【テルオの伝記 ⑪】

『🐈大学時代』


 静かな川は深い。という言葉をご存知だろうか?

 輝男の大学時代は彼の人生において、まさに静かな川の時期となった。


   🐈


 ちなみに織田輝男の高校時代の成績表はあまりよくなかった。

 テストではすべての教科においてほぼ満点の成績を収めたのだが、授業態度の評価が最悪だったのだ。

 神城虎子に連れられるままに、毎晩のようにバイクで出かけていたのがその理由だった。


   🐈


 たいてい帰ってくるのは明け方近くで、当然のように輝男はほとんどの授業を眠って過ごすことになった。

 ただ輝男の名誉のために付け加えると、輝男本人はがんばって起きていようとはしていた。

 だが睡眠時間が三時間で足りるはずもなく、気づいたときには体が眠りに落ちているという具合だった。


   🐈


 それでも輝男は現役で東京大学に合格した。

 当時の日本では最難関の大学として知られていたところである。

 そのころには輝男の天才はすでに花開いており、受験で必要とされるレベルの知識はとうに身についていた。


   🐈


 この合格の知らせに一番驚いたのは、輝男の祖母と母親だった。

 この時すでに、輝男の母親の余命はわずかだった。そのほとんどの時間を病院で過ごし、祖母の家にもほとんど帰ってくることはなかった。そして祖母はと言えば経済的に困窮していた。輝男の母の治療費のためである。

 すでに自分の生活で手いっぱいだった祖母にとって、輝男の東大進学は一縷の希望でもあった。

 それまでの輝男は暴走族の連中と付き合い、迷惑な存在でしかなかった。だが東大を卒業して一流企業に就職できれば一気に生活が楽になるはずだ。祖母はひそかにそう考えていた。


   🐈


 そしてこの時期、輝男は祖母に対し戸惑いを感じていた。

 祖母が自分に関心を持ち始めたのは分かったが、いまさらどういう関係を築いていけばいいのかもわからなかった。

 それでもなんとか家族のようになりたいと願い、積極的に話しかけるようにもしたのだが、いつも祖母は輝男の言うことを何一つ聞いていなかった。

 輝男が大学入学を機に、アパートで暮らすようになったときもそうだった。


   🐈


「おばあちゃん、あのさ、これから大学へ行くのに定期代がいるんだ。だいたい一ヶ月二万くらいなんだけど……お金をだしてくれる?」

「ああ、それなら心配ないよ。あたしの知り合いにアパートを頼んでおいたからね。そこから歩いて通えるよ」

「でも、アパート代なんて高いよ。ここから通えるんだから」

「もう契約してきたんだ、その話は終わりだよ」

 

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 祖母はあいかわらず輝男の話をまるで聞かなかった。聞く耳がなかったのだ。だから輝男はそれ以上何も言わず、後は黙って言われたとおりにするしかなかった。

 それでも、祖母が自分のためにアパートを見つけてくれたという事実は、輝男にとってはうれしいことだった。


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 そこは彼女の知り合いの経営する築七十年のボロボロのアパートだった。

