第2話 刻まれた三日間

「今日、遅くなるよ」

出掛けにそう言い残して、僕は家を出た。


 一昨日、僕はマックで盛り上がりすぎて、帰りが遅くなって母さんに怒られたんだ。

 遅いと言っても8時には帰ったんだけど、予め遅くなると言って出掛けなかったから心配させてしまったらしい。


 遅くなった原因は、初デートを何処にするかで揉めたから……。

 知花は映画を主張したんだけど、肝心のエリ子が港が見える丘公園が良いと言い、結局、本人の意見が通ったんだ。

 知花は、エリ子や僕よりも熱心で、必ず大成功に終わるデートでなければいけないと言っていた。まあ、有り難い話ではあるけど、僕は映画なんか観たこともないから、もし映画に決まっていたら、きっと何を観て良いのか凄く困ったことだろう。





「ごめんなさい、待ったかしら?」

「いや、今来たところだよ」

エリ子は待ち合わせの時間ちょうどに来た。

 僕は、今来たと言ったけど、実は30分も待っていた。


 土曜日の元町は人通りが多い。

 でも、道行く人の中で、エリ子ほどカワイイ人は何処にもいない。

 今日のエリ子は、薄いピンク色の春物コートに、紺色の起毛のベレー帽を被っている。このベレー帽がよくエリ子に似合っているんだ。


「あら、似合ってる? 嬉しいわ。帽子はこの通りの先の帽子屋さんで、つい最近買ったのよ」

「ああ、それも元町で買ったんだ。そのバックも元町だろう?」

「ええ、これもそうよ。あと、この春物コートも……」

「エリ子は元町が好きなんだね」

「そうね。お買い物は大抵元町だわ。でも、普段はお小遣いでは高くて買えないから、チャーミングセールで買うのよ」

「チャーミングセール?」

「半年に一回、2月と9月に街を挙げてセールをするの。今日も人が多いけど、その時は歩けないほど人が出るんだから」


 地元に住んでいるのに、僕は元町を歩いたことがなかった。この街は、女性のためにあるような街だから……。

 洋服屋にバック屋、宝石店に雑貨屋など、女性の好きそうな店が通りの両側を埋め尽くしている。僕が知っていたのは、せいぜいKのマークが付いた有名なバック屋くらい。エリ子もそれを持っていたので話に付いていけたけど、あとは全然分らない。





「ちょっと曲がるわね」

角にあるKのマークのバック屋のところで、エリ子はそう言って脇道に入った。

 ……って、Kのマークのバック屋は、何軒あるんだ? さっきも一、二軒見掛けた気がするんだけど……。

 などと思いながら後を付いていくと、小さな間口のパン屋にエリ子は入って行った。


「ここのパン屋さんは美味しいのよ」

「通りに何軒かあったパン屋は大きい店舗だったけど、ここは小さいね」

「ええ……、でも、元町のパン屋さんでバターを使っているのはここだけなの」

「そうなんだ……。良く知ってるね」

「食パンを予約してあって、ウチは毎朝ここのパンを食べるのよ」

「ああ、じゃあ、行きつけのお店なんだね」

「ここのおばさん、何かと言うとおまけしてくれるの。今も、私に会うのは久しぶりだから……、と言って50円おまけしてくれて」

エリ子はそう言いながら、パンの入った袋を見せてくれた。焼きたてなのか、袋が暖かい。


「本当は、私がお弁当を作りたかったのだけれど……」

「お弁当?」

「せっかく、健太郎と一緒にお昼を食べるのだから、手作りにしたかったの」

「……、……」

「でも、今朝、お弁当を作り出したら母に止められてしまって……」

「……、……」

「私の手つきがあまりにもおぼつかないから、今日は諦めなさい……、って。指に怪我をしたら大変だからなのだけれど」

「……、……」

「コンクールが近いから、それが終わったら手作りのお弁当にするわ。だから、今日はパン屋さんので我慢してね」

「……、……」

エリ子は手作りのお弁当でなくて、悔しそうだった。

 しかし、僕にはそんなのどうでも良かった。エリ子と二人で街を歩き、こうしてお喋りしているだけで楽しい。

 手を繋ぎながら歩くのは少し照れくさかったけど、エリ子の滑らかで細い指の感触はとても快かった。





 土曜日だと言うことで、港の見える丘公園は観光客が多かった。特に、海の見える側は人が多く、ゆっくりパンを食べる感じではない。

 そこで、僕らは庭園の方のベンチでパンを食べることにした。


「そうだ……、エリ子に言っておかなければならないことがあるんだけど」

「……、……」

ベンチに座ると、僕は、改まってこう切り出した。

 昨日からこれだけは言わなくてはいけないと思っていたんだ。


 これだけ……、とは、もう僕がサッカーを出来ない身体だと言うこと……。

 多分、エリ子の中の僕は、今でもフィールドを駆け回っているはずなので、そのイメージを壊すのは嫌だったが、言わないわけにはいかない。どうせ、何れは分ってしまうことだし……。


