『🔬チャールズとスケイプ』後編

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『チャールズ』そして『スケイプ』さらに『最後に記された祈り』。それらがこのタイミングで一致するというのは、偶然というレベルを遥かに超えている。


 この事実はわたしに更なる確信を抱かせた。

 われわれの運命は確かにアトランティスへと繋がっている。

 わたしの足元から揺るぎなく一本の道が伸びているのだ。


 だからわたしは彼女にこう言った。

「一緒に行こう、アトランティス大陸へ」

「はい! 博士!」


 小夜子は涙を袖でごしごしとふき取ると、にっこりと答えた。


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 だが話はこれで終わりではなかった。


「そういえば、わたしをこの部屋に呼んだのには、ほかに理由があるんじゃないのかね? ずいぶんと思いつめていたようだったけど」

「あ、実はそうなんです。あの、博士、ちょっとそこで待っててもらってもいいですか?」

「ああ、もちろんかまわないよ」

「おいで、スケイプ!」

 小夜子はそう言って寝室へと入っていき、バタンとドアを閉めた。


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 わたしはなんだか居場所もなく、その場に黙って突っ立っていた。

 扉の向こうからは、なにやらごそごそと音が流れてくる。

 時おりスケイプが小さく吠えているのも聞こえる。

 待つこと五分。やがて扉のノブがそっと回り、小夜子が姿を現した。


「お待たせしました、織田博士。ちょっと着替えに時間がかかっちゃって」


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「……」

 口は開いたのだが、声が出なかった。


 

 真っ黒のトレーナーの上下に、新品の黒のスニーカー、頭にはつばの長い真っ黒のキャップをかぶり、目には大きなサングラス、口元はすっぽりマスクで隠している。

 さらに背中には黒のバックパック、左手に大きなスポーツバッグ、右手には散歩用のリード(これも黒い)、もちろんリードの先にはスケイプがつながれており、この格好は……夜逃げだろうか?


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「どうですか? 博士?」

 マスク越しの彼女の声はくぐもって聞こえた。

「あ、いや、とても似合っているよ」

「よかった! わたし、脱獄って始めてだからどんな格好していいか分からなくって……ずいぶん悩んだんですよ」

 と言っているものの、顔のほとんどが隠れていて表情は読み取れない。だが、彼女はたぶん真剣だ。

「うん、ばっちりじゃないかな……それだけ黒いと……きっと、目立たないんじゃないかな?」


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「やっぱり来てもらってよかったです。こんなことカフェテリアじゃ聞けないし……そう、荷物はやっぱり二個ぐらいが限度ですよね?」

「そうだろうね」

「スケイプはもちろん連れて行っていいんですよね?」

「もちろんさ。わたしも自分の猫を二匹とも連れて行くんだ」

「博士は猫を飼ってるんですか?」

「ああ、サイとコロっていうんだ」

「面白い名前ですね。サイコロだなんて」

「一人は細いからサイ、もう一人はコロコロしているからコロっていうんだ」


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 と、不意に小夜子がチラチラッと周囲をうかがい、足音を消してササっと、わたしのそばにやってきた。

 そのただならぬ雰囲気に、わたしにも緊張が走った。

(だれか来たのか?)

 小夜子は小さな体をさらにかがめた。

 小声で話すという意味だろう。サングラスにマスク姿、緊迫感が伝わってくる。

 そして小夜子はマスクの奥からさらに小さくささやいた。


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「ところで、脱獄はいつするんですか?」

 小夜子はすっかり脱獄者になりきっていた。たぶん服装がそうさせるのだろう。

「7月31日の予定だ」

 もちろんわたしもささやきで返す。

「もうすぐですね。今日が23日だから、あと9日」

「そうなんだ。でもまだ準備が出来てないんだよ。脱獄に必要な道具の発明はこれからだし、細かい計画はまだなにも決まっていない」

「日付だけが決まってるんですか?」

「まぁね。7月31日っていうこの日付が重要なんだ。一日早くても遅くてもいけない。たぶんこの日だけが脱獄を可能にするんだ。ずいぶん非科学的だけどね」


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「あ、分かりました! その日はなんですね、あの手帳の物語に何度も出てきた……」

