私は怒っているんです
糸藤いち
私は怒っているんです
薄暗い居酒屋のカウンターに二人並んで食事を摂る。仲の良い男女ならば、いつもより近い距離での食事に気分が上がるものだろう。だが三宅
「おっ、この日本酒美味しいよ。味見どうぞ」
「いただきます」
この日は今月の売上目標を達成する目処が立ったという理由での飲みだったので、小原は陽気だった。
「美味しいですけど、少し甘過ぎじゃないですか?」
「そうかな。俺はこのくらいが好き」
とは言っても、小原はほぼ毎日理由をつけて夏来を飲みに誘うし、大抵の場合は陽気だった。二人は食事をあらかた終えて以降、かれこれ二時間近く、ゆっくりしたペースで飲み続けていた。夏来は赤ワイン、小原は日本酒と共にチーズやナッツをつまみながら話し込んでいた。
「センパイ、甘い甘いって飲んでると痛い目見ますよ」
「大丈夫だよ。これでもなっちゃんより長く生きているんだから、適量は心得ていますよ」
「そう言って先週つぶれてませんでした?」
「俺、おっさんだから先週の記憶ないや」
笑いながら会話しつつも、小原は携帯を終始気にしている。そしてメールが届くとすぐさま確認し、返信をする。これを夏来と話しながらする。夏来はどうにもそれが気にくわないのだ。大抵は向かい合っての食事なので、気になっても見ない振りができたが、並んでいると目について仕方がない。
「そうやって携帯弄りながらだから、記憶をなくしやすいんじゃないですか?」
「それって嫉妬?」
「断じて違います」
夏来はカウンターの下で拳を握りしめて、殴りたい衝動をこらえた。
「センパイはメールの返信が早いですけど、消すのも早いですよね」
わざと嫌味ったらしく言ってやる。その発言に小原はメールを返信する手を止め、意地悪な顔をして夏来の方を向いた。そしてくわえ煙草のまま言う。
「なっちゃんってば俺の事を観察しすぎ」
「だってカウンターだと見えちゃうんです」
それにここは近すぎだし、と心の中で付け加えた。この店はカウンターがカップル席になっていて、椅子が二つずつ近付けて置いてある。通常のカウンターに座っている時よりも小原との距離が近いので、彼の手元がいつもよりもよく見えた。小原も夏来との距離がいつもより近いからと言って、画面を隠そうとはしていない。
「まぁ、なっちゃんなら俺のすべてを見られてもいいんだけどね」
「それなら免許証の写真見せてください」
「それは無理だな」
「嘘つきですね」
軽口を交わしながら、小原は吸いかけの煙草を灰皿に置いた。そして酒を飲みつつ、書き途中だったメールの続きを打ち、送信する。そして送信したメールを消す。
「今日はどなたとやり取りされているんですか?」
「先週知り合った子。あと、たまに彼女」
「新しいセフレ候補ですか?」
「うーん。この子は一回でいいかな」
「センパイ、ストレート過ぎです」
「だってなっちゃんだし、いいかなって」
「一回でいいって思うならメールするのやめたらいいじゃないですか」
「それはまた別。どんな感じか気になるじゃん?」
「何がですか?」
「わかってるくせに聞くなよ」
そう言っている間にもまたメールが届いた。小原はすぐに読み、消し、返事を書き始めた。夏来は、灰皿に置かれたまま短くなっていく煙草にそっと目を移した。
小原は社内で名の知られた人物だった。なぜなら、彼の営業成績がいいからだ。しかしそれだけではない。他の四〇歳と比べて若々しい外見に加えて、面倒見がいい性格のため、特に女子社員からは「営業課のイケメン」として人気が高いからだ。本人は社内でモテている事を知らない振りをして、女子社員からのアピールには、もっと若くて格好いい男がいるよ等と言っているが、本心は違う事を夏来は非常に良く知っている。小原はとにかく女好きで、モテたい一心で、体型や肌、髪にも気を遣っている。常に女子が好きそうな話題を仕入れ、研究をしている。でも決してそれを表には見せない。だが小原の本性を知っている夏来からすると、それらは男子高校生と行動が一緒に見えてしまう。今こうして夏来と飲みながらメールを返しているのも、マメな男の方が受けがいい事を知っているからなのだ。
「でも、どうしてすぐに消すんですか?」
「だって俺、一応オクサンいるんですよ」
「知っていますよ。会話どころか顔も合わせないのに同じ家に住んでいる奥さまですよね」
「そうそう」
「顔も合わせないなら携帯のメールをそんなに警戒しなくてもいいじゃないですか」
