文化祭公演編
第39話 次第に淡くなる蝉の声
放課後の図書室は、案外人気がない。本棚が立ち並ぶ中に入り込んで行けば、まるでこの部屋に自分以外の人がいないのではないだろうかと錯覚するほどだ。左右には、物質としてこの世に刻まれた言葉が満ちている。
実はあまり、背の高い本棚が好きではない。どうにも見下されているような、自分が取るに足らない人間であるかのような気分に陥ってしまうから。俺は小さく頭を振り、閲覧席に向かってその密林から抜け出した。
二学期が始まってから半月ほどが経った。
今は基礎練期間中であることから、公演直前などとは違い一週間あたり二日の休みがある。木曜に一日、日曜に一日だ。
そして俺は木曜の休みを利用して、図書室を訪れていた。もうすぐタイトルに「劇」とつくものはおおよそチェックし終わる。もちろん『劇的○○』などは除外するが。
部長となった俺が真っ先にしたのは、劇の勉強だ。
正直に白状すれば、いざ部長として練習を仕切ることになったとき、非常に困ったのだ。「アレ……何をすればいいんだ?」と。もちろんこれまでしてきた練習をそのままやることぐらいならそりゃあできる。けれど、その練習の目的や意図を上手く把握できていなかった。
先輩から説明はされてはいたけれど、いざそれを自分の言葉として説明できるほどまでには、理解できていなかったのだ。例えるのなら、数学の公式の導出を理解していなくても問題は解けるかもしれないが、導出などの背景を理解していないと他人に教えるときに「ここでこの公式を使うんだよ」としか言えなくなるような感じに近いかもしれない。往々にして、ある程度公式を実際に使ってみてからでないと中身の理解が正しくできない点なども似ているように感じる。
このように慌てて始めた勉強ではあるがその結果として、腹式呼吸の際に脇腹や背中までを意識できるようになったし、発声における共鳴位置についても鼻部・咽頭腔部・口腔部での使い分けが前よりも上手くできるようになってきたと思う。
とまあそんなわけで、俺は昼休みと練習が休みの日を利用して、図書室にある少しでも関連しそうな本を読み漁っていた。
席に着いてから読む本の選別をするつもりでそれなりの冊数の本を持って歩いていると「何冊か持ちますよ」と制服姿の演劇部の後輩が駆け寄って来た。
宮子ちゃんだ。
以前ばったりと図書室で出会い、俺がしていることを知られてしまってから、彼女と一緒に練習法などを学ぶようになっていた。普段部活でしか顔を合わせる彼女の服装はたいていジャージ姿やTシャツ姿なので、制服姿の彼女と会うのは未だ少し落ち着かない。
そもそも俺につき合って勉強なんかしなくともよいのにと思う。練習などはちゃんと俺が調べておくから大丈夫だと言ったし、「そんなに俺が部長として頼りないのかな?」などと中々にずるい言葉を使ったりもしたのだが、ニコリと微笑んで「そうです――と言ったらどうします?」と言われてあしらわれてしまった。……実は少し凹んだ。
そんな経緯もあり、ひとまずのところ彼女には俺が前に読んだ本の中で特に参考になったものを読んで貰っている。
とはいえ、本を運ぶ程度のことまで彼女の助けを求めるつもりなど毛頭ない。
「いやいや大丈夫だよ。一応俺も男だからね」
運んでいる本を目線の高さまで持ち上げながらそう返す。けれどまだ宮子ちゃんは不服そう。
「ホントに大丈夫だって。いざというときに無理がきくように、最近体力つけてるから」
「む。そもそも無理をしなくとも済むようにしてください」
宮子ちゃんは唇を尖らせながら、そう窘めてくる。話が逸れたなと判断し、その隙に俺はさっさと席まで本を持って行った。
椅子が四つのテーブルに向かい合う形で座り、それぞれページを繰り始める。普段ならそのまま各々が読んでいるものに集中するのだが、今日は不思議と「あの、誠先輩……」と宮子ちゃんが話しかけてきた。
「どうしたの?」
「あの、無理がきくように体力をつけているとおっしゃってましたが……やっぱりアカネ先輩の調子は、よくないのでしょうか?」
「……最近は珍しく授業中もノート取ってるくらいには元気だよ」
つい、そんなはぐらかすような返事をしてしまう。宮子ちゃんは小さく「そうですか」と返し、本に目線を落とし始めた。
こんなことを聞かれたのは、最近赤根は練習に参加していないからだろう。
