探偵は鹿撃ち帽の代わりに目出し帽を被る

第1話 イニシエーションとイミテーション

 僕が四度目の見回りを終えた時、警報機が静寂をつんざくように、鳴いた。ワンオペで見回りをしている日に限って、何らかの不具合が起こる。僕は自分の不運を呪いながら、誰もいないはずの倉庫へ向かった。

 白亜の壁に囲まれた広大な部屋は、それ自体が大きなキャンバスであるかのようだ。奥の一面には、壁画と見紛うほどに大きな絵画が飾られている。バロック絵画と言うらしいそれは、この画廊の目玉であるらしく、警備員を追加で雇っている大きな理由の一つだ。絵に関しては素人であるバイトの僕でも、ダイナミックに描かれた深い青の美しさはわかる。

 僕は、その白い部屋に存在している異物を見て、目を擦る。人間だ。全身黒ずくめの男が、腰を擦りながらゆっくり起き上がろうとしている。

「だっ……誰ですかあなた!?」

「……ごきげんよう」

 素っ頓狂な声を上げる僕に、妙な落ち着きを見せて立ち上がる異物。運命の出会いと言うには少し物騒で、僕は咄嗟に身構える。

 この不審者は何者で、どこから来て、何を目的としているのか。脳内を疑問が埋め尽くすまでに、僕はそれらを口に出していた。

「俺が誰かって? 名画が観れると聞いて来たただの絵画マニア……なんて言い訳通用しないよな?」否定とも肯定ともつかないような相槌を打つ僕に、黒ずくめの男がゆっくりと話す。「少なくとも、正義の味方なんて甘っちょろい物ではないことは確かだ」

 辺りを注意深く観察すると、天井に入ったヒビからロープが伸びていた。この男は探検家で、カリブ海の海賊が遺した宝の地図を素に、この画廊に飛び込んできたのだろうか。そこまで考えて、僕は思わず吹き出す。現実的な思考をしろ、あいつはまず間違いなく泥棒だ。

「あなた、泥棒ですよね? もうすぐ警備会社の警備員が来ます。ここに入ったことを後悔するんですね!」僕は妙に強気で言い放つ。改めて考えてみたなら、全く威張れることではないんだけれど。

「まだ何も盗んでない状態で泥棒って決めつけられてもなぁ……」男は呟く。「残念ながら、泥棒は時として居直る。居直り強盗ってやつ、ニュースでも見たことあるだろ? だから、その点では安心してほしい。幸運にも、俺はハナから生粋の強盗だよ」

 気づかなかった。男は最初から、目出し帽を被っていたのに。


「生粋の強盗は、君を人質にするかもしれない。警察を呼ばれたなら、君の着ている制服を奪って、混乱に乗じて逃げることも出来る」男は目出し帽の奥の瞳を細め、唇を薄く開いて笑った。「まぁ、そんな姑息なことは最後の手段、としておこうか」

 男は、常に余裕のある態度だ。物を盗むことに慣れきっているのだろうか? 僕は、無意識に冷や汗をかいていた。殺されてしまうかもしれない。こんなバイトさえやらなければ、今頃は暇に飽かせた夜を過ごしていたはずだ。少なくとも、今日の夜食に何を食べるかを冷蔵庫の前で悩んでいただろう。

「強盗って、大きく二つに分けられると思うんだよ」男は僕の前で腰を落とし、無音の空間を埋めるように、話し出した。「強盗を手段にするやつと、目的とするやつ。前者は、金がないから盗む。単純な動機だ。他にもっと安全な方法があるのに、絶壁の近道をクライムする馬鹿だよ」

「後者は……?」

「後者は、もっとタチが悪い。誰かから盗むことで得られる刺激を楽しんでるんだよ。ロマンに生き、リスクに死ぬ。食傷気味の日常から脱却しようとする万引き高校生みたいな動機で強盗をするクズが、俺だ」

