第44話 エルシィという災厄

 間違いない。

 だ。


 何度も見た顔。

 何度も聞いた声。 

 忘れるはずがない。


 その彼女が、どうしてここにいるのか。

 人類の敵である魔蟲種――その中でも最強と言える存在の骸鬼ヘカトロン――その肩に、彼女が座っている。

 その光景に僕は混乱していた。


 それでも僕は冷静に振舞っていたと思う。それは『エルシィ=魔神ヘレス』という、僕にとって最悪の展開を覚悟していたからなのかもしれない。


 最初から、僕はある確信を持っていたのだ。


 ロゼッタから聞いた魔神ヘレスの過去。

 僕の知るエルシィの過去。


 それらを照らし合わせ、僕は「エルシィが魔神ヘレスだ」という答えを心の中で導き出していた。


「本当に、お前はエルシィなのか……?」

「そうだよ。でも、この姿は君にあまり見せたくなかったなぁ」


 骸鬼ヘカトロンの肩に座る彼女は、自分の腕を眺めた。

 その細かった腕は、黒い甲殻のようなドレスのグローブで着飾られている。金属のような光沢を放つそれは、彼女が完全に魔蟲種側の人間であることを示していた。


「お前が魔蟲種を作ったのか?」

「うん、この子……ヘカトロンもなかなか可愛いでしょ?」


 エルシィはうっとりとした表情で骸鬼ヘカトロンの頭を撫でる。

 まるで高貴な芸術作品を触るような手つきで、優しく手を甲殻の表面に滑らせた。


「どうしてそんなことを……?」

「わたしが、魔神ヘレスだから。それよりも……」


 エルシィはカミリヤを指差した。


「ねえ、レイグ君。あなたが抱いているその女神を離してくれない?」


 エルシィがここに現れた目的は分かっている。

 その目的だけは、どうしても阻止しなければならないものだった。


「こいつをどうするつもりだ?」

「殺すの。今ここで」


 殺意の込められた低い声が僕らの鼓膜を揺らす。

 エルシィの意思を表すように骸鬼ヘカトロンも体を紅く発光させ、次の攻撃に必要な魔力を高めていた。


「もし断ったら?」

「君ごと消し去るだけだよ」

「そうか」

「でも今離せば、君の命だけは助けてあげる」


 その言葉にカミリヤは僕を抱き締める力を強めた。カミリヤは「イヤイヤ!」と頭を振りながら、僕の胸に自分を押しつける。涙と鼻水で僕のローブはぐしゃぐしゃに汚れていく。

