これは二人の英雄譚

 鼻孔をくすぐるのは花の匂いだろうか?

 背中におぶさったジネットの髪が揺れる度に、その香気はうっとりとさせてくる。下町やいかがわしい路地裏に立つ女たちのきつい香油の匂いとは違う。

 想像した通りに何かの花を使って作られたであろうソレは……そうか香水というものか。


 〈美しき者〉が修行の最中に時折使っていて、そのことを説明してくれたことを思い出す。元々は風呂に入らない習慣の国などで発展したものらしいが、今では中流以上の家庭に普及。中には薬として用いられることも……云々。

 それ以上の説明は覚えていない。覚えているのは、〈美しき者〉が言いたかった結論だけ。男どもに囲まれている私の鼻が気の毒だから、お前たちは香水ぐらい嗜め。

 

 そのキツイ言葉遣いと、それに応じた皆の嫌そうな顔を思い出して少しだけ唇が歪む。なんだかこの頃は同胞達が奇妙に懐かしかった。


 狂っているとしか思えない魔女が企む何か。その恐怖に光を当てて和らげてくれるものも魔女の手による出会い。俺の同類達。俺の過去。



「悲しいなぁ」



 知らず呟いた。

 自分でその言葉に驚いている。なぜ、そんなことを言ったのか? 脈絡が無いからこそ思う。これもまた、もしかして――



「何がですか?」



 後ろから来る声。それは突然奇妙なことを言い出した男を馬鹿にしてもいない。どこまでも真摯に、その続きを待っていた。



「ジネット。アンタは言ったな。苦しむ人々を救いたい。でもさ、その苦しみがどこかの誰かによって決められていたことなら? ずっと、ずっと、遠い昔に……そう生まれついて、そう生きて、そう死ぬ」



 俺はどこまでも普通の貧民だった。

 そして、あの日にどうでもいいことで崖から落ちて死んだ。


 ああ、そうだった。コウカという貧しい農村の青年は確かにあのとき死んでしまった。そのはずなのだ。

 だというのに、俺はまだ生きていた。おぞましく美しい、あの星見の魔女の手によって奇妙な箱庭に持ち去られた。



「悲しいな。苦しむように生まれた者は結局、そうなってしまうんだ」



 金が無い。力が無い。特別性も無い。

 だから苦しむ。かつての俺はそう思っていた。



「傷を癒やして、病を消し去り、糧を与えて、明日に繋ぐ。それだけやっても、苦しんでいる人は救われない。形か時間を変えるだけで、苦しみは再びやってくる」



 だが現実はこの通り。

 人造英雄として世の猛者達が羨むような実力を手にして、どんなに富貴を極めた者ですら持ちえない不死性を獲得した俺は……日々に齷齪している。

 何よりも、いつか天が落ちてきて、地が裂けて無くなるのでは無いかと不安で仕方がない。だって、世界にはあんな化物魔女が実在するのだ。

 人より優れたステージに上がった瞬間に、その者に降りかかる試練は相応しい難易度へと変わる。

 

 劣った者も、普通の者も、優れた者も、超人にも。苦しむと決まっているのなら、能力に見合った苦難が待ち受けている。幸せになれるのは、そう定められた者であって、そこに能力や身分の高低は関わりがない。


 歩いている足が覚束ない。俺はどこまでも〈半端者〉のはずで、高尚な考えなど無い。そのはずだ。

 俺は〈半端者〉。〈半端者〉。ならば……俺は〈コウカ〉では無いのか?



「悲しいな。結局、自分すら救えない俺はサエンザにはなれないんだ」



 とうとう相手が全く知らない名前さえ持ち出した。深々と吐いたため息が荒野へと流れて消える。


 結局。そう結局だ。


 それが〈半端者〉の願い。


 煌めく英雄。俺の対なる存在。〈完璧なる者〉……ああいう風になってみたいと願ってしまったのが原因にして原点。

 日々を生きていければ良いと思っていたのならとうに、それは叶っていた。身の丈に合う生活をした瞬間に本心から遠ざかったから幸せになれない。

 セネレもアマンダもいないこの場で、ふと溜まっていた淀みが口から出ただけなのだ。



「そんなことはありませんよ」



 忘れてくれ。そう言おうとした言葉を、優しく否定された。



「貴方は誰かを救える人です。コウカ様は街で私を助けてくれたじゃないですか」

「いや、あれは……」



 助けたと言えるのか?

 神器使いである彼女はあそこで元の居場所へと帰った方が、無難な生活を送れたはずだ。そしてこの国にとっても、その方がよかったはず。



「あそこでコウカ様に会わなければ、私は今も一人であの白い部屋にいたでしょう。それは苦しくは無いかもしれませんが、楽しくは無かったはずです」



 俺には良くわからない。一生を保障されているというのは、とても幸せなことではないのだろうか? 神器使いであるジネットは例え国が滅んでも、次の国や他の国の庇護下に入る道さえある。



「外がどうなっているのかも、分からないままでした。自分がやっているのが正しいことなのか、悪いことなのか……それすらも人任せにして生きて行ったでしょうね」



 後ろにいるので分からないが、彼女は微笑んでいる気がする。母親のような顔で、優しく赤子をあやすように。



「でも、これからは自分で見て決められます……ほら、見えてきました」

「ああ……そうだな」



 荒れ地に残る微かな道。消えかけたそれは確かに人里へと繋がっていた。

 小さな村だ。だが、フォールンにあることが信じられないような普通の村だった。炊事か何かの小さな煙が、夕日に照らされて見える。随分と長い時間歩いていたらしい。

 微かに笑い声が聞こえた気がした。子供が家に帰る声のようだった。



「ここに連れて来てくれたのもコウカ様です。なれますよ、きっと、サエンザに」



 ジネットはサエンザを何かの単語と勘違いしているらしい。だがそれを否定する気は起きなかった。

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