「そのとおり。聖脱獄記念日とは、わたしが、仲間の科学者すべてをこの監獄から逃がす日のことだと思うんだ。それが自分の運命だと思っている」

「運命! 非科学的だけど、あたしはそれを信じます!」

 小夜子はにっこりと笑って答えた。

 もちろん全て囁き声でのやり取りである。


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「そうだ、博士!」

「なんだい?」

「わたしになにかお手伝いできることはありませんか? わたしもなにか手伝いたいんです」

「ありがとう。でも今はまだないよ。準備段階なんだ。今は脱獄用の道具を発明してるところでね」

「田中さんにはもう脱獄のことは話してあるんですか?」

「いや、まだ話してない。みんなには直前まで隠しておくつもりなんだ。情報がどこから漏れるか分らないし、大塚長官はおそろしく地獄耳だからね」


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 ちなみにこの部屋に監視・盗聴装置はない。

 最初はついていたそうだが、それを鋭子が聞いて激怒したのだ。

『女性の部屋にそんなものをつけるのは、絶対許さない。なにがなんでも外させる!』と。

 それは大塚長官にすぐに報告され、装置はすぐに撤去されたという。


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「なるほど。じゃあ、しばらくはあたしと博士だけで計画を進めていく計画なんですね?」

「そういうことだね」

「その脱獄に使う道具ですけど、田中さんと他に誰が研究しているんですか?」

「それがね、ここの全員でやる予定なんだよ」

「全員って? 収容所の全員ですか?」

 さすがのスケールに小夜子も驚いている。もちろんわたしもそうだった。だがはそれだけの頭脳がないと作れないということだ。


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「ああ、二百人ぐらいになるだろうね。実は今日カフェテリアにいたのは、田中君とその打ち合わせをしていたからなんだよ。その道具を作り出すには、全員で取りかからないと出来ないそうなんだ」

「じゃあ、これから全員にその研究をするように、交渉するってことなんですか? 本当の理由を話さずに?」

「ああ、だが正直、ここの連中は気難しいのばかりだからね。研究を頼んでもすんなり引き受けるとは限らないわけさ。でも全員の協力がどうしても必要なんだ。それで今頭を悩ませているわけだよ」


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「なるほどね。ということは……は・か・せ……」

 小夜子はサングラスを外し、その下にあったぶ厚い眼鏡も外した。

 眼鏡に隠された小夜子の目は、とても美しかった。

 よく、近眼の女性の目は美しいというが、小夜子の場合は典型的だった。焦点が合わないせいか、まっすぐにこちらの目の中を覗き込んでくる。それがなんとも妖艶な感じだった。

「……それならわたしにも手伝えそうですよ」

 小夜子は芝居っけたっぷりに微笑んで見せた。

 うふふ。という笑い方だ。

 普通だったらわざとらしい笑いだが、小夜子の場合は実にかわいらしく見えた。


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「博士、こう見えても、あたしは刑務所のマドンナなんですよ」

「まぁ、自分で言うセリフじゃないけどね」

「ふふっ。こうしましょう。まずは博士が研究を頼むんです。それで駄目なら、あたしに言ってください。あたしが一人一人呼び出して、研究を頼むんです!」

「それはその、色仕掛けってやつかね?」

「そうです。ほら、よくあるでしょう。狂気の天才科学者の隣にいる、黒バラの美人助手ですよ!」


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 黒バラ? いったいどんな本を読んだか知らないが、とにかくいいアイデアだった。マドンナじきじきの頼みとなれば、それも一人一人にお願いするということになったら、まず断る研究者はいないだろう。


 とにかくここの連中は女性という存在に決定的に弱いのだ!

 まぁわたしも人のことは言えないが……


「では改めてよろしく。美人助手さん!」

 わたしは右手を差し出した。

「こちらこそ、織田博士!」

 彼女はわたしの右手を力強く握り返した。


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 第五章はこの辺りでやめておこう。

 まぁ一段落ついたわけだ。

 これでわたしには田中一と小夜子という強力なパートナーができた。

 あとは実行あるのみ、という訳だ。


 だが物事ものごとはいつだって実行するのが一番大変なのだ。

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