 男の最後の一言は、いたずら好きの子どものような軽々しさだ。呆れ返って、思わず恐怖が和らぐ。

「それに、俺の目的は金じゃない」男は指を一本立てた。「謎だよ」

「謎?」

「警備員さんが来るまで、まだ時間はあるよな? 俺が聞いた、面白い謎の話をしよう」


「十七世紀のヨーロッパにある有名な画家が居たんだ。名前は聞いたことがなくても、絵は見たことがあるはずだと思う。それぐらい有名な画家だよ」青いターバンを巻いた美女の絵だよ、と男は語る。なるほど、その絵は有名だ。芸術にそこまで詳しくない僕でも、テレビで見たことがある。

「その画家の絵を模倣する奴はたくさん居たんだよ。ある贋作家がんさくかは、精巧な贋作を描いてナチスを騙した。これは有名な話なんだけど、彼は最近描いた絵だとバレないように、表面を焼いて絵の具を乾かした。その時代のキャンバスとかの画材も揃えたりして、ちょっと病的だよな……」男は少し身震いをすると、ちらりと辺りを見渡す。そこに怪しげな動作があったなら、すぐに指摘してやろう。僕はそう思った。

「ただ、今から話す話はその本家と同時代に生きた、ある若者の話だよ。描いた絵を焼く必要も無いほどに同じ時代の、ある貧乏な見習い絵描きが主人公の話だ。彼も、生活のために贋作を作った」男は話し慣れた様子で語った。和服を着ていたなら、講談師や落語家にもなれただろう。「今みたいにコピー機なんてものはなかった時代だよ。芸術家が生涯をかけて絵を描くように、贋作家も生涯をかけて模倣する。そうすればパトロンから多額の報酬を貰えるんだ。だから、彼らは描くんだ。一生を掛けて、ね」

 僕はギャラリーの絵画を確認する。憂鬱が染み込むような深い青が、目に飛び込んでくる。これを描いた人も、一生を掛けて快作を作ったのだろうか。だとすれば、後世の賞賛も、取引される際の札束も、作者の人生に対する対価かもしれない。画家がこの絵に費やした時間に比べると、僕たちがそれをまじまじと観れる時間は少ないのかもしれない。だからこそ、この絵はたくさんの人に見てもらうべきだ、と思った。『誰か』の五分をたくさん集めて、少しでも作者の人生の時間を穴埋めされるべきだ。

「その日も、若き青年画家は模写を始めた。なけなしの金で美術館のチケットを買い、何回も元絵を目に焼き付けた」男は言う。「幸いにも、彼は天才だった。高価な画材も自分の腕でカバーし、持ち前の色彩感覚で足りない色を混ぜて補った。そんな試行錯誤を繰り返して完成したものは、本物より本物らしかった。魂のこもった偽物なんだよ……」

「そんな努力をするなら、最初からオリジナルを描いて売ればいいんじゃ……」

「それを売るのに、彼は無名すぎたんだよ。その頃は、芸術アカデミーの箔が付いてなければ売れない時代だ。ネームバリューや権威がなければ、見向きもされない。即物的だけど、現代人もそんなもんだろ?」男の溜め息が反響する。「著名人や賞レースのお墨付きがなければ、芸術なんて埋もれてしまう。浮かべて可視化させるには、金が必要なんだよ。タランティーノが絶賛している映画のうち、何本が面白いと言える?」

「そういう煽り文句の映画が年に何本出てるか調べるところから始めないといけませんね」

「同感だ、あの有名な映画監督を信用しすぎない方がいい。とにかく、その贋作家は人気作家の名前を騙り、技法や構図を盗んだ作品を二束三文でパトロンである画商に売った。その後、その偽物の絵は海外のブルジョワに高値で買い叩かれるんだ」