サボりというわけではない。そうではなくて、脚本の執筆に専念したいという申し出があり、俺がそれを許可したというだけだ。
別に珍しいことではない……わけではなかった。少なくとも赤根に関して言えば。新人公演の役者としての稽古と並行して夏公用の台本を仕上げていた位なのだから、今回の申し出はよほど文化祭公演の台本にてこずっているのだと見るべきだろう。
台本が遅れれば遅れるほど、稽古から道具等の準備まで色々なことがハードなスケジュールとなってしまう。その時に頑張れるように、毎晩ランニングをするなど意識して体力をつけようと心がけている。苦しいときに、少しでも周りが楽になれればいい。
赤根に対し、気分転換に少しは練習に参加してみたらどうかという気持ちはある。けれど、最近は授業のノートをきちんととっていることを指摘した際に、「どんなところにヒントがあるか分からないから」と力なく笑われてしまったら、強くは出れなかった。けれど、
「今月いっぱいが、一つの目処だと思う」
「それは、台本を待てるのが……ということですか?」
宮子ちゃんは、突然の俺の呟きを正しく理解してくれた。元々は修学旅行を目処にするつもりだったが、その修学旅行は来週の頭に迫っている。流石に赤根の台本にせよ他の案にせよ、それには間に合わないと思う。
「うん。だから、赤根以外には、各自念のため既成の台本を探しておくようにアナウンスしようと思ってる」
「そうですか……」と呟いた宮子ちゃんは、けれど、俺の顔を見ると微笑んだ。
「それでも誠先輩は、アカネ先輩のこと信じているんですね」
「ええと……どうしてそうなるのかな?」
客観的に見て、他の台本の準備を始めることが信頼に結びつくとは思えなかった。
「だって、アカネ先輩が頑張っていることを信じているからこそ、誠先輩も自分に出来ることを頑張ろうとしているように見えますから」
宮子ちゃんは目を細めて笑うと「私も出来ることを頑張ります」と言って、本の続きを読み始めた。
俺もそれに倣おうと努めたけれど、なかなかどうして文章が頭に入ってこなかった。
未だツクツクボウシと思しい蝉の声がする帰り道を、宮子ちゃんと歩く。宮子ちゃんは自転車通学なので、一緒なのは駅までの道だけ。
「先輩の荷物、カゴに置いてもいいですよ? むしろ置いて下さい」
「いや、悪いよ」
自転車を手で押している彼女は、空いている前のカゴを示して言う。そこが空いているのは彼女が自身のリュックを背負っているからだ。
なおも彼女が荷物を置くように言ってくる。こうなった宮子ちゃんはちょっとしつこい。
そこで、内容は伏せたままで一つ条件をつけてみた。「条件、ですか?」と首を傾げる彼女から、自転車をそっと奪い取る。もとい俺が自転車を押すことにした。むしろ最初からこうするべきだったな。
大義名分を思い出し、自分の荷物をカゴに置く。
「なんでそうなるんですか!?」
「自転車に触られたくないって言うなら辞めるけど?」
「そんなこと言いませんよ……言うわけないじゃないですか。その、ありがとうございます」
宮子ちゃんは不満そうに唇を尖らせながら、けれど律儀にそう言ってくれる。
「どういたしまして」
「誠先輩ってズルいですよね」
「こっちとしては宮子ちゃんも……」
時々ズルい……というか怖い。言いかけたそれを飲み込んだのだが、
「私も……なんですか?」
とニッッコリとした笑顔を浮かべる宮子ちゃん。うん。そういうところそういうところ。
「……となると先輩は、私たちは似ていると考えているのでしょうか?」
「ズルい仲間ってこと?」
「あ。やっぱりそう思ってたんですね」
「……そういうところ、ズルくない?」
宮子ちゃんは「なるほど」と呟いた。怖いと思っていることがバレていないのでギリギリセーフ、かな?
「でも先輩。私たち、とっても大きな違いがありますよ? 年齢です。一歳下の私は、先輩と一緒に修学旅行に行くこともできません」
「そりゃ――」
「なーんて冗談です。それじゃあ私はこの辺で。自転車ありがとうございました」
そりゃあそうだよね、と言いかけたところを遮られた。自分の荷物を取り自転車を返却すると「お疲れ様です」と言って、彼女は早々に去って行き、あっという間にその小さな背中は見えなくなってしまうのだった。
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