都に霞むアムリタ

星町憩

Prolog

空落ちる世界

 少年パリシアは、生まれた時から奇妙な個体だった。


 その足は決して、人々の踏みしめる大地に触れることはない。彼の体が受ける重力は逆さまで、人々が足を向ける大地にパリシアは頭を向け、人々が見上げる空を踏みしめようとする。

 パリシアは父無し子であった。唯一の家族である母親は、屋根のある家の中以外では常にパリシアの手を握っていなければいけなかった。もしも屋根のない青空の下でつないだ手を離してしまえば、その小さな体が空の彼方へ吸い込まれてしまいそうだったからだ。パリシアの母はパリシアの体質に悩み苦しみ、数えき れない回数家を出て、そのまま帰ってこない夜があった。それでも彼女は、ただ一人の息子を捨てることはできなかった。薄明るい夜明けに帰ってきては、天井に張り付いて眠るパリシアを起こして抱きしめ、泣くのだった。

 医者達は可能な限り彼の身体を調べたが、彼の奇妙な体質の原因も、それを直すための方法も、有意義な答えは何一つ見つからなかった。十歳とおを超える頃には、パリシアは医者にかかるのは金の無駄だとすら思っていた。母子家庭であるパリシアの家は決して裕福ではなかった。それでもパリシアの母親がパリシアを病院に通わせたのは、彼女の【息子を普通の子供にしたい】という切実な願いのせいに違いなかった。母親も苦しんでいただろうし、パリシアもまた苦しんでいた。美しい母親を泣かせ続けているだけの自分が、疫病神にさえ思えた。

 結局、パリシアが医者から得た唯一の救いは、とあるお伽噺だけだった。

 それは、パリシアの生きるこの星が、かつては別の世界の空であり、この星の空はかつての世界の大地であったという、荒唐無稽な物語だ。その昔、人々は地球という名の、大海に覆われた青い星の上で寄り添い生きていたのだということ。地球で栄えた人類はその数を鼠のように増やし、やがて星そのものを侵食していったのだということ。争いは絶えず、人々の巻き散らかした害毒のために、かつて美しかった大地はやがて毒の霧を噴き上げ、空からはあらゆる生命の皮膚を融かす雨が降り注ぐようになり。地上の生き物は生きていくための飲み水を失い、次々と命を絶やしていったということ。人類は地下水脈を利用し細々と暮らし 生き延びたが、やがてそれも尽きていき、残されたわずかな水源を巡って再び争いが起きたこと。滅びの道を辿る世界が生まれ変わったのは、神の遣わした六人 の救世主が世界を造り替えたからなのだと。

 救世主は空を一つの星に作り変え、海の底に王国を作り、かつて氷土に覆われていた南極の地を生き物が凍えることのない緑豊かな国にした。人類は三つの国それぞれに散らばり、今日まで栄え生き延びている――

 そんな話を聞かせた医者は、パリシアはかつての地球に残る、海と緑の王国の重力に引かれた、稀有な子供なのではないかと言った。

 空の向こうに海や緑の国がある――そんなお伽噺は、誰も信じてはいなかった。人々にとっては、一年かけて歩けば一周できるような小さな星が、世界の全てだった。けれどパリシアは、一層空への憧憬を強く抱いた。ただ地に足がついていないというだけで、気味悪がられ、蔑まれてきた。もしも僕が、生まれてくる世界を間違えてしまったというだけなら、僕は空へ帰ればいい。今は母さんがいるからできないけれど、もしもいつか僕が自由になったなら、重しを取り払って空へ吸い込まれてしまおう。行きつく先がどこだって、構わないや――そう思うことが、パリシアの心の慰みになった。僕の居場所は空にある。僕は 偶々、偶然に、不幸にも、生まれてくる世界を間違えてしまっただけなんだ。だから母さんを苦しめてしまっているんだ。母さんは、普通の子供を産みたかった だろうに。でも、僕は特別なんだ。この世界で唯一、空に愛された子供だと思えるから。神様がいるはずの空に、きっと真っ先に辿りつけるから――

 その空想を抱えて、パリシアは笑って生きることにした。母親の心の負担を少しでも軽くしたかった。自分が笑っていれば、母親の不幸をきっと半ぶんこにできるのだと信じていた。けれど、十一歳になる日の明け方、母はついに自ら命を絶った。首を吊った逆さまの母親の身体を眺めて、パリシアはよろめく足でふらふらと窓枠に足をかけた。空はちょうど赤と白を滲ませた頃で、鮮やかな赤髪の自分はその中に簡単に溶けこんでしまえるような気がした。ここに居たいのに、居たかったのに。世界からはじき出されようとする自分をつなぎとめてくれていたのは、ただ一人の家族、母だけだった。それがなくなった今、彼を引き留めてくれる者は誰もいない。パリシアは窓の外へ足を踏み出した。落ちていく。堕ちていく。

 目まぐるしく鮮やかな色を滲ませる空に、ただ一人死に損なったパリシアは、ゆっくりと堕ちていった。轟々と風が唸って、肌を切り裂く。ほとんど開かなくなった瞼の奥から気を失う間際に見あげた故郷は、白く輝く球体だった。



     ✝



 目を覚ますと、じめじめとした冷たい何かの上で、見たこともない紅紫色の花に包まれていた。パリシアは、自分が生きていることにまず驚いて、自分の周りに大地に咲くはずの花があることにも驚いた。体を起こそうと腕に体重をかけると、手は泥の中にのめり込んだ。汚れた手を見て初めて、パリシアは自分が濡れ た土の上にいることを知った。今までは家の天井にしか足がつかなかったというのに。

