【テルオの伝記 ⑤】
『🐈山川鋭子』
輝男の人生において『山川鋭子』の存在を欠かすことはできない。
輝男の人生にもっとも大きな影響を与えたのが彼女の存在だった。
彼の発明家としての人生は彼女の存在で幕を開け、囚人としての人生では彼女の存在だけがその支えだった。
そして輝男が脱獄する目的は彼女との約束のためでもあった。
織田輝男は文字通り、彼女のために生きていたと言える。
山川鋭子は輝男にとっての憧れであり、恋人であり、女神だった。
彼女の存在なしに、彼は何一つ成し遂げることはなかったかもしれない。
🐈
山川鋭子は五年生のクラス替えと同時に、輝男のいる小学校に転校してきた。
それまで彼女は東京都内の小学校に通っていたのだが、あまりにいじめがひどくなり引っ越してくることになったのだ。
しかも彼女の転校はこれが初めてではなかった。
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いじめの原因は彼女の容姿にあった。
鋭子は子供の頃からたいへん美しかった。すっきりとした二重の大きな瞳、ふっくらとした小さな唇、そしてなめらかな長い髪を持っていた。
その肌は透き通るように白く、立っているだけで人の目を引きつける魅力にあふれていた。しかも彼女の美しさは冷たい美しさではなかった。なんとも暖かみのある美しさだったのだ。
そういう美しさを持つ人間は本当にまれである。
だがその異質さがいつも彼女を孤立させていた。
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ちなみに鋭子の母親もまた女優だった。
彼女の母親は美人ではあったものの、演技という才能には恵まれず、やはり才能に恵まれなかった若い映画監督と知り合い結婚した。
父親もまた容姿端麗ではあったのだが、二人の間に生まれた鋭子は、そのどちらにも似ることなく独自の美しさを持って生まれた。
片隅とはいえ芸能界にいた二人は、生まれた赤ん坊のかわいらしさが、普通の人間にはない特別なものであることをすぐに感じ取った。
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両親は彼女がまだ赤ん坊の頃から、ショービジネスの世界に売り込みを始めた。
彼女が最初に出演したのは離乳食のコマーシャルだった。
その中で赤ん坊の鋭子はほうれん草のパテを食べて、実においしそうにニッコリと笑った。
その離乳食は実際はひどい味だったが、翌日から店頭で売り切れが続出し、スポンサーの業績を大幅に上げることになった。
まさに彼女は生まれつきの女優だった。
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次に出演したのはおむつのコマーシャルだった。
彼女のかわいらしいお尻を包んだおむつは、あっというまに売上を伸ばし、ロングセラーとなった。
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乳歯が生え始めると歯ブラシのCMに出演し、やはりこれも大ヒットさせた。
さらに幼稚園に入園すると、カメラメーカーのCMに出演し、その愛くるしい笑顔を写したポスターは日本中に張り出された。
彼女の無垢な美しさはあらゆる人をひきつけずにはおかなかった。
彼女の出演したコマーシャルは例外なく記録的なヒットを生み出していった。
出演依頼はひきもきらず、彼女の知名度をぐんぐんと上げていった。
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やがて小学校に入学すると、国営放送の連続ドラマに出演が決まった。
最初、周囲の大人たちは彼女の容姿だけで視聴率が取れると考えていた。演技力については特に期待していなかった。
だが撮影が始まると、誰もが驚いた。彼女は誰に教えられたわけでもないのに完璧な演技をしてのけた。
急遽台本が変更になり、彼女を中心とした物語に変更された。
そのドラマも局が始まって以来の視聴率を更新し続けた。
このドラマをきっかけに鋭子は子供からお年寄りまであらゆる世代のアイドルになっていった。
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たとえるなら彼女はダイヤの原石だった。それも巨大な原石だった。
🐈
しかし成功に伴う反動も大きかった。
鋭子のもたらした巨額の収入は両親を狂わせた。
母親は鋭子のマネージャーとして詰められるだけの仕事を入れ、それに反対した父親といさかいが絶えなくなった。
父親は父親で再び映画をつくりだしたのだが、逆に借金を作る結果に終わってしまった。