「甘い! 甘いよなっちゃん」
そう言って小原は新しく火をつけた煙草の煙を吹きかけた。煙たがる夏来に満足げな顔をしてから続ける。
「そうやって油断しているとバレるんだよ。俺、家では携帯弄らないようにしているんだよね。いつもリビングに置きっ放しなの。もちろんロックもかけていない」
「どうしてですか?」
「その方が、誰からも連絡の来ないつまらない男に見えるでしょ」
「はあ。でもそこまで警戒する必要あります?」
「だって、俺有責で離婚したくない」
結婚どころか彼氏のいない夏来はどうにもピンとこない様子で、重ねて質問する。
「でもセンパイは離婚して彼女さんと再婚したいんですよね?」
「そうだよ。だからこそ、彼女どころか女の存在を匂わせたら駄目なの」
「慰謝料を請求されるからですか?」
「そう。彼女と新生活に貯金なしじゃ格好つかないからさ。それに子どもにも悪いじゃん。他の女が好きだから父親やめますって、心の傷だよね」
「なら遊ぶのをやめたらいいんですよ」
「それは無理。なっちゃんもよく知ってるでしょ」
「まあそれなりに。センパイは風俗行かないんですか?」
「なんで?」
「コソコソ隠れてメールするのは面倒だなと思いまして。彼女さんだけ残して、遊ぶのは専門店を利用したらいいんじゃないですか?」
「専門店、ね。俺さ、女好きだけど風俗って苦手なんだよ。本気で遊べないの。だから今の遊び方は変えられないな」
小原は開き直ったように断言し、大きく煙を吐いた。それを見た夏来は、皿に残った干からびかけのチーズを爪楊枝でつつき始める。こういった話を小原とするのは、もう何回目だろう。なんでこんな人とお酒を飲んでいるんだろうとか、なんで真面目に相談乗っているだろうとか思わないわけではない。あまりにも小原が正直に接してくるので、つい助けたくなってしまうのだ。
夏来はつついたチーズを口に運び、ワインを飲んだ。横目で小原の携帯を見る。小原は本当にメールを見られる事をなんとも思っておらず、彼女が見ているのを知りながらも操作を続けた。
今週末、例のイタリアンの予約とれたよ。十九時でいいよね。消去。みきちゃんは他人の評価を気にしすぎ。もっと自然体でいいんだよ。消去。おっ、久し振り。俺も元気だったよ。元気が有り余ってるから、来週の木曜どうかな? 消去。
よく予約とれたね。この前テレビで紹介されたから大変だったでしょ。ありがと。デート楽しみ。消去。自然体かー。そうだよね。やってみる。小原さんに相談して良かった。ナンパされた時は正直アレだったけど、いい人だね。好きになっちゃいそう。消去。亮さん話早くて助かる。ここのところ忙しくて溜まってるから覚悟しておいて。消去。
俺もすごい楽しみ。早く会いたい。消去。そうそう。その調子。んで、俺の前ではもっと自然な姿を見せてくれたら、もっといいみきちゃんになれると思うな。消去。マジで。それなら俺マグロでもよさそうだね。好きに使っていいよ。消去。
「なんか私、わかっちゃいました」
「何が?」
メール返信の様子を見ていた夏来が突如叫ぶように言った。そして小原の日本酒を奪い、一気に飲み干す。
「なんでセンパイがメール消すのを嫌いか、わかっちゃったんです」
「うん。教えて」
「考えてみたんですけど、私センパイが食事中に女性とメールしているのは、ちょっとは嫌ですけど、でもそんなに気にしてません。それよりもセンパイが甘い事言って相手をいい気分にさせているのに、それを即消すから嫌いなんです」
「なっちゃん、ちょっと酔ってるね」
「酔ってません」
普段あまり喋らない夏来が熱く語り出す時は、危険信号だった。いつの間にか彼女は飲み過ぎていたらしい。小原は困った様子で落ち着かせようとした。
「いいや。珍しく酔ってるよ。もう帰ろうか?」
「酔ってませんし、帰りません。私は怒っているんです」
が、その言葉を聞くと小原は楽しげな表情に変わり、携帯をカウンターに置いた。そして煙草を灰皿に押しつける。よしよしと夏来の背中を撫でつつ、彼女に飲まれてしまった日本酒と、彼女のために水を注文する。それから続きを促した。
「セフレさん以外は、センパイが何股もしてるって知らずに、真剣にセンパイとメールしてるんですよ。でもセンパイからしたら、どれも等しく奥さまに見つかると厄介なメールですよね。だから見たその場で消すんです。相手がどんなに心の中をさらけ出して相談しても、恋に溺れて熱い気持ちを伝えても、センパイにとっては恋愛ごっこを楽しむ課程の一つってだけなんですよね。だからすぐにメールを消せちゃうんですよ」
