バリツ・イン・ワンダーランド
@berie
第1話 紳士・イン・ワンダーランド
ごきげんよう親愛なる読者の諸君、そう、僕である。英国の紳士にして稀代の探検家エリオット・アゲインだ。
あなたたちはいったいどこでこの話を読んでいるだろうか? 自宅の書斎? 暖炉の前? それとも寒空の下だったり独房の隅だったりするのだろうか。
どれにせよ、あなたたちは世にも奇妙な話を耳にするだろう。
僕がこのたび遭遇したのは、これまでの冒険譚の中でもとびきりの奇譚だ。
さて、それではどこから話し始めたらいいものか。
始まりはほんの数十分前のことだ。
僕は別件である悪漢を追いかけていた。
そいつは紳士にあるまじき男で、あるレディから宝石を奪って逃げている最中だった。そうなると当然この僕、紳士の中の紳士であるエリオットがそんなやつを見逃すはずがない。僕はそいつを探し出し、ロンドンの北の外れ、そのまた端にある滝に追い込むことに成功したのだ。
悪漢は今まで逃げ回っていたのが嘘のように、堂々としたしぐさで僕に向かってきた。といっても追い詰めたのは僕自身だったので逃げ道はこちらにしかなかったのだが。
さて、諸君は事の顛末を推測できるだろうか?
今まで僕の冒険譚を読んでくださっているなら、簡単だ。
つまり、バリツである。
このエリオット・アゲインは巧みなバリツで紳士らしく、悪漢を見事倒してみせた……こうだ。これ以外の回答はあり得ない。
だが……この日は少し星のめぐりが悪かったんだ。うん。
ちょっとした隙を突かれ、しまった。というより早く、僕は悪漢と共に滝底にまっしぐら。
なかなかの高度だったが、そんなことで死ぬような鍛え方はしていない。僕はすぐさま陸に上がった。
すると、だ。
自分でも信じられないのだが……そこは見渡す限りの木々が広がっていた。穏やかな風、温かい木漏れ日、耳に心地よい鳥のさえずり。
どこをどう切り取っても、我が故郷、麗しきロンドンではない。
そもそも僕が落ちたはずの滝はどこだ?
どれだけ辺りを見渡しても見えるのは森、森、森。
人の気配もない。
一緒に落ちたはずの悪漢の気配もない。
ただ木々を揺らすザアザアという風の音だけ。
白昼夢だろうか。
僕はパニックに陥った。
わが身に起こった事態に、そしてそれに比べてあまりの静かさに、そっと言葉にならない声を上げた。
返事はない。
こうも無反応ならば仕方がない。僕は紳士的に思考を切り替えて辺りを調べてみることにした。
するとどうだろう。滝底にあった不思議な森には、これまた不思議な植物や動物が育っていたのだ。
ねじれた紫色の花。針金のような毛を持つ子ウサギ。玉虫色に輝く木の実。
異世界――という言葉が脳裏に浮かんだ。
その言葉は探検家としてのエリオットをたちまち目覚めさせ、僕はこうして手記を取ったのだが……ああ、読者諸君に直接見せられないのが残念で仕方ない。しかし、このエリオット、誓って嘘は書かない。以上のことはすべて真実である。
見知らぬ境地に不安もあるが、それ以上に心が躍る。僕はそのまま探検を続けることにした。
読者諸君はこう思うだろうか?
エリオットは不思議な探検を終えて、どこかゆっくりできるところでこの文章を書いているのだろう、と。
残念ながら違う。
僕の探検はまだ途中、この記録も今まさに書いている最中なのだ。
その後起こったことを綴ろう。これはちょっとばかり困ったイベントである。
「見つけたぞ! こっちだ」
まず初めに声がした。まぎれもない人の声だ。
まだ若く、そして張り詰めた感じのある少年の声。
明らかにこの僕に向けられている。
僕は振り返り、森の奥にいる少年を見た。正確に言えば少年たちだ。
学生だろうか、ロンドンのどこでも見たことのないような奇怪な制服を着た少年少女たちがおよそ十名ほど一塊になっている。
僕は紳士らしく優雅に挨拶をするため、ゆっくりと頭を下げようとし……
しかし、その瞬間頬を何やら鋭利なもので切り付けられた。
「うん?」
「スナークだ! スナークを見つけた。先生を呼んできてくれ! セリア先生を!」
一人の少年が叫ぶ。
「見たことのない格好だ」
「あいつがスナークっていう証拠だ。みんな離れるなよ。互いをフォローできる位置を保て」
「逃がすな。囲め!」
次々に声が上がる。
彼らの眼を見てすぐに思い当たった。
さては僕、悪しき侵入者だと思われているな?
