序章「魔法の掟」

始まりの夜

 魔法まほう使いになるのが夢だった。あたしの幼稚園ようちえんの卒園アルバムにはこう書いてある。「シラカバ幼稚園、すみれ組、瀬高せたか美由みゆ、好きなもの・いちご、なりたいもの・魔法使い」。ほかの子はみんな、ケーキ屋さんとか、お花屋さんとか、男の子だったらサッカー選手とか答えてるのに、あたしのだけ実在しない職業だ。でも、これにはちゃんとした理由がある。

 あたしにはお母さんがいない。物心ものごころついたときからいなかったのだ。幼稚園のころ、自分にだけお母さんがいないことに気がついて、お父さんにどうしてなのかたずねたことがある。お父さんは静かな声で答えた。──お母さんは、遠い所に行ったんだよ──。

「遠い所ってどこ?」

 あたしが問いつめると、お父さんは覚悟かくごを決めたように大きく息をすいこみ、あたしの目をまっすぐ見つめてこう言った。

「魔法の国だよ」


          *


「本当? それどこにあるの? 行きたい! ねえお父さん、お母さんに会いに行こうよ!」

「残念だけど、それは無理だ」

「えー……」

「ごめんな。魔法の国へは、そうかんたんには行けないんだ」

「うそ。じゃあお母さんはどうやって魔法の国に行ったの?」

「お母さんは、ものすごく優秀ゆうしゅうな魔法使いだったからね」

「え! ほんとに? 美由のお母さん、魔法使いだったの?」

「うん。そうだよ。世界一の魔法使いだった」

「すごい! じゃあ、お父さんは?」

「お父さんも一応、魔法使いだよ。お母さんに魔法を教わったからね」

「すごいすごい! ねえ、だったらお父さんは魔法の国に行けるんでしょう?」

「いや、まだ行けないな。お父さんはお母さんほどすごい魔法使いじゃないから」

「じゃあ、お母さんぐらいすごい魔法使いになったら、魔法の国に行けるようになる?」

「そのうちね」

「美由は? 美由も魔法使いになったら行ける?」

「どうかなあ。美由はまだ小さいから、すごく時間がかかるだろうな」

「だいじょうぶ! がんばるから! ねえお父さん、美由に魔法教えて! 魔法ってどんなの? 何ができるの? 空飛べる?」

「今はまだ早いよ。いつか教えてあげる」

「えー! やだ! 今教えて!」

「だめ。美由はまだ魔法が使える年になってないから」

「魔法が使える年って?」

「十才。魔法使いの修行は、十才から始める決まりなんだ」

「そんなの、ずーっと未来じゃん!」

「あっという間だよ」

「待てない!」

 これが、あたしの一番古い記憶きおくだ。


 幼稚園のころはずっとこの話を信じていて、あたしはいつか絶対魔法使いになるんだと思っていた。だから卒園アルバムを作るときも、先生に「大きくなったら何になりたい?」ときかれ、当たり前のように「魔法使い!」と答えたのだ。それが一生の記録として残ってしまった。低学年のころは、周りの友達も「魔法使い」の漢字が読めなかったし、読めるようになったころには、もうみんな卒園アルバムのことなんかわすれていた。おかげであたしのはずかしい夢はばれずにすんだけど、あたしはしばらくの間、「魔法」という言葉を聞くたびにむねがざわざわして、不安な気持ちになっていた。もしもばれたら、絶対からかわれるに決まっているから。

 そう、魔法使いなんて存在そんざいしない。小学校に上がって少したったころには、もう分かっていた。お母さんは死んでしまったのだ。──たぶん、あたしを産んだせいで。

 あたしのたんじょう日は、お母さんの命日と同じ日なのだ。お父さんは、お母さんが死んだ理由を小さなむすめに説明できなくて、ごまかしたのだろう。あたしは自分がそのことを、いつ、どうやって理解したのか、もう思い出せない。でも、娘をきずつけたくないというお父さんの気持ちも、なぜ自分にはお母さんがいないのかということも、まるで生まれつき知ってたみたいに、いつの間にか理解していた。そうしていつしか卒園アルバムのことも気にならなくなり、魔法の話を思い出すこともなくなった。あたしはずっと、ごくふつうの小学生として過ごしていたのだ。

 ──あの日が来るまでは。


          *


 四年生の終業式が終わり、春休みに入って、何日かたったある夜のことだった。夕食のあと、居間でお父さんと紅茶こうちゃを飲んでいると、お父さんがいつもと少しちがう調子でこう切り出した。

