小鳥は王子の手の中に ~Twilight Alley ~
侘助ヒマリ
魔界の王子には、かつてマーレという可愛らしい婚約者がいました。鳥族の姫と魔界の王子。幼い二人は無邪気に心を通わせていました。
お洒落なカフェや雑貨店が立ち並び、人も車も賑やかに行き交うメインストリートの裏の裏。
黒い野良猫が横切るその狭い小路の奥に、
街灯のない暗がりで、レトロなウォールランプにぼうっと照らされる看板には “ T o T ”の文字。どうやらこれがこのレストランの店名らしい。
そう。ここは路地裏にひっそりと構える隠れ家レストラン。
ギイと軋む無垢のオークの扉を開けてくれるのは、見目麗しき
一歩足を踏み入れれば、貴女もきっと
雰囲気に酔い、美食に酔い、美しき従業員との語らいに酔う、
恋する人外レストラン “Trick or Treat ” へようこそ――!
*****
「玉子頼んだやつ誰だぁぁぁ!!俺にいくつ割らせる気だぁぁぁ!!!」
今日もすでに何度目かの怒号が、店内に置かれたアンティークの家具をピシピシと軋ませる。
オープンキッチンからその怒号がとんでくると、
その色めき立った反応が厨房に伝わってくると、王子は盛大にため息を吐いた。
彼の名はタ・ムーア・ゴルディ・ハクナ・ランジェット17世。
この厨房の奥にそびえる巨大冷蔵庫の扉とつながる魔界に君臨する魔王の嫡子である。
見る者の心を奪うほどの美貌と、魔王の血を引く絶大な魔力をもつ彼の武器はこの怒号。
怒声と共に放出される強大な魔力は、ドラゴンの炎すら霧散し、どんなに強い魔力を持った相手と対峙してもその力を封じ込めるほどである。
もっとも、このレストランの内装には彼の魔力を吸収する特別な素材が使われているため、怒号は専ら女性客を喜ばせるパフォーマンスと化している。
彼にとっては大変不本意なことであるのだが。
そんな彼が、なぜ下界のレストランでシェフなどをやっているのか。
そこには涙なくしては語ることのできない深い理由があるのだった。
「まったく…! なんだってうちの店はこんなに玉子料理ばっかり注文がくるんだ」
王子はぼやきつつ、山と積まれた段ボールの一番手前の箱に手をつっこみ、ボウルに5個の卵をうつす。
オープンキッチンのカウンターから身を乗り出して店内を見渡すと、バーカウンターに座る女性と楽し気に語らう一人の従業員に向かって再び怒号を放った。
「おい! キュウ! そんなとこで油売ってねーで玉子割れっ!!」
碧味を帯びたトパーズ色の髪に、燃えるような金色の鋭い瞳。端正な自分の顔に注がれる女性客の視線に構わず、身を乗り出したまま睨みつけると、怒号をとばされた従業員は優美な軌道でゆっくりと顔をこちらに向けた。
「タマちゃん、僕は今ハニーとこの世に満ちる愛の喜びについて語っているところなんだ。決して油を売ってるわけではないよ?」
「テメー何ねぼけたこと言ってんだ! 俺が玉子割れねーの知ってんだろーが!
さっさと厨房に来いや!!
それにタマちゃんて呼ぶな!!」
「え? だって、タ・ムーア・ゴ…なんとかって、名前長すぎだよ?
タマちゃんでいいじゃない。ねえ、ハニー?」
鋭い牙を見せて妖艶に微笑む美しいヴァンパイアに、愛を囁かれた女性はすでに陥落しているようだった。
こくりと頷いて微笑む顔がほんのりと赤いのは、愛のせいなのか、グラスに注がれたレッドアイのせいなのか。
キュウはやれやれと肩を竦めると、「すぐに戻るよ」と女性の頬にキスをするかのようにささやき、レッドアイを片手に厨房へと入ってきた。
「生卵にさわっただけで蕁麻疹ができちゃうなんて、タマちゃんも難儀な体質だよね。そんな人がなんで玉子料理を作ってるんだか」
「俺だって作りたかねーわ! よりによって、お前ら全員殺人レベルに不味い料理しか作れねーじゃねーか。客がこなきゃ俺らは魔界には戻れねえ。それで仕方なく俺が料理つくってんだろーが」
キュウがレッドアイのグラスを持ったまま片手で器用に卵を割る横で、くせのある髪をかきあげながら王子がぼやく。
ちなみに、魔界の王子の髪は生涯一本も抜けないために、調理帽をかぶっていなくても衛生的にはなんの問題もない。
「そんなにせこせこと稼いだって、規定の罰金貯めて魔界に戻るには何年もかかるだろ?
