薄味
始まりは高校三年の文化祭だった。
彼とは三年生になって初めて同じクラスになった。長いこと共にしたものだから、すっかり慣れてしまった言葉で表現できない妙な匂いで汚染された教室と別れ、やってきた新しいクラス。教室に入った瞬間、異様に綺麗な黒板が生徒たちを迎える。親友と同じクラスになれて常人とは思えない金切り声をお互いに浴びせ合う女子達。逆に仲の良い人が同じクラスに居なくて、露骨に落胆する男子。様々な声が新しいクラスの中で飛び交っていた。
幸いなことに私は何人かの仲の良い子と同じクラスになれた。私たちは早速集まるや否や、輪を作り、安堵の気持ちを分かち合った。とりあえずクラスで浮くことはない。前日までの吐き気すら伴う緊張は一瞬にして晴れた。
彼とは出席番号が近いこともあって、私のクラス最初の席は彼の真後ろだった。が、彼とコミュニケーションをとることはまず無かった。
彼は異性に対して特にシャイだった。遠目で見る限りだったが、友達はそこそこいたようだったし、普通に笑ったりもした。ただ、女子と話してる所は見たことが無かった。私も男子に話しかけるのが得意な方ではなかったので、碌な会話をすることも無く、あっという間に席替えの時期を迎えた。そして、私と彼の席はすっかり離れてしまった。
月日が流れるのはあっという間で、私と彼はお互いを特に意識することもなく五カ月が経った。周りは受験勉強に励み、クラスは徐々にピリピリとした雰囲気に包まれていった。当然私も、その雰囲気に呑まれていった。部活を引退した私は既に勉強を始めていた人に追いつくべく、部活をやりきったという達成感を噛みしめる暇もなく、勉強することを強要された。
九月。夏休みが終わり二学期が始まる。部活が終わったのに、やりたいことも出来ない。下手に遊んだら周りと差をつけられるかもしれない。不安と焦りが入り交じり、イライラを隠せない私に追い打ちをかけるように、それはやってきた。文化祭だ。
それは体育祭とは訳が違った。体育祭は五月に行われた。意外なもので高三になったからといって、じゃあすぐに受験の事を考え始めるのかと問われれば答えはノーだ。あくまで私が通っていた学校の場合だが、部活をやってた者のほとんどは引退しておらず、進学校でもなかった私達の学校は一部の優秀な生徒を除いて五月の時点で受験を特別意識する者は少なかった。だから皆、素直に体育祭に臨めたし、終わった後の打ち上げも楽しかった。
しかし文化祭は違う。九月。ほとんどの生徒は部活も引退し、本格的に受験勉強に取り組み始める。準備にかける時間があったら勉強したい。生徒が胸に秘める想いは大体これだった。当然文化祭の実行委員を積極的にやりたがる人間はいない。一部を除いて。
金切り声を上げる技術に長けた女とワックスをしこたま髪に揉み込み顔のでかさを誇張する技術に長けた男だ。最も彼等は推薦入試で大学への進学が既に決まっていたらしく、まだ進路が何も決まってなかった私達にとっては救い以外の何物でもなかったのだが。
実行委員にならずに済んだものの、結局準備は全員参加しなければならない。準備期間はたった数日とはいえ、受験に追われる身としてはその数日ですら惜しかった。
私達のクラスは喫茶店をやることになった。確か一年生の時も同じだった。やるものないなら無理してやらなきゃいいのに、という本音を押し殺して馬鹿でかいメニュー表の文字を塗る。クラスの一部は部活の出し物があるからと言っていなくなっていた。いっそ私も一つ嘘をついて抜け出してやろうかと考えたが、隣で黙々と作業に取り組む友達を見ると、とても出来なかった。
準備が楽しくないというわけではなかったのだが、どうしても受験の事が頭をちらつく以上いまいち乗り気になれなかった。
「ちょっと事務室まで行ってカラーペン取ってきてくれない?」
自分の作業部分が終わり、一息ついてたところで実行委員様に頼まれた。私は二つ返事で応じるとダラダラと事務室の方へ向かった。道中二年生がいる廊下を通った。とにかく皆楽しそうだった。はしゃぎすぎて周りが見えなくなっていた男子にぶつかりそうになりながら彼らを羨ましく思った。
事務室の扉の前に着き、ドアノブに手をかけようとした時、勢いよくドアが開いた。そこから出てきたのは大きい段ボール箱を抱えた彼だった。
「わっ!ごめんなさい!」
思わず謝った。彼は軽く会釈すると、何も言わず頼りなさげな足取りで立ち去っていった。不安に思った私はしばらく彼の背中を見つめていた。案の定というべきか、彼はバランスを崩し段ボール箱を落とした。あの大きさの段ボール箱を一人で運ぶのは無理があった。見ちゃいられん、と私は彼の元へ駆け寄ると「手伝うよ」と一言添えると段ボール箱に手をかけた。
「いや…いいよ…」
か細い声で彼は言ったが、聞こえてないふりをして「せーの」と合図した。私の合図を聞くと彼は慌てて箱に手をかけた。
彼に対する私の第一印象は「頼りない」だった。
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