「偽物を高値で……」

「それくらい完成度が高かったらしい。実際、四十年前にある科学者がイチャモンをつけるまでは、本物だと信じられていたんだ」

「科学者?」警備員という職務も忘れて話の続きを急かす僕に、男は満足げに答える。

「あぁ。その科学者は、とても簡単な方法でそれが偽物だということを実証してしまった。さて、なぜ嘘は見破られたと思う?」


 僕は、男の言葉の真意がわからなかった。すべてのヒントは話の中にある、と言いたげな態度で答えを促す彼の行動に、怖さと好奇心がせめぎあっている。

「それは、科学を使って実証したんですよね?」

「まぁ、科学者だからな」

「芸術的センスは必要ないんですか?」

「要らないよ。その時代の絵に対する知識があればいい」

 絵に対する知識、と言われても長らく美術と縁を切っていた僕には難題すぎる。科学の知識も義務教育レベルしか持ち合わせていない僕に、この難題は解けるのだろうか。

「あの、ヒントとかはないんですか?」

「ヒントか。その科学者は絵の芸術的価値を知らなかった、なんて所かな」

「もっと分かりにくくなりました……」

「絵の神様に対する罰当たりみたいな事をやってのけたんだよ」

 尚更わからない。僕が改めてヒントを求めると、男は少し考えて、言った。

「ラピスラズリは酸に弱いんだよ……」

「ラピスラズリ?」

 咄嗟に、高価な青い宝石が脳内をよぎる。宝石と絵に、なんの関係があるのだろう。

「本物は、ラピスラズリを使っていた?」

「あー、もうほぼ正解みたいな感じ」男は急にぶっきらぼうになり、落ち着かないのかそわそわと姿勢を前後させた。「俺さ、普段は解答者側だから、答えを言いたくて仕方ないんだよ」

「じゃあ、答えを教えてください」

 僕が仕方なく譲った解答権を引ったくり、男の怒涛の答え合わせが始まった。

「まず、本家の作家は青に強いこだわりを持っていた。群青色、ウルトラマリンって言えばわかるかな? それを使うのが作品の特徴ってやつ。そして、ウルトラマリンの原材料はラピスラズリだ」

「そう言えば、僕が最初にイメージした絵にも青が使われてましたね」

「多分気づいてると思うけど、当時からラピスラズリは高い。それと同時に、ウルトラマリンというのは貴重な色なんだ。パトロンが多額の金を援助してくれる有名画家ならまだしも、贋作で一儲けしようとする無名画家には手の届かない、ずっと遠い世界にあったものだ。言っただろう? 『天才画家は足りない色を補った』って」男は淡々と答え合わせを続ける。「哀れな貧乏画家はアズライトっていうよく似た色で妥協してしまったんだよ」もちろんそれも高かったらしいがな、と補足をした。「そして、四十年前に科学者はその絵に向かって塩酸を吹き付けた。本物だったら色が剥がれるってな。魔女裁判みたいだと思わないか?」

「そして、結果は偽物だった」

「正解。色が落ちなかったのが偽物の証なんて、皮肉なものだと思う。とにかく、妥協が身を滅ぼしたってことだよ!」

 僕は、気付かぬうちに強盗犯の答え合わせに、拍手を送っていた。


「そろそろ警備会社の人が来るはずだよな? この国の警備員さんはエキスパートだから、話す時間もそこまで取れなかったよ」僕に向けて話し終えた男は、ロープに手を掛けた。「じゃあ、俺は帰るよ。また何処かで会える日を楽しみにしてる!」

 慌てて止めようとする僕は、男に制される。

「不法侵入罪は大目に見て!」

「ダメです! せめて何者か名乗ってください、僕がスッキリしないから!」

「なるほど、そういう姿勢は嫌いじゃない。もし被害届を出すならこう言ってくれ。『結城哀斗』にやられた、ってね!」

「ユウキ……アイト……?」

 僕が面食らう間に、男も、ロープも、天井のヒビさえも消えていた。異物が排除されてすっきりとしたキャンバスには、代わりに僕という異物が残った。

 何だったんだ、あれは。まさしく神出鬼没、現実離れした一夜の強盗を目にして、僕の頭は妙に冴えていた。今なら、ここに飾ってある絵についても語れるかもしれない。急ごしらえの慧眼で絵を観察していると、ある疑問に突き当たった。

 この青は、アズライトだろうか、それともウルトラマリンだろうか。ところどころに配置された空白部分は何かが消された跡ではないか。妄想じみた想像は加速していき、ポケットの中の振動を一時忘れさせる。

『もしもし、そちらで警報機が作動したのですが……』

「すいません、誤作動です」

 僕は、一つ嘘を吐いて電話を切った。脳内では、理性の陪審員が協議している。

 今度、この絵を持って帰って調べてみよう。塩酸は、通販で買えばいい。とにかく、自分なりの答えを出すんだ。

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