 壁の老朽化でエアコンの取り付けはできないし、口うるさい大家のいいつけで石油ストーブの持ち込みも禁じられていた。

 部屋はボロボロの畳が敷かれた六畳間がひとつきりで、キッチンもトイレも共同、もちろん風呂もついていない部屋だった。


 輝男は一目見ただけでここから出て行きたくなったが、祖母はここがずい分と気に入ったようだった。

 もちろん気に入ったのは家賃だ。何と月二万円という安さだった。


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 贅沢を言えばきりがないよ。

 でもね、ここの家賃は安いし、東京大学にも歩いて通えるだろ。

 勉強の時間もいっぱい取れるし、立派な成績を収めればいいところに就職できる。そうしていっぱいお給料もらったら、それからきれいな部屋に住めばいいんだよ。


 祖母はさも天国でも見つけたように輝男をそう説得した。


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 しかしこの部屋はまるで牢獄だった。

 日当たりが悪く、昼間だというのに蛍光灯をつけねばならなかった。

 玄関の扉は薄っぺらなベニヤに壁紙が張ってあるだけだった。

 隣の部屋には老人が住んでおり、耳が遠いせいかずいぶんと大きなボリュームで一日中テレビを見ていた。

 唯一の取り柄は家賃だけだったが、それでも輝男からすれば、この部屋で家賃を取ること自体が暴利に思えた。


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 波乱含みのスタートだったが、ともかく輝男の大学生活はスタートした。