これまで幾度となく冒険を繰り返してきた僕である。
先住民に警戒され、危害を加えられる経験はそれなりにあるつもりだ。
だが、こんな攻撃は初めてだ。
彼らとの間にはまだ距離がある。
見えない刃のようなものが飛んできた?
わからない。少なくともロンドン的ではない。
「避けやがった!」
「素早いぞ!」
そして僕は見た。
読者諸君は信じるだろうか。
少年少女が腕を前にかざし、なにやらつぶやいた瞬間に僕の身に何が起こったのか。
彼らは呪文を唱えると、どこからともなく炎が巻き起こり、見えない刃が躍り、土が盛り上がり……そのすべてが敵意を持って僕に襲い掛かってきたのだ。
あなたたちはこう思うだろう。
おいおい、それはまるで魔法じゃないのか? と。
その通りである。やはり僕は確信しなおすほかない。ここはロンドンではない。
魔法使いの住む異世界に迷い込んでしまったのだ。
男子生徒の放った炎の波がスーツの裾を焦がし、女子生徒の放った濁流が靴を泥で汚した。
その一つ一つを丁寧に避けていきながら、僕は後退していく。
「なんだこいつ。こっちを見てないぞ」
「書いている。何か書いているんだ。魔法かもしれない。やめさせろ!」
「でも、さっきからちょこまかと……」
冒頭の話はここにつながる。
今まさに僕は魔法使いの子供たちと出会い、その記録を取っているのだ。この奇妙な出会いを新鮮なうちに記しておくことにする。
「……これでよし。諸君! 僕の言葉が分かるかね?」
一通りのことを書き終わり、ペンをしまった僕は叫ぶように言う。
子供たちはビクリと反応した。
「何か言ってるわ」
「か、構うことはないだろ。相手はスナークだ」
これまで何度となく出てきているそのスナークというのが誤解の元らしい。
「僕の名はスナークなどではない。ロンドンの紳士にして勇敢なる探検家エリオット・アゲインである!」
「スナークじゃない……って、じゃ、じゃああんた誰だよ。学園のものじゃないだろ」
中心にいた少年が応じる。どうやら言葉は通じるらしい。これは収穫だ。言葉が通じれば誤解は解ける。
「この森には人は住んでいないんだ。いるのはスナークと、俺たち討伐組だけ。俺たちが全員そろっている以上、お前はスナークに決まっている」
「話が見えないな。君たちには君たちの事情があるのだろうが……僕はここに来たばかりでここの文化はよくわからない。まず、ここはどこだ?」
少年がぎょっとして周囲の子供たちと目配せをした。
「ロンドンではないようだが」
「ロンドン?」
「聞いたことない名前ね」
「こいつもしかしてスナークじゃない?」
「馬鹿言いなさいよ。それがスナークの手かもしれないのよ。やつの変化の巧みさは知ってるでしょ」
「油断させようとしてるってこと?」
「でも、あいつさっきから避けてるだけで、魔法を使ってこないぞ」
周囲にざわめきが広がっていく。
生れ出た疑念を扱いかねている。組を統率するリーダーがいるわけでもないようだ。
となれば彼らは本物の兵士ではないのだろう。
そう、集団でちょっとしたピクニックにでも来ていたところに出会ってしまったわけだ。
彼らからしてみれば僕は不審者であることは間違いない。
魔法で攻撃してきたのは恐ろしい話だが……まあ、大きな傷は負わなかったのでよしとしよう。
僕は息を吸うと、大きく腕を広げて見せた。
「先住民の子よ。警戒するもの当然のこと。しかし、見てほしい。こんな立派な紳士が狼藉を働くだろうか? どうか僕の話を聞いてくれ。というか聞かせてくれ、だな。僕は自分の身に何が起きたのかすらよくわかっていないのだ」
そしてできるだけ受け入れてもらえるよう、ニッコリと笑って見せる。
「し、しんし? しんしっていったい……」
その時だ。集団の後ろのほうで女子の悲鳴が上がった。
集団がにわかにざわめく。解除されかけていた敵意が戻ってくる。
子供たちのうち、一人の姿が霞がかったようになる。
霞の奥でそのシルエットがぐにゃりと曲がり、やがて奇怪なシルエットへと変化した。
体全体がどろどろに溶けた粘着質な物質でできているように見えた。
そこに頭部も四肢もなく、ぐにゃぐにゃにねじ曲がった触手だけが飛び出ている。
その姿格好はまさに怪物。通常の何十倍もの大きさを持つアメーバに見える。
ロンドン中の記者たちがこぞって食いつきそうな形だ。
「これはまた珍妙な。ロンドン的ではないな。これも魔法か?」