嫁になる女を魔界に連れて行けば、魔界の嫁不足解消に貢献したってことで一発で帰れるのに、なんでみんなそっちを狙わないんだろうね?
もっとも、僕にとっては下界の女性の方がよっぽど美味しいから、当分魔界に戻るつもりはないんだけどね」
キュウはそう言ってウインクをすると、卵の殻をぽいっと袋に投げ入れ、満月が5つ入ったようなボウルを調理台に置いたままいそいそとバーカウンターへ戻っていく。
そこへ入れ替わるように、背の高い涼やかな目元の男がビニール袋をぶら下げて厨房へ入ってきた。
「王子。足りなくなったオリーブオイル買ってきましたよ」
「おう。そこの調理台に置いておいてくれ」
オムレツ用のフライパンをコンロに乗せ、そこにバターを乗せようと冷蔵庫を開けた王子の耳に、ガチャガチャンッ! とガラスの割れる音が聞こえてきた。
驚いて調理台の方を見ると、床には買ってきたばかりのオリーブオイルの瓶が割れて、琥珀色の液体がどろりと広がっている。
その横には、黒く濡れた大きな瞳でこちらを見上げながら、ぷるぷると小刻みに体を震わせる、赤茶色の小さなロングコートチワワの姿。
「わびすけぇっ! お前なんで卵の黄身見たんだよ!!
変身するならせめてオリーブオイルを調理台の上に置いてからにしろーっ!」
狼男のわびすけは、一度チワワの姿に変身すると一時間は元の姿に戻らない。
本物の満月を見れば銀灰色の恐ろしい狼に姿を変えるが、毎晩ToTで働く彼が満月を見る機会はほとんどない。
玉子料理が人気のこの店で、小さな満月のような黄身を見てチワワに変身してしまうことの方がよっぽど多いのだ。
「くぅ~ん」と鼻を鳴らしながらバツが悪そうに従業員室に引っ込むわびすけを王子が苦々しげに見やっていると、モップを片手に肩幅の広い色黒の男が床の掃除を始めた。
「うっしー、お前が厨房にいてくれてよかったよ。そうやって気が利く仕事をしてくれんのはお前だけだ。
…もっとも、蹄だから卵を割れねーのと、『ふんもお』としか言えねーからホールに出せねーのが玉に瑕だけどな」
溶き卵をフライパンにじゅううっと落としながら王子が声をかけると、黙々と床を拭いていたミノタウロスのうっしーが立派な角の生えた頭をゆっくりと動かし、「ふんもお」と答えた。
*****
「ペペロンチーノひとつね」
ホールからオーダーを取ってきたフランケンがカウンター越しに王子に声をかける。
「おう」と短い相槌を打ちながら、王子はちらりと壁掛け時計を見た。
「また今日もか…」
微妙な表情をする王子。
それを見た機械仕掛けの妖精シルフが、フランケンの大きな肩に腰掛けたまま小さくても形の良い唇をにやりと歪める。
「タマゴが怒号を飛ばさないですむなんて珍しいじゃない。心穏やかに料理できるんだから、もっと喜んだら?」
「珍しいから気になんだよ。
ここんとこ毎日この時間に玉子料理じゃないオーダーが入ってくる。
…てか、俺をタマゴって呼ぶな!」
「だって、タ・ムーア・ゴなんとかって名前は長ったらしいんですもの。
あんたの嫌いな玉子と似たような名前なんて、名付けた親はいかしたセンスしてるわよね」
「機械仕掛けの分際で嫌味を言うな! 代々魔王に受け継がれてる名前なんだから仕方ねーだろ!」
そんなドS同士の火花散る空気を知ってか知らずか、メートルディーのサトリがそばへやってきた。
「毎晩オーダーストップギリギリに注文してるのはあの女の子だよ」
王子がサトリの視線の先を追うと、二名様用の小さなテーブルにちょこんと小柄な女性が一人で座っていた。
ダークブラウンのセミロングの毛先が大きく膨らみながら内側に巻かれてくるんとしている。
「王子はあの子が玉子料理を頼まない理由を知りたいの?」
訳知り顔で尋ねてくるサトリに、ああこいつは空気は読めないが人の心が読める
*****
次の日も、その次の日も、オーダーストップ間際に玉子料理以外の注文が一つだけ入ってくる。