 輝男が大学生活で一番楽しみにしていたのは、神城龍次との再会だった。

 その気持ちは龍次も同じで、二人は入学式の当日にお互いの姿を見つけ出し再開を喜んだ。


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「久しぶりだな、輝男」

「龍次も元気そうだね」


 神城龍次はすっかり大人になっていた。

 180センチの長身にはみっしりと筋肉がつき、顔つきも引き締まって精悍になっていた。

 眉の上や頬には武道でついた小さな傷跡がいくつも刻まれ、その雰囲気に凄みと迫力を増していた。

 だが粗暴な感じはまるでなく服装、しゃべり方、何気ないしぐさのことごとくが知的な印象を与えるのだった。

 犬にたとえるならばシベリアンハスキーといったところだろうか。

 それが神城龍次の成長した姿だった。


   🐈


 一方の輝男は犬にたとえるなら大きなチワワだった。

 身長は人並みにあったが、平均をはるかに下回って痩せていた。

 腕や足がひょろ長く、髪は感電でもしたかのようにぼうぼうに逆立っていた。

 度の厚いメガネをかけているせいで、クマの浮いた目が飛び出しているように見え、頬もずいぶんとこけていた。

 ずいぶんと頼りない感じではあったが、唇の端を少し曲げて笑う生意気そうな笑い方だけは不敵で、輝男なりの成長を感じさせるものだった。


   🐈


 二人はしばらくお互いの成長した姿を見つめ、それからいきなり龍次が輝男の頭をゴツンとたたいて言った。


「約束を忘れてないだろうな? 輝男」

「もちろんさ。忘れるわけないだろ。それより何でたたくんだよ」

「なんとなく、うれしかったからだ」

「なんとなくでたたくなよな」

「悪かったな、ところでオレたちには研究する場所が必要だ」

「まぁそうだな」

「実は心当たりがあってな。今から行くんだ。一緒にこい」


   🐈


 それから二人は大学の歴史研究会というサークルに入った。

 サークルそのものには興味がなかったが、集まる場所がほしかったからである。

 そこには歴史オタクといわれるマニアたちが五人いた。

 ずい分と暗い感じの男たちで、すこし病的な雰囲気を持っていた。

 見た目はか弱そうだったが、攻撃的な話し方をする連中だった。


   🐈


 彼らは龍次と輝男がアトランティス大陸を探すのが目的だと告げると、それを笑い飛ばしオカルト研究会に入ることを薦めた。

 だが龍次は彼らの嘲笑を気にもとめなかった。

 さっさと机を見つけ出すと、ほかの机をどけて部屋の真ん中に置き、さらにマジックを取り出して机の上にでかでかと文字を書き出した。


【 アトランティス大陸 研究部 】


 その暴挙ともいえる行動に、オタクの歴史部員の顔が真っ赤になった。だが龍次がひと睨みしただけでみんなおとなしく引き下がった。


   🐈


「さぁ、研究をはじめようぜ。輝男」

「ああ、はじめよう!」


 輝男はニヤリと笑って答えると、隣に自分の机を並べて同じ文字を書いた。

 こうして二人だけの『アトランティス研究部』はスタートした。


   🐈


 それから二人は毎週水曜と金曜の二日間をアトランティスの研究にあてた。

 互いに文献を持ち寄り、大きな地図を張り出し、膨大な数のリストを作り上げた。

 そして来たるべき冒険の計画を着々と立てていった。


   🐈


 もちろんアトランティスの研究のほかにも、二人にはそれぞれの勉強があった。

 龍次は弁護士になるために、朝から晩まで六法全書と格闘し、膨大な数の裁判事例を頭に詰め込んでいた。

 輝男といえば、まだ漠然とした目標だったが発明家になるために、専攻の物理のほかにも化学・数学・生物学などいろいろな授業に顔を出していた。


   🐈


 輝男は勉強するのが楽しかった。

 これまでどこにいても輝男は浮いた存在だった。

 それは彼の頭のよさがあまりに異質で、周囲の人間を不安にさせてきたせいだ。

 だがこの東京大学には本当に頭のいい人間がいくらでもいた。

 専門知識に偏っているパターンが多かったが、みんなが一種の天才だった。

 輝男は彼らとともに授業を受け、研究を続けていく中でようやく安住の地を見つけ出した思いだった。

 輝男は時間のある限り、あらゆる研究に参加し、専門書を読み、仲間たちと研究を続けた。


   🐈


 三年間が静かに、しかしあっという間に過ぎさった。


   🐈


 その間に母親が亡くなった。母親は祖母が見舞いに来ていない時間、たった一人で息を引き取った。祖母にも輝男にも、何の言葉も残さなかった。

 母の死は輝男にとって、なんとも悲しい出来後だった。輝男は自分でも意外だったが、三日間を泣いて過ごすことになった。

 祖母は涙を流さなかった。それが悲しんでいない、ということにはならないだろうが、輝男にはやはり意外に思えた。

 

   🐈


 母の死を除けば、輝男はひたすらに研究と勉強の日々だった。

 龍次と二人でのアトランティスの研究、多くの仲間に囲まれた勉強の日々、狭くて汚かったが誰も邪魔するもののない暮らし。

 その静かな生活の中で、輝男は自分の天才の可能性をぐんぐんと掘り下げていったのである。


   🐈


 そして大学生最後の夏休みがやってきた。

 二人のアトランティス研究部の部屋には一枚の地図と一冊のファイルが残されているだけだった。

 その地図はスペイン領アゾレス諸島の地図だった。

 その地図には丸いシールがはってあり、シールには一つ一つ番号が振ってあった。

 そのシール番号ごとにレポートが作成され、それは机の上にある一冊のファイルにまとめて閉じられていた。

 シールは探し出すポイントとその順番、レポートにはその根拠が短くまとめられていた。

 部屋中に散らかされた資料の全てが、このたった二つのものに集約されたのだ。

 そして夏休み前の最後の授業が終わると、二人は研究部に地図とレポートを取りに行き、その足で空港に旅立った。


   🐈


 


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 そこで二人が見たもの、二人が感じたこと、その冒険のてん末などはすべて輝男の物語に記されているとおりだ。

 ここで改めて書き直す必要はないだろう。

 だからこれから記すのはその後日談である。


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 輝男と龍次は帰国してから研究部の部室に戻ってきた。

 二人は自分たちがアトランティス大陸を見つけ出したことは確信していた。

 だが証拠となるものが何もないことにも気が付いた。

 大陸の位置も嵐の中では確認が取れず、また助け出してくれた船員たちに話を聞いても何も知らないと首を振るばかりだった。


   🐈


 それはまるで夢物語のようだった。


 そうでないと確信できるのは、二人が同時に同じ夢を見るはずがないからであり、輝男のポケットには確かに『アトランティスの爪楊枝』が入っていたからだ。

 龍次もサクラからネックレスをもらっていたが、こちらはどこにでもある貝を使ったものだった。


 二人が持っている証拠はたったそれだけだった。

 二人にとっては十分だったが、世間を納得させうるものではなかった。


 結局二人がなしとげたアトランティス大陸の発見が公表されることはなかった。誰もその公表をまともに受け止めようとはしないだろうし、公表すれば自分たちがペテン師呼ばわりされるのは明白だった。