「スナーク!? どうして?」
悲鳴を上げた女子が尻もちをついた。手を掲げ呪文をつぶやくが狙いがそれて、怪物には当たらない。
それをかばうようにして他の女子が間に入る。だが、彼女も何ができるというわけではない。
「なるほど」
つまりは子供たちが追い立てていた怪物こそ、いまそこにいるスナークとやら。
スナークには見た目を変化させる魔法があり、子供たちの中に紛れ込んでいた。そうとも知らずに彼らは僕をスナークだと勘違いして攻撃してきた。スナークはそれ幸いにとこの混乱を利用して僕に罪を擦り付けようとしたが、誤解が解けそうになったので仕方なく正体を現した。
情報が足りないが推測する。そう遠くないはずだ。
スナークが甲高い鳴き声を上げて、目の前の女子生徒を貫かんと触手を振りかぶった。
「お兄さん! みんな逃げてください!」
女子が震える声でいう。
「ここは私が何とかしますから!」
「君にも事情があるのだろうが……」
僕はその光景を前に一瞬だけ考え、すぐさま行動に移る。
タイミングは一息の間。
女子とスナークの間に滑り込み、迫りゆく触手をつかみ取る。
「女の子を怖がらせるのは紳士的ではないな。追い立てられてきた君にも言い分はあるだろうが、弱者を守るのは紳士としての務めだからな。僕はこちらの味方をさせてもらう」
言葉が通じたのだろうか。スナークは口もないのに不快な鳴き声を放つ。
スナークには目はない。だが、目と目があったような気がした。
僕が立ちふさがった瞬間、やつの中で僕の印象が『周囲にいた有象無象の一人』から『明確な敵』に移り変わったのを感じた。
だが、ここで怖気づくわけにはいかない。僕が退いてしまえば、次のターゲットは後ろにいる少女だ。
「さて、君の触手は僕の手のうちにある。どうする。二本目三本目を生み出してみるかね。それともほかに武器があるなら見せてみたまえ。魔法の化け物が相手だろうと、僕は逃げはしない」
スナークはさらに敵意を増して唸り声をあげた。
空気が一層引き締まる。肌を刺すようなビリビリとした感覚。
――来るか。
「コココココォォォ!」
しかし意外にもやつは向かってこなかった。つかまれた触手を自分で切断、その姿を液体状に変化させるとその場を一目散に立ち去ったのだ。
迷いのない、あっという間の逃走劇だった。
後には構えを取ったままの僕と、魔法使いの少年少女たちだけが残された。
「まあ、大変。みんな揃ってるわね? 怪我はない? 意地を張らずに教えてね。すぐ治してあげるから」
スナークが去ってからすぐ、一人の女性と生徒が森の奥からやってきた。
その女性の姿を見るなり、子供たちが安堵して駆け寄っていく。
生徒たちとは違った衣服に身を包んだ大人の女性。栗色の髪の毛を肩まで伸ばし、薄めの化粧をしている。曲線的な体系は大変美しい形を保っている。美しくも母性的な女性だった。
ロンドンでもそうお目にはかかれない美女だ。こんな森の奥ではなくどこか舞台に立っているほうがよほど似合っている。
「ああ……彼女が」
生徒の一人が言っていた『先生』とはこの人のことか。
「あら、あなたは……スナーク……ではないようですね」
「初めましてレディ。僕の名はエリオット・アゲイン。イギリスの紳士です」
「セリアと申します。この子たちの先生です」
彼女はのんびりと礼をすると。
「ところでイギリス・・・? 聞いたことのない名前ですね」
と困ったように笑っていった。
「イギリスを聞いたことがない?」
不覚にも僕は美女の前で顔をしかめてしまった。
「我らが故郷、女王陛下がお膝元を知らないと? ふぅ……これはとんだ未開の地にきてしまったようだ」
そう小声でつぶやく。
「とにかく私の生徒たちを助けていただいたみたいで、お礼を言います。ありがとうございました」
「残念ながらスナークとやらには逃げられてしまいましたが」
「構いません。あれはもともと臆病な性格の魔獣。今回も遭遇するとは思っていませんでしたから。きっと、私が生徒たちと別行動をとっていたのを好機だと思ったのでしょうね」
彼女は後ろに集まって休憩をとっている生徒たちをちらりと見る。
「とにかくみなさん、町に戻りましょう。さあ、エリオットさんも一緒に」
「ありがたい。実は道に迷っていたのです」
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