「実は、僕、もうサッカーはやっていないんだ」

「……、……」

「歩いていて分ったと思うけど、右足を故障してしまって……」

「……、……」

「試合で膝の皿を割ってしまって、今は足が曲がらない」

「……、……」

「エリ子が観てくれたようなプレーは、もう出来ないから……」

「……、……」

エリ子は黙って聞いていた。


「僕は、小さい頃からサッカーばかりやっていたので、今は何をやって良いのかわからないんだ」

「……、……」

「将来はサッカー選手になりたいと思っていたから、将来の夢もない」

「……、……」

「エリ子が思い描いているようなことは、多分、何も出来ないんだよ……」

「……、……」

「別に、騙していた訳ではないし、一昨日にも言おうと思ったんだけど……」

「……、……」

「期待を裏切ってごめんね」

「……、……」

「今日、これだけは言っておきたくてさ」

「……、……」

エリ子は庭園を見つめて、ジッと僕の話を聞いている。きっと、無反応なのは、失望したからだろう。夢に向かって頑張っているエリ子と、その資格を失った僕では釣り合いが取れない。


 エリ子と付き合うことが決まった直後は、僕の目の前は光り輝いているような気がしていたんだ。望外のことが、すべて自分に都合良く進んでいたから。

 しかし、一晩明けて、リハビリに行かなくてはいけない現実を思い出して、エリ子とどう向き合って付き合えば良いのか分らなくなった。

 悔しいけど、今の僕はエリ子とは対等じゃない。カワイイし、スタイルも良いし、頭も良くて、しかもピアニストになると言う夢のあるエリ子と、何もないどころか、翼をもがれたような僕……。


 少し冷たい風が、ベンチで座る僕らに吹いている。





「私、サッカーのことは、本当に何も分らないの……」

「……、……」

少しの沈黙の後、エリ子は話し出した。


「でも、私にも分ることはあるわ」

「……、……」

「それは、健太郎が一生懸命サッカーに取り組んでいたこと」

「……、……」

「きっと、毎日練習して、夢を実現させようとしていたと思うの」

「……、……」

「技術的なことは分らなくても、私にはその気持ちが伝わったわ」

「……、……」

「だから、私は健太郎に惹かれたのだと思うの」

「……、……」

「確かに健太郎は格好良かったけど、それだけでは惹かれなかったかな?」

「……、……」

エリ子は話を区切ると、僕の方に向き直った。その瞳はわずかに潤んでいるように見えた。


「私には目標も夢もあるわ。だから、健太郎の苦しさは分らない。でも、あなたが夢を追っていた姿を私に見せたように、私も夢を追っている姿を見せることは出来る」

「……、……」

「次のコンクール、私、精一杯頑張るわ」

「……、……」

「健太郎は、それを観に来て。そして、次の夢を一生懸命探して」

「……、……」

「私、健太郎が次の夢を探したくなるようなピアノを弾くわ」

「……、……」

「約束して……。コンクールを観に来ると」

「……、……。うん」

てっきり、愛想を尽かされると思っていた。

 それに、隠していたから責められるのも怖かった。

 後ろめたい気持ちが多かっただけに、エリ子の前向きなエールは僕の心に染み渡るようだった。


 そう……。今までの僕はサッカーがすべてだったけど、これからもそうじゃなきゃいけないってことはないよね。今は何がサッカーの代わりになるのかは分らないけど、何もないって決まった訳ではないんだし。


 僕にピアノが分るとも思えないけど、とにかくエリ子の演奏を聴いてそれから考えよう。ちょうど高校に入ることだし、区切りだと思うべきだよね。





「ごめんなさい……。話していたら、すっかりパンが冷えてしまったわ」

「でも、この白身のフライを挟んだの、美味しいよ」

「あ、それは、パン屋さんのご主人が東京湾で釣ってきたカワハギよ。ご主人はあの界隈では有名な釣り名人なの」

「あはは……。寿司屋とかならありそうだけど、パン屋で釣ったモノを使うって聞いたことないね」

「そうなの。他にも、イカを釣ってくるとやはりフライにしてパンに挟んであるわ」

「本業のパン屋としても優秀で、釣り名人って凄いねえ……」

僕らはペロッとパンを三つずつ食べてしまった。僕は結構食べる方だけど、細身のエリ子がしっかり食べるのは少し意外だった。





 どのくらいそうして話していただろう?