 辺りは一面、鮮やかな緑と、紅紫色だった。水の匂い、花の香り、緑の香り、土の匂いが、鼻腔をつつく。パリシアは震えながら思い切り息を吸って、それらの空気を肺に注いだ。深く息を吐けば、今まで貯めこんできた苦しみも肺から逃げていくような心地がした。

 紅紫色の花々の上には、街路樹よりもずっとうねり、背丈も太さもばらばらの木々がめいめい勝手な方向に枝を伸ばして生い茂っていた。野生の木々を、パリシアは初めて見たのだった。大地の泥は水と混ざり合い、歩く度にべたべたとパリシアを汚していった。泥の中を埋め尽くすように咲く紅紫色の花々はまるで、 遠目に見ると赤い絨毯のようだった。もう一度息を吸い込んで、パリシアは空気がとてもおいしいと思った。そんなことを思ったのも、初めての経験だった。パ リシアは泥に足を取られながらも、辺りを散策することにした。心は少しだけ高揚していた。僕と同じ人はいないだろうか。重力が逆さまの、この泥の上でしか 生きられない誰かが、いてくれないだろうか――

 どれくらい彷徨っただろう。額の汗をぬぐい、頭上を仰ぐと、かつて自分がいたはずの世界が一面真っ青に広がっていた。まるで青い絨毯のようだとパリシアは思った。もしかしたら、あの世界に咲く花が空の色を作っているのかもしれない。

 そうしてしばらく青空を眺めてぼんやりとしていた。すると不意に、すぐ近くで耳にざらつく音が鳴り響いた。パリシアはびくりと肩を震わせて、音のした方 を振り向いた。葉末の影に隠れて、鳥の尾羽がちらちらと見えた。どうやら、鳥たちの羽音だったらしい。息をつこうとして何とはなしに見つめた花畑の先に、 花ではない何かを見つけて、パリシアの眼はそれに釘付けになった。

 花の絨毯に埋もれて、木の根元に身体を預けて。草色の艶めく髪を風に揺らした、美しい人が眠っている。その白い肌を埋め尽くす様に、紅紫色の花が花弁を広げている。痛々しいその姿は、けれど魅力的で、艶やかだった。

 神様だ、と思った。神様が、地上の花を体にも咲かせて眠っているのだと。

 そのまま身動きもできずにいると、その人は長い睫毛を震わせて瞼をもたげ、ゆるやかにパリシアの姿を見とめた。

「あれ」

 静かな低く優しい声で、その美しい人は言って、微笑した。

「来訪者だなんて珍しいね。どうしたの? 迷い込んでしまったのかな」

 パリシアは答えようとして、喉を鳴らした。けれど喉からは、擦れた音しか出なかった。パリシアが目を泳がせ続けていると、彼は首を傾げてもう一度形の良い唇を開いた。

「小さいね。お母さんとはぐれたの?」

 その言葉に、ようやく我に返って、パリシアは俯いた。

「母は……死にました」

「そう。悪いことを聞いたね」

 清かにそう言って、彼は細長い腕をあげ、うんと伸びをした。

「……けれど、こうして人間がここに居るということは、ここもやっと浄化が追い付いたってところなのかな。僕が解放される日も、もうすぐ訪れるのかもしれない。やっと、だね」

「あなたは……?」

 パリシアは、ようやっとそれだけを呟いた。彼はくすりと笑った。

「多分、君の世界のお伽噺の人だよ」

 パリシアは混乱してしまって、それ以上彼について聞くことができなかった。代わりに、足元に敷き詰められた花を見つめた。

「あの……この花、なんという花なんですか」

「ああ、知らないの? 君の世界では咲いていないのかな」

「はい」

 パリシアがこくりと頷くと、彼はとても幸せそうに、そして哀しげに笑った。自分の左目を覆うように咲く花弁を、彼は愛おしそうに撫でた。

「これはね、蓮華草という花だよ。僕が……僕の大好きだった子が僕に残していってくれた花だ」

「それ……痛くないの?」

 痛々しい彼の肌を見つめて、パリシアはそう尋ねずにはいられなかった。けれど彼はふにゃりと、人間らしく笑った。

「痛いけれど、苦しいけど、これがあるから僕は生きていられるんだよ。この花は僕を栄養としているけれど、僕もこの花に生かされている」

 そうして彼はパリシアの傍に歩み寄り、頭を撫でた。

「見たところ、もう君は元の世界には帰れなさそうだね……僕には他にどうすることもできないけれど、せっかくだから僕の話し相手になってくれる? これでもねえ、もう何千年も、人と話していないんだ。そろそろ疲れてきていたところなんだよ」

 パリシアは彼の蓮華草色の瞳を見つめた。自分の身体には生まれたときから悩まされてきたけれど、こうして元の世界から抜け出して彼に出会った。それなら、もしかしたら彼に出会うのが自分の生きる意味だったのかもしれない――だなんて、そんなことをぼんやり考えた。パリシアは大きく頷いて、笑った。もう 空に未練なんかない。僕は、この人に会うためにここに来たんだ。きっと、そうなんだ。

 パリシアの心は喜びに満ち溢れていた。これから自分が、この美しい人から聞かされる壮絶な物語を、まだ知らないまま。

 自分の行く末を、思いもよらないまま。





     ✝




 こうして、人類はようやく、最後の救世主と出会った。

 生まれ変わった美しい世界で。

 ――これは、世界の終わりと始まりの物語。


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