夏来はほんの少し呂律の回らない口調で語った。小原はそれに反論するでもなく、楽しげに見つめている。
「なっちゃんは本当に純粋だね」
そう言いながら、背中を撫でていた手を頭に持ってきた。頭を撫でようとした手を、夏来は振り払って睨む。しかしその反応をも小原は楽しみ、新しい煙草に火をつけた。
「俺にはないものを持ってて羨ましいよ」
「からかわないでください」
「からかってないよ」
「絶対に嘘です」
「本当なのにな。ああ、そうだ」
少し考えてから小原は携帯を操作し、画面を夏来に向けた。
「いいもの見せてあげる」
「なんです? セフレさん達のメールはもういいです」
「違うよ。よく見て」
言われて画面を見つめる。画面にはメーラーが表示されていた。いくつかのフォルダに分けられていて、その一つにサンタクとあるのを見つけると、夏来の目がきらめいた。
「私のは取っておいてあるんですか?」
「そうだよ。だって俺の大事な後輩だもん」
サンタクというのは夏来の苗字・三宅を音読みしたあだ名だった。小原が他の営業と距離を置いている夏来を心配し、つけたあだ名だった。
「でもそれ、中身あるんですか? 今、誤魔化すために作ったんじゃないですよね?」
「見ていいよ」
疑うのに気分を悪くするでもなく、小原は携帯を渡した。夏来はフォルダを開けてみる。そこには確かに彼女が今日の昼休みに送った「席、確保しました。窓側です」というメールが残っていた。夏来は小原をチラ見してから返信メールも見る。そちらには「了解。限定の豚カルビ丼、二つ買えたよ」という内容が残っていた。もちろん今日のメールだけではない。過去のやり取りもきちんと保存されていた。それらを確認してから小原を見れば、彼は少し偉そうな表情をしていた。
「本当だったでしょ?」
「はい」
夏来の表情は見る間に明るくなった。社員食堂でのなんてことないメールが残っている。しかも専用フォルダまで設定されている。
「随分嬉しそうにしているね」
「別に。ちっとも嬉しくなんかありません」
わざと頬を膨らませた彼女はフォルダ名を「なっちゃん」に変更してから携帯を返した。
「あっ、勝手に変えたな」
「そのあだ名、嫌なんです」
「覚えやすくていいと思うんだけどな」
「まんますぎて嫌なんですよ、オニハラセンパイ」
「なっちゃんこそ変なあだ名つけるなよ」
そう言っても知らんぷりするだけだった。実際、サンタクよりもオニハラセンパイの方が課内で浸透しつつあり、それがなんとなく負けた気がして悔しかった。
「ねぇセンパイ。嘘の心で甘い言葉を言うのって疲れませんか?」
夏来は真剣な声で質問した。
「メールの話?」
「はい」
その質問に小原は真面目に回答しようと、煙草を吸いながら考えて、煙を吐きながら答える。
「俺、別に嘘ついてるつもりはないんだよね。メールは本心しか書いてない」
「違う女の人それぞれに聞き心地のいい事を言っているのに?」
小原は頷き、灰を落とす。
「俺の中では、どの子も同じくらい大事なんだよね」
「意外です。私はてっきり女子とヤるのに手っ取り早い方法だから、甘い言葉を言っているんだと思ってました」
夏来の直接的な言い方に驚きながら小原は言った。
「そんなのひどい男のする事だよ。それに俺は恋愛した子じゃないとヤりたくならないんだよね」
「恋愛してるのに一回したらサヨナラするんですか?」
「うん。そういう事も、まぁ、よくあるよね」
「うわ、それ究極に最低です」
「そんなことないって」
否定する小原に、夏来は畳みかけるように説教をし始めた。
「いいですか、センパイ。そもそもですね、四十にもなってそんな生活でどうするんです? いい加減落ち着きましょうよ。奥さまの存在が空気でも、家庭のある身なんですよ」
「はいはい。俺が悪いよね。夏来さん、今日は随分飲みましたね」
「センパイが私を怒らせるから、ついお酒が進んでしまったんですからね。悪いのはメールをしていたセンパイなんですから、もっと謝ってください」
夏来は小原を軽く叩きながら言った。二人の夜は、まだ終わりそうにない。
私は怒っているんです 糸藤いち @tokunaga_riku
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