 カミリヤはエルシィに酷く怯えていた。今の彼女がエルシィと対話するのは無理だろう。


 この窮地を乗り越えるには、僕がどうにかするしかない。

 それが最悪の結果に繋がるとしても。


 僕はエルシィへ顔を上げ、薄く笑みを浮かべる彼女を睨んだ。

 エルシィの顔は数年前の最後に見たときと変わらない、あどけなさを保っていた。


「悪いが、こいつをお前に渡すことはできない」

「どうして?」

「こいつは僕の大事なパートナーだからな」


 僕はカミリヤへ視線を向け、僕に泣きつく彼女の頭をそっと撫でる。


 武器も魔術も使えないポンコツだが、僕はカミリヤの優しさに惹かれてしまった。

 魔蟲種と権力に振り回されて人生を滅茶苦茶にされてしまった彼女を助けたい。


 この魔蟲種討伐の旅の中で、そんなことを思うようになっていた。


「何それ。もしかして、君はそいつのことが好きなの?」

「あぁ、僕はこいつが好きだ」

「へぇ。異性として?」

「そうかもな……」


 いつの間にか、僕はカミリヤのことが好きになっていた。

 この少女と結ばれたい。

 どうしようもなく彼女に惹かれてしまう。


「世間知らずで、手間ばかりかかって、子どもみたいなヤツだけど……それでも好きだ」

「へぇ、元カノにそんなこと言っちゃうんだ」


 彼女は不敵に笑う。

 そのとき、エルシィは僕らから視線を逸らし、一瞬だけ彼女に隙が生まれる。


「だから……こんなことは終わりにしよう、エルシィ!」


 エルシィに気付かれぬよう、僕は背後に隠していた仕込み杖に魔力を送っていた。


 杖で撃てる最大火力の雷魔術。

 それをエルシィの不意を突いて放ち、一撃で彼女を沈める、という算段だった。


 バチバチと激しく音を鳴らす青白い電撃がエルシィを襲う。


「うぐああああああっ!?」

「もう終わりにしよう、こんなことは!」


 電撃はエルシィに命中。

 軌道は予想通り。

 エルシィは青い光がもたらす痛みに、断末魔の叫びを上げる。


 全ての魔蟲種を操作しているのは彼女だ。

 彼女さえ仕留めれば、骸鬼ヘカトロンも司令塔を失い、この戦争は終結する。今、この一瞬に、世界の未来がかかっていた。


 しかし――


「うぐっ……やっぱり、レイグ君は容赦ないね」


 仕留め損ねた。

 僕が持てる最大火力の電撃を浴びたのに、彼女はすぐに痛みから表情を取り戻す。電撃の高熱によって生まれた白い蒸気の中で、エルシィは体勢を保ったままだった。

 確かに彼女へダメージを与えたはずだが、致命傷になってない。威力が足りなかったか。


「クソが……」


 終わりだ。


 エルシィは魔術に長けている。今の不意打ちを二度も許すような相手ではない。

 ここで彼女を殺し切れなかった以上、その次に待っているのは骸鬼ヘカトロンの反撃だろう。再び先程のビーム攻撃が僕らに向けて放たれるはずだ。


 しかし、反撃は行われなかった。


 無言で互いを見つめる状況が続く。エルシィ側も、ここからどうすればいいのか戸惑っているようだった。


「そっか、それがレイグ君の答えなんだ……」


 エルシィが掻き消えそうな声で呟く。

 彼女の口は震え、その言葉にどこか悲哀を感じさせた。


「エルシィ、お前はまだ僕のことを……」

「違う! わたしは、目的のために……!」


 僕がカミリヤを守り、反撃してくることが想定外だったのだろうか。

 過去に長く付き合ってきた僕だからこそ分かる。今の彼女の表情は、物事が思い通りにならないときに現れるものだった。


「い、行こう、骸鬼ヘカトロン!」

「クォォォォン……」


 骸鬼ヘカトロンの背中に、紅く巨大な羽が現れる。魔力で構成された光の羽だ。

 羽蟻が持つ薄羽のような形状をしており、その出現と同時に巨体が浮かび上がった。


「ま、待て、エルシィ!」

「どうしてなの、レイグ君……あなたが敵になるなんて……!」


 光の羽によって高く上がる砂埃に僕らの視界が塞がれる。その間に骸鬼ヘカトロンはエルシィを連れたまま、追い付けないほど遠くまで飛翔していた。

 灰色の曇り空に紅い星が一つだけ輝いている。それは雲を突き抜け、どこかに消えた。


 地表に残されたのは、何万という帝国兵の死体、大型兵器の残骸、大地の焼き焦げた跡。

 そして、僕とカミリヤだ。


「もう大丈夫だ、カミリヤ」

「うっく……ひっく……!」


 未だに泣き続けているが、彼女に大きな怪我はない。

 僕はよろめく彼女の肩を抱き、共にエルシィが消えていった方向を眺めた。


「ど、どうしてエルシィさんは逃げたんですか?」

「僕を敵に回すのが嫌だったんだろうな。まだアイツは僕のことを……」


 僕が彼女を忘れたことがないように、彼女も僕のことを覚えている。

 そして、彼女はずっと僕のことを想い続けている。


「僕もエルシィを敵に回したくない。魔術師として、友人として……」

「で、でも……エルシィさんをどうにかしないと、この戦いは終わらないんですよ!」

「分かってる」


 僕はエルシィを殺さなくてはならない。この大厄災を引き起こしている魔神ヘレスを。

 そんなことが自分にできるだろうか。

 僕よりも強いうえに、深い繋がりのある相手を殺害するなんて……。


 僕は視線を下ろし、骸鬼ヘカトロンが立っていた地点を見つめた。


 そのとき――


「おい、何だアレは?」


 骸鬼ヘカトロンがいた場所に小さな何かが光っている。

 強く紅い光を出し、こちらにそれ自身の存在をアピールしているようだった。


「カミリヤ、ここで待っててくれ」

「は、はい……」


 恐る恐る近づいて発見したそれは、舞い上げられた砂に埋もれかけていた。


 魔法陣の描かれた、球形の紅い水晶。

 それが発光する物体の正体だった。


「もしかして、あのとき……!」


 僕がエルシィに向けて雷魔術の不意打ちを放ったときのことだ。その衝撃で彼女は仰け反り、懐から何かが零れ落ちたのを僕は見ていた。


 最初は骸鬼ヘカトロンの体を形成する破片か何かだと思った。たが、見た限りでは違うらしい。


 エルシィが持っていたということは、彼女の戦略にとって重要な物体なのだろう。

 彼女はこれを落としたことに気付かぬまま、去ってしまったのだ。


 僕はその水晶を拾い上げ、表面の魔法陣を凝視した。


 見たこともない形式の魔術プログラムだ。この水晶が何の目的で使用されるのか、僕には全く想像できない。帝国の高名な学者でも、これを解読するには時間がかかりそうだ。


 神々の暮らす天界から持ち出した技術が使われているのだろうか。


「ロゼッタ、これが何か分かるか?」


 僕は水晶を手に突き出しながら、カミリヤを待たせている場所へ歩いた。


「そういう……ことだったのね!」


 水晶を持つ僕が一歩、また一歩と近づくにつれ、彼女の表情が強張っていく。

 彼女は苦しそうに頭を抱え、尋常でない量の汗が肌の表面に噴き出していた。


「レイグ……その宝玉を……破壊して!」

「宝玉? 破壊? 何を言ってるんだ、お前は」

「その宝玉が……私の力を阻害して……勇者召喚を……!」


 カミリヤの息が荒い。口から飲み込めなくなった涎が垂れる。

 今度は胸を強く押さえ、立てた爪が豊満な双丘に食い込んだ。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」


 ドサッ……!


 絶叫を出し切ると同時に、彼女がその場へパタリと倒れ込んだ。


「カミリヤ? ロゼッタ?」

「……」


 僕は横たわる彼女に駆け寄り、その体を揺さぶった。

 しかし、反応はない。完全に意識を失っている。息はあるが、まるで死んだようにぐったりしていた。彼女の金色の髪がだらりと垂れ下がる。


「どうなってるんだよ、一体……」


 ロゼッタが「宝玉」と呼んでいた紅い水晶。

 それが僕らを嘲笑うかのように、不気味な輝きを放っていた。

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