煙草
ハルスカ
煙草
彼が来ると、私の部屋の温度が1度下がる。
「1本だけ、いい?」
初めてあの人が私の家に来た時、角が潰れたタバコの箱をカタカタと振って見せた。先日から台所の換気扇の調子が悪かったけど、外で吸ってもらうにはまだ少し寒い3月。
「大丈夫、すぐだから。」と、薄着のままベランダの手すりに寄りかかっていた。なんだか手持ち無沙汰になってしまった私は、何をするでもなく彼の隣で下の階の植木鉢を眺めたりした。
付き合いましょう。なんて言葉は言わなかったし、言われなかった。言われたくもなかったし。タバコの煙が風に乗って、ときどき私の顔にまとわりついた。むせて咳こむ私を見て、彼が笑う。それだけでいいと思った。今この人の目尻のシワを私が一番近くで見てるんだなと思えればよかった。
ベランダの下の植木鉢には、むらさき色の朝顔が咲いた。毎日毎日、つぼみを膨らませて光を集める。でも、一度だってあの人は朝顔が咲いたところを見なかったんじゃないかな。
そんなんだったから、彼と突然連絡が取れなくなっても驚きはしなかった。2週間くらい音沙汰なしでも、なんてことなかったような顔でひょっこり戻って来ることもあったから。こんな関係が2年ほど続いた。
いつからか私はタバコを吸う彼の隣に行かなくなった。部屋に残って彼の後ろ姿を見つめた。あの人の背中を見ているうちに、目がしみるのは煙のせいじゃないことがわかったけど、もう近くで彼の目尻を見つめたりはしない。
雪がちらつく夜、窓は閉めない。ストーブの設定温度を2度上げた。室内温度の表示は1度下がった。
あんな男のどこが好きだったのなんて聞かれるけど、みんなわかってないなあ。私は別にあの人のことを好きじゃなかった。
ただ、窓を開けてふわりと揺れるカーテンが好きだった。ぷかぷか吸ったタバコの煙が彼の口からゆらゆら流れて行くのを見るのが好きだった。少しのタバコの匂いと一緒に冷たい風が部屋の空気をすっきり入れ替えるのが好きだった。それだけだったの。
あの人が最後にこの部屋に来てからずいぶん経った。どんなふうに笑って、何が口癖だったかも覚えていない。だけどひとつだけ、彼がお気に入りだったタバコの銘柄を見かけると私の周りの温度がすーっと下がって、反対に私の体温は上がっていく気がする。
煙草 ハルスカ @afm41x
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