そして鋭子が小学校に入学する頃には、両親は別居状態になっており、家族という関係は完全に崩壊していた。
🐈
もちろん彼女自身への反動が一番大きかった。
彼女はほとんど学校に通うことができなかった。
頭は悪い方ではなかった。台本の暗記は自分のせりふだけでなく、相手のせりふまで完璧に覚えることができた。
演技の注文も一度聞いただけで、完璧にこなすことができた。
だが算数や理科・社会など、学校の勉強にさくだけの時間はまったくなかった。
また女優としての自覚もあったから、勉強のために睡眠時間を削るようなことはできなかった。
頭が悪いと思われるのは嫌だったが、どうにもならないこともよく分かっていた。
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もちろん友達を作ることもできなかった。
確かにクラス中の男子が憧れる存在ではあったし、男子はよく彼女に声をかけてきたが、そのことで逆に女子からの反感をかうようになった。
その反感はすぐにいじめという形で現れることになった。
彼女の美しさへの嫉妬が、それに加わっていたことはいうまでもない。
しかも彼女はいじめに対して、全くの無視を決め込んだ。
大人の中で育った彼女は、いじめという行為が子供じみて見えたからである。
しかし彼女のそんな態度が、さらに周りの怒りを倍加させていった。
だがこれも彼女にはどうにもならないことだった。
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彼女はあきらめというか、見極めが早かった。
どうにもならないことは、結局どうなるものでもない。
彼女はそれを早い時期に悟っていたから、周りの反応に対し冷静に振る舞い、超然とした態度をとった。
そんなことでは私は傷つかない。
いつもそういう態度をとった。
だが実際の彼女は誰よりも深く傷ついていた。
いくら早熟だとはいえ、まだまだ子供だったのだ。
誰よりも有名な子役であっても、女性だったのだ。
🐈
だが鋭子はその事を誰にも悟らせなかった。
彼女の演技力は小さな頃からそれほどに完璧だった。
母親も教師も、周りにいた誰一人、彼女の悲しみにまるで気がつかなかった。
彼女がいつも笑顔でいるので、彼女がいじめられていること、ゆっくりと追い詰められていることに、誰も気が付かなかった。
さらに当の本人までそれに気がつかなくなっていた。
彼女の演技はそれほど完璧で、自分自身の気持ちすらあざむいていたのだ。
🐈
そういう生活は彼女が10歳になるまで、輝男と同じ小学校に転校してくるまで、延々と繰り返されてきた。
そのたびに彼女の心の中に小さな傷ができ、その小さな傷を自分でかばいながら、彼女は仕事でも普段の生活でも、完璧な演技を続けた。
求められれば完璧な笑顔をいつでも浮かべて見せた。
だが誰も気が付かないところで、彼女自身ですら気が付かないところで、彼女の心はゆっくりと壊れていこうとしていた。
彼女はいつも声もなく、涙を流すこともなく、泣いていた。
当の本人すら、自分の心が泣いていることに気が付かなかった。
だが、ただ一人それに気づいた者がいた。
それが『織田輝男』だった。
🐈
それは夏休みを目前に控えた、給食の時間の時だった。
真昼の熱い日差しが教室中にあふれて跳ね返り、舞い上がったチョークの粉が金色に輝いて空中を漂っていた。
給食のパンとスープの匂いが甘く教室に立ち込め、子供達は思い思いに雑談をしながら、おいしそうにそれらを食べていた。
大きく開かれた窓からはポプラの木にとまったセミの鳴き声が、物憂げに聞こえてきていた。
空は澄み切って青く、雲は白く流れ、確実にやってくる夏休みへの期待を抱かせていた。
🐈
ちなみにわたしがこういった風景を描写できるのは、わたしがその場にいて、その場の光景を見、その空気の匂いをかぎ、その音を聞いていたからである。
学校だけではない。わたしは常に輝男のそばにいたし、鋭子のそばにもいた。
だがわたしは神という存在ではない。それだけははっきり言っておこう。わたしは実在の人間だ。
まぁいずれわたしの事も話すことになるだろうが、まずは、先を続けよう。
🐈
生徒達のほとんどは仲間同士で机を向かい合わせて給食を食べていた。
小さいグループは二人から、大きなグループでは八人が机を並べていた。
その中で誰とも机を合わせていない机が二つあった。
その一つは織田輝男。
彼はただ一人、窓側の一番後ろの席で、本を片手にパンを食べていた。
もう一つは山川鋭子。
彼女は廊下側の一番後ろの席で、台本を片手にパンを食べていた。
🐈
教室にはざわめきが、子供達の話す声、笑う声、食器がぶつかる音が、ゆるやかにうねりながら満ちていた。