 そういう意味ではこの冒険は失敗に終わったのだった。


   🐈


 しかし二人は満足していた。

 信じつづけていたアトランティス大陸を発見できた。

 さらに新しい目標も出来た。

 輝男も龍次もいつかもう一度アトランティス大陸を目指すつもりだった。

 輝男は鋭子にその大陸を見せるために、龍次はアトランティスにいるサクラと再会するために。


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 その日、二人は歴史研究部から全てを引きはらった。

 入学式の日に並べた机を元に戻し、マジックで書いた


【 アトランティス研究部 】


 の文字をシンナーでふき取った。


 残っていたものを全て運び出すと、部屋はほとんど空っぽになってしまった。

 そこに残った空間は夢の残骸のようだった。


   🐈


 それから卒業まで、二人はあまり会えなくなった。

 それぞれに就職活動と試験を間近に控えていたからだ。

 当時の若者の就職状況はあまりよくなく、東大卒の肩書きも企業にとって魅力を失いつつあった。また夏休みの間に冒険に出ていたために、本来就職活動をするべき時期を逃していた。

 もうアトランティス大陸を追いかけている時間はなかった。

 野心と夢にあふれた青年期は終わった。

 二人ともがそれをはっきりと感じていた。

 これからはもっと身近な現実に向かい合わなければならなかった。


   🐈


 しかし輝男はここでもう一つの発見をすることになった。

 それは『ダイアモンドの爪楊枝』に付けられた小さな傷だった。


 輝男はそれをいつも小銭入れの中に入れ、肌身はなさずに持ち歩いていた。

 なにかつらいことがあったときは、その爪楊枝を取り出し、光にかざしてその透明な輝きに見とれていた。

 そして面接試験に失敗したある日の帰り道、その爪楊枝をいつものように夕日にかざして眺めていたとき、ふいにその先端の傷が『マーク』だと思い当たった。


   🐈


 輝男は自分だったら、そのマークをどうするのかを考えた。

 そして傷の位置の正確な測定値の中にその秘密があるに違いないと考えた。

 輝男はまず顕微鏡で傷の位置を測定した。

 そこで拾い出した数字がつづっていた言葉は輝男の物語に書かれているとおり『HELLOハロー』だった。

 輝男はさらに電子顕微鏡を借り出し、さらに数字を拾い上げて100個ほどの数字を拾い上げた。


   🐈 


 そこからつなぎだされた言葉こそ、手帳の中に書かれていた物語の冒頭である。


 ついでにいえば、


 これで種明かしは終わりだ。


 わたしの名は『スケイプ』


 もう改めて自己紹介する必要もないだろう。


 わたしはスケイプのいわば幽霊なのである。


   🐈


 わたしは博士の背後に存在し、彼の背中から彼のボールペンがつむぎだす言葉を見つめていた。

 そのボールペンが真っ白いノートに文字をつづり、文字がつながって物語をつづっていくのを不思議な気持ちで眺めた。


 それは遠い未来で、そして遠い昔にわたしが書いた作文だった。


   🐈


 それから輝男はパソコンを使い、物語の解読に取りかかった。

 その解読に顕微鏡を使う必要はなかった。

 パソコンには画像の拡大機能というのがあり、画像を次々と引き伸ばすことが出来たからである。

 取り込まれた線は完璧な二次元だったため、いくら拡大しても一本の線として表示された。

 ただその作業には膨大な時間がかかるため、輝男は専用のプログラムをつくり、あとは機械に解読を任せた。


   🐈


 全ての物語を引き出すまでに三年間がかかった。


 そして解読が終わったとき、輝男は『国立総合科学研究所』という名の監獄に投獄されたのである。


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