゃんケーブルテレビの秘蔵っ子。本場所貴葉美よ。私が後世に語り継がれるチャンピオン、あの原仙一さんの彼女だ。私を愛する資格はお前にはないんだよ。こら、乳首詰めろ。こら」
おやっさんが貴葉美さんを睨み一度、ウインクをして突っ込みを入れた。
「貴葉美、嘘はいけない。お前は真実のみを語りなさい」
不敵な笑みを浮かべる、ハサミを持ったおやっさんと、カッターナイフをお持ちになられた本場所貴葉美さん。怖いよ。助けてくれよ。綾子愛してるよ。その時だった。店の扉の前には聞き慣れた声があった。
「その必要はない」
原仙一さんのお姿がそこにはあった。老人会の理念は人助けだ。一筋の老人。なんとかなるかも。
「おじいちゃん、先ほどは申し訳ございませんでした。助けてください。お願いします。なんでもします。お助け下さい。僕が悪かったです」
「そうか。そうでもないけどな。実際どうなんや。兄ちゃんは」
この老人、タダ者ではない。それは以前から感じていた。なにせ、ワールドチャンピオンなのだから。
「ワールドチャンピオンになりたいです」
「ほう。そうか。お前には嘘は言えへんようやな。貴葉美、えっと、おやっさんの名前なにやったかいな」
「小介です」
「貴葉美、小介。わしはほんまのことをこの兄ちゃんに話す。老人嘘吐けずということわざがあるやろう」
「かしこまりました」
何なんだ。この人達は。この空間は。俺の乳首はいったいどうなる。
「兄ちゃん、綾子の体にはわしの孫が宿ってる。頭、抱えるなよ。それでなんの話やったかいな。そうや、思い出した。貴葉美。言うたれ」
「新しく産まれてくる綾子さんの赤ちゃんのお父さんは、この私なのよ。わけ分かる」
え、はめられたってこと。この俺は。ちょっと待ちなはれ。ということは。
「貴葉美さん、あなたの本名を教えてください」
「本場所貴一。文句ある」
「文句ないです」
「兄ちゃん。もう潮時やな。トランシーバー応答せよ。射程に的あり」
「斎藤一徳さんよ。こんなことわざ知ってる。乳首と命。どちらも生命」
「し、知らないです。おじいちゃん。なんとかならないんですか。頼みますよ」
「孫の顔は見たいけどな。お前、長生きすると俺等みたいになってまうで」
「そのままじゃないですか。あ、綾子おおおお」
俺はおじいちゃんの放つバズーカ―に撃たれて乳首もろとも吹っ飛んでお亡くなりになりました。
享年三十三歳。お疲れ様です。神様へ。質問が一つだけあります。俺はこの人生の敗北に合掌するべきなのですか。とにかくご臨終です。
老人会の人々 ムラカワアオイ @semaoka3
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