「マカロニグラタン一つね」
十日目のオーダーを
「きゃあっ!」
「王子ー!」
いつもはオープンキッチンの中を覗き込むことでしか見ることのできないレアキャラの出現に、狂喜した女性客たちが桃色の声をあげる。
その声に驚いて顔を上げた女性が、自分を睨みつけながら真っ直ぐに向かってくる王子の姿を見た途端、びくっと肩を縮こまらせて俯いた。
「おい」
王子が女性に声をかけると、周りの客から羨望と嫉妬の入り混じった悲鳴が上がる。
「あんた、うちの店の人気メニューが玉子料理だって知ってて注文しねーのか?」
テーブルに片手をつき、ぞんざいな態度で上から見下ろす王子。
小さな肩を震わせながら、その女性が恐る恐る彼を見上げた。
長い睫毛が微かに揺れながら上を向き、黒く大きな瞳と金色の鋭い瞳がお互いを見合った瞬間。
王子は心臓を強く掴まれたような息苦しさを覚えた。
「知ってます…」
「じゃあなんで十日も続けて来てるくせに、玉子料理を避けるんだよ」
問い詰めるような王子のきつい眼差しに耐えられず、女性は黒い瞳を潤ませながら、再び下に向けた。
「連続じゃ、ありません。
水曜日は来てませんから」
「答えるのそこじゃねーだろっ!!」
間髪入れず落とされた怒号に、女性は椅子から飛び上がりそうなくらいにビクッと体をすくめる。
その反応に、瞬間で沸騰していた王子の頭が一気に冷めた。
なんだ、この心を抉られるような感覚は。
幼い頃、悪戯が過ぎて捕まえた小鳥を死なせてしまったときの記憶を王子は思い出した。
「いや…。俺は玉子料理を頼めって脅迫してるわけじゃねえ。
あんたが玉子料理をオーダーしない理由を知りたいだけだ」
低い声ができるだけ凄味を出さないように、注意を払って声をかけ直す。
じわりと潤んだ瞳を王子に向けると、彼女は遠慮がちに口を開いた。
「美味しいと思ったことが一度もないんです。玉子料理…」
「はぁっ!?」
反射的に荒々しい声が出て、王子は慌てて口を手で塞ぐ。
「それは、玉子料理が嫌いだってことか?」
「そうなりますね。アレルギーというわけではないので」
その言葉が、魔界の最高権威を継ぐ立場にある王子の高潔な心に微かな爪痕をつけた。
「アレルギーでもない恵まれた体のくせに、美味しくないという理由で玉子料理を食わねえんだな?
それは、重度の卵アレルギーでありながら玉子料理の鉄人と賞賛される俺への冒涜に他ならねえ…」
瞬間で沸騰する感情を怒号で放出するのが常の王子が、その怒りを内側に溜め込むように身震いした。
気まずそうに下を向く女性の小さな顎を指で挟むとぐいっと上へ押し上げ、恐怖と困惑で揺れる瞳を射抜くように見据える。
さざ波のような客席の声が再び悲鳴に変わる。
「これからも毎日この時間に来い!
俺の玉子料理を美味いと言わせてやる!」
「えっ…で、でも…っ」
「でももへったくれもねえ! 毎日来いって言ってんだ!」
「…はい」
彼女の潤む瞳を見ると、またしても幼い頃に感じた胸の痛みが甦った。
彼女の顎をしゃくり上げた手を離し、踵を返すとずんずんと厨房へ戻る。
なんなんだ、あの反応は。
思えば、下界の女に面と向かって啖呵を切ったのは初めてだった。
いつもは怒号で嬉しそうに騒ぐ女たちの反応しか知らなかったが…。
あんな風に、乱暴に触れたら小鳥のように傷ついてしまう女がいるなんて──
「いつもは玉子料理を注文すんな!ってキレるくせに、随分威勢のいい啖呵を切ったものね」
野次馬をしていたシルフが、ふふんと鼻を鳴らして王子の頭上を飛び回る。
「うるせえ!」
王子は鬱陶しそうにシルフを手で払いのけた。
それはまるで、自分の胸のうちに突如現れた、輪郭のはっきりしない感情も払いのけようとしているかのようだった。
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