×××の××
××一一年五月二十日
僕は今まで日記というものを書いたことがない。
僕は僕自身が今まで生きてきた日々を、不幸だと思ったことはなかった。
砂で濁った川の中で、流されるままに生きてきた。そこから抜け出したいと思ったこともない。それが辛いとも楽しいとも思わなかった。僕を求めてくる老若男女が、僕に触れる手を、僕を求めてくる唇を、嫌だとも気持ちがいいとも思っていた。
僕を慕ってくる少女を、少しだけ可愛いともそうでもないなとも思っていた。
そうだ。僕はずっと、そういうやつだったんだ。
彼に引き取られた日の朝のことは、今でもよく覚えている。
埃と香水に塗れた部屋を、もう二度と僕の家だと思わなくてもいいのか、と。
少しだけ寂しいなと思った。
何度も裸足で歩いた町の中はとても蒸し暑く、息苦しくて、馬車の窓から僕は空を仰いでいた。空には黒く小さな影が浮かんでいて、それはゆっくりと、まるで時に逆らうかのように左回りに旋回していた。
初めてだった。
僕は初めて、それに感動をしたのだ。はじめて、感動というものを知った。なぜあんなちっぽけなものに心が震えたのかわからない。そんな僕を眺めながら彼はくすりと笑ったのだ。
僕がずっと覚えているのは、あの時のレデクハルトのニヒルな微笑だけだ。
僕にはそれがすべてだった。
それがもう一度見たくて、僕は何度も何度も彼を目で追い続けたのかもしれない。
どうしてこんなにも、彼との思い出が、まるで
目の前で、一人の女の子に一喜一憂する少年は、僕の記憶の彼と同じでいて、まるで何か目に見えないものに動かされている操り人形のようにも見えた。僕にとっては、あの時の彼の微笑みだけが、生き生きと色づいていたのだ。だから、僕にはずっと……彼があの子を思うようになってから、焦りがあった。
僕は何を求めていたんだろう?
僕は、彼に幸せになってほしかった。
同じだけ、辛くあってほしかった。
彼の恋がかなえばいいと思い、
叶わなくてもいいんじゃないかな、とも思った。
だって、女なんて腐るほどいるじゃないか。いつかは腐っていくじゃないか。
あんたを産んだ母親のように。
僕を売り飛ばし、僕を買い、僕で金を稼ぎ、僕を着飾らせたあの女たちのように。
一つ恋が叶わないくらいで死ぬものだろうか。死にゃしないだろうと思った。
けれど、僕は結局、彼の隣にあの子がいない未来を、ついぞ想像することはできなかった。
まるで絵のように。
二人は僕の瞼の裏で笑っているのだ。
僕はそれがなんだか嫌だったのかもしれない。
少なくとも素直に喜べやしなかった。
だから僕は、あの子を視界に入れたくなかった。
これ以上、僕の瞼の裏に焼き付かないでくれと、僕は心から哭いていたのだ。
きっとこの、僕が初めて書くことになる日記は、誰も見ることはないだろうから。
僕はここにたった一つの嘘を書こうと思う。
これは僕が僕自身を蔑むための嘘で、本当の言葉だ。
僕は、ケイッティオ、お前のことが、もしかしたら好きだったのかもしれない。
初めて、淡い恋心というものを、自覚していたのかもしれない。
僕は、レデクハルトに愛されている君が憎かった。
僕にばかりついてくる君がうっとうしかった。
レデクハルトが好きな女の子に、僕が好かれるわけにはいかないと思った。
どうして僕はそんなことを思ったんだろうか。
君に好かれる可能性なんて考えたんだろう。
今まで生きてきて、たくさんの女と出会ってきたよ。
こいつらは僕に惚れるんだろうなと思ったことは何度もあったんだ。
そして、実際その通りになったんだ。
でも、好かれたくないとか、好かれたらどうしようとか、面倒くさいとか、そんなこと、頭をよぎったことなんて。
君がもしこれから不幸になっても、
辛い最期を迎えたとしても、お願いだから、
レディのことは恨まないでやってね。
君はせめて、
僕のことを恨んでくれたらと思う。
明日から、実験を始める。
この日記は、僕が僕自身を責めるためにつけるものだから。
ありのままに書こう。
明日から、僕はできるだけ泣き言を言わないと誓う。書かないようにする。
だから、神様、最期に、今日という日の最期に、一度だけ書かせてください。
ここに、僕しか見ないここに、最初に、書いてしまうことを、許してください。
ケイッティオ、名前で呼ばなくてごめんね。君のことを本当はずっと、名前で呼びたかった。
レディ、あなたなんか大嫌いだ。大嫌いだよ。
ミヒャエロ、僕は別に君のことが嫌いではなかったよ。でも、憎らしいよ。
ギリヴ、君を利用するよ。もう決めたんだ。僕はもう君に情けはかけない。だから君に謝る権利もないだろう。でも、本当に、ごめんな。
それから、恐らく僕がこれから犠牲にするだろう人達も、
本当に、
ごめんなさい。
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