輝男にとってはいつものうるさい時間だった。今日は夏休みも近いので、みんないつもよりさらにテンションが高い。輝男はなんとか本に集中しようとしたが、それ以上にざわめきがひどかった。
輝男はあきらめたようにため息をついた。そしてパンにかじりついた。
その時、輝男の耳から雑音がスッと消え失せた。
輝男は不思議に思い、パンを食べる手を止めた。
読んでいたアトランティスの本をゆっくりと倒した。
そして気がついた。
音が消えたのではないことに。
周りの雑音を貫いて、静寂が聞こえてきたのだ。
🐈
輝男はその静寂の聞こえる方に首を向けた。
その視線の先に山川鋭子がいた。
山川鋭子は顔の前に大きく台本を広げ、うつむくようにしてパンを食べていた。
だが輝男は、彼女が声もなく泣いているのに気がついた。
輝男だけがそれに気が付いた。
泣き顔も作らず、涙も流さず、いつもと同じ表情をしているのに、彼女はただただ泣いていたのだ。
🐈
と、輝男の視線を感じ、山川鋭子がゆっくりと首を巡らせた。
そして自分を見ている輝男と目が合った。
その瞬間、彼女の頬を涙が一滴つたっていった。
それに驚いたのは鋭子自身だった。
彼女はとまどい、指先で涙をぬぐった。
🐈
輝男は鋭子をまっすぐに見ていた。
静寂の音は彼女から聞こえていた。
その静寂の中から輝男は鋭子が泣いている声を聞いた。
ひとりぼっちで、寂しくて、死んでしまいそうなくらい、静かで悲しい泣き声だった。彼女のその声は、輝男がいつも心の中で叫んでいた声と、まったく同じ声だった。
その瞬間、輝男の両目から涙があふれてきた。
まったく唐突に、ぼろぼろと涙がこぼれた。
涙は次から次へとあふれ、給食のパンの中にしみこんでいった。
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この瞬間、二人は心が完全に通い合っていた。
お互いの悲しみが自分のものとして感じられた。
それは二人にとってとても特別な事だった。
こんなに悲しい思いを抱えているのは、自分一人だけだと思っていたのだ。
二人はお互いが本当の友達になれると思った。
二人ともが同時にそう思った。
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それは二人にとって、あまりに美しい、完璧で凍った瞬間だった。
輝男も鋭子もこの瞬間のことを、永遠に記憶にとどめることになる。
そのときの空気の匂い、教室の暑さ、涙の感触、凍り付いた音、空気中に漂う金色のほこり、二人がそれぞれ感じた思い、悲しみ、理解、心のつながる感触……
🐈
先に笑ったのは輝男だった。
袖で乱暴に涙をぬぐうと、不器用だったがにっこりと笑って見せた。
輝男は笑顔が得意ではなかったから、それはずいぶんとおかしな笑顔だった。
すると鋭子は指先で涙をぬぐい、あまりにも完璧な美しい笑顔を返した。
彼女の笑顔は見るものすべてをとりこにすることができた。
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その笑顔に輝男の心臓がぐらりと揺れた。
これが輝男のあまりにも衝撃的な初恋だった。
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それから二人はひとりぼっちではなくなった。
かといって一緒に学校から帰ったり、しゃべったり、手紙を交換したりといったことは何もなかった。
鋭子はほとんど学校に出てこなかったし、輝男は女の子と、しかも山川鋭子としゃべるような度胸はまるでなかったからだ。
それでも二人は授業中にたまに目が合うと、指先で挨拶するようになった。
そのときの二人にとってはそれだけで十分楽しいことだったのだ。
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しかしそれをおもしろく思っていない少年がいた。
その少年の名前は『大塚守男』と言った。
世間は狭い。後に輝男が収容されることになる刑務所の所長である。
もっとも輝男がそれに気づくのはずいぶんと後になるのだが……
🐈
その大塚はいつも鋭子のことをちらちらと見ていた。
もちろん惚れていたからである。
そして鋭子が輝男に向かって笑顔を浮かべるのを見て、小さい胸の中に嫉妬の炎が燃え上がった。
当時から彼は自信家で『かっこつけや』だった。
実際勉強もできたし、顔も悪くなかったし、スポーツも万能だった。
鋭子以外の女の子はみんな彼に夢中だった。
だが彼はどうしても鋭子を独占したかったのだ。
そして大塚守男は野心家にして行動家だった……
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