「美由も、もうすぐ十才だな」

「うん」

 あたしのたんじょう日は三月二十九日、もう少しで次の学年に入れたはずの、早生まれだ。その日まであと一週間。毎年、お父さんと二人でお母さんのお墓参りに行ったあと、親子でデートして、最後はレストランで食事をするのが決まりだった。だからきっと、デートはどこへ行きたいかとか、お店はフレンチとイタリアンのどっちがいいかとか、プレゼントは何がほしいかとか、そんな話だろうと思っていた。ところがお父さんはとつぜん、びっくりするようなことを言い出した。

「十才になったら魔法を教えるという約束を、覚えているか?」

 あたしは目を丸くしてお父さんを見た。もちろん覚えている。

「うん……」

「今でも、魔法使いになりたいって、思ってるか?」

 あたしはあっけに取られた。

「……なれるの?」

「なれるとも」

 お父さんは真剣な顔をしていた。そもそもお父さんはこういう冗談じょうだんを言う人じゃない。

「……でも、あんなの、本当の話じゃないでしょう?」

「ああ……、うん。確かに、魔法の国の話は、あれはうそだ。お母さんは死んでしまった。もうどこにもいない。でも、魔法は本当に存在するんだよ。……美由、お前は、正しく修行をつめば、魔法使いになることができる」

 むねがどきどきした。まるで自分が、この世界にそっくりな、もうひとつの別な世界に──そう、例えば魔法の国に──まぎれこんでしまったような気がした。でも、そこは空想くうそうの世界ではない。今まで生きてきたのが仮の世界で、きっとこっちが本物なのだ。新しい、色あざやかな世界が回転を始めた──。あたしは頭のかたすみでぼんやりそう感じていた。

「魔法って……、何ができるようになるの?」

「空は飛べない。ほのおの玉も飛ばせない。でも、魔法はこの世界で生きていくために絶対に必要な技術だ。美由、この世界には魔力が満ちている。お前も魔法を学べば、魔力をコントロールして、悪い魔力から身を守ったり、良い魔力で人を幸せにしたりできるようになる」

「人を幸せにする?」

「そう。そうすれば美由も幸せになれる。人間は一人じゃ幸せになれないからね」

「うん……分かった。……けど、具体的には何ができるの?」

「そうだね。まず、人の心が読めるようになる」

「テレパシーみたいなこと?」

「まあ、今はその理解でいい。それと、上達すれば人の心をあやつれるようにもなるだろう」

「なんだかこわい……」

「うん。魔法はとても危険きけんなものでもある。だから小さな子供には教えられない。十才に満たない者には教えちゃいけない決まりなんだ」

「決まりがあるの?」

「そうだ。魔法使いには、絶対に守らなければならない十のおきてがある。これを守るとちかった者にしか、魔法の修行は許されない。だからまずはこの掟をしっかり聞いて、守れるかどうかよく考えて、それから、魔法使いになるかどうか決めなさい」

「……はい」

 お父さんの重々しい話し方につられて、つい、きちんとした返事が口をついて出た。今夜のお父さんはいつもと様子がちがう。茶色いバスローブを羽織はおった姿も、いつか見たイギリス映画の、魔法使いマーリンみたいに見えた。


 お父さんはあたしのかたを持って立たせ、和室のかたすみにある鏡台のところへ連れて行った。全体に真っ白で、たてに細長く、両側に長方形のライトがついた、シンプルな形の鏡台だ。それは昔お母さんが使っていたもので、今はメイク道具はかたづけられ、お母さんの写真がかざられている。うちには仏壇ぶつだんがないから、その代わりだ。お父さんとあたしはこれを「祭壇さいだん」とよんでいる。あたしたちはこの祭壇に毎日花を飾り、お母さんが好きだったアロマキャンドルをともして、おはようと、行ってきますと、ただいまと、おやすみなさいのあいさつをする。ときどき夜中にトイレに立つと、お父さんが祭壇の前にすわり、グラスを二つならべてお酒を飲んでいるのを見ることもあった。口には出さないけれど、あたしとお父さんは、この鏡の中にお母さんがいるつもりで生活しているのだ。

 お父さんは祭壇のライトをつけ、部屋の明かりを消すと、鏡台用の小さな丸いすにあたしをすわらせ、自分はその後ろに愛用のとういすを持ってきてすわった。あたしは祭壇に向かってすわらされているので、お父さんの顔は鏡ごしに見ることになる。不思議な感じがした。お父さんは目の前にいるのに、声は後ろから聞こえてくる。

「では、魔法の掟を教える」


          *

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