 他愛のない話も、お互いの学校のことも、友人のことも話した。


 話せば話すほど、僕はエリ子が好きになった。

 もっと、女性的でナイーブな性格かと思っていたけど、とても割り切りの良い男性的な考え方が僕には心地良かった。

 例えるなら、サッカーの試合が終わった後、相手チームの選手と健闘を讃え合うような、気持ちの交流が出来たと思う。


 女性と付き合うって、こんなに楽しく前向きになれることだったのか。いや、これは女性だからではなく、エリ子だからなのだろう。


 海から吹いてくる風が寒く、座っているのが辛くなるまで、僕らは飽くことなくベンチで話し続けた。


 何が変わった訳ではないけれど、僕の中に新しい何かに踏み出す自信がついたような気がしていた。





「ちょっと寄りたいところがあるのだけれど……」

港が見える丘公園を出て、外人墓地の坂を下った辺りで、エリ子はそう言った。

 次に何処へ行ったら良いか分らない僕としては、有り難い提案だった。


「こっちよ……」

エリ子は、ランジェリーショップの脇を通り抜け、ビルに入っていく。僕が、目のやり場に困っているのを見て、くすくす笑いながら……。


 ビルに入るとすぐに、ドレスを着たマネキンが置いてあった。エリ子は前で立ち止まると、そのドレスをしげしげと見つめた。

 ドレスは、赤くしっとりと光る生地だった。袖がなく、両肩が出ていて、全体に身体の線が出る感じだ。


「私、今度のコンクールでこのドレスが着たいの」

「……、……」

「少し、大人っぽいかしら? 私には」

「……、……」

僕には何とも言えなかった。ドレスと言えば、お姫様が着るようなスカート部分が拡がっているのしか、僕には思いつかない。

 だけど、これは膝の部分までが窄まっていて、裾だけが拡がっている。


「これは、スペインの踊り子が着るような感じだね」

色々と頭の中で思い浮かべ、ようやく僕が言ったのはこの一言だった。

「そう、そうなのよ。凄く情熱的なドレスなの。私、今度の課題曲は荒々しく情熱的な感じなの」

「じゃあ、曲の感じには合っているんだね」

「でも、私に似合うかが問題で……」

「……、……」

「着て幼く見えてしまったら、このドレスの魅力も、曲の感じもぶち壊しなのよ。だから、健太郎に聞いてみたかったの」

「……、……」

そう言われても、僕にはやはり何とも言えなかった。だって、エリ子がこのドレスを着たところを想像出来ないから……。





「良かったら着てみます?」

いつの間にか、僕とエリ子の隣には、中年の女性が立っていた。ドレス屋の店員なのだろう。

 小柄で、親しみやすそうな微笑みを浮かべた女性は、上品なスーツ姿だった。


「いえ、私、お金を持っていないので……」

「何回もこのドレスを見てらしたわね。いつもは制服姿でしたでしょう?」

「はい……。今度の演奏に着たいと思っていたので」

「何を演奏するの?」

「ピアノです。コンクールがあるんです」

「そのお歳でコンクールに出るのなら、かなりお上手なのね」

「いえ、まだまだなんですけど……。でも、格好だけでも一人前になりたくて」

「きっと似合うわ。あなたは色が白いから、サテンの赤が映えるわよ。サイズは少し大きいですけど、それはお直しさせて頂きますし」

「……、……」

「ドレスは出逢いなんです……」

「……、……」

「同じ物が何着も作られているわけではないから、出逢った時に着なかったら、もう永遠に逢わないかもしれません」

「……、……」

「それに、高い買い物ですので、着たら必ず買えなんて言いません。似合ってどうしても……、って気持ちになったら、それから決めれば良いのですから」

エリ子は着てみたくなったのだろう。うっとりとドレスを眺めている姿から、それは察しられた。

 ただ、やはり、お金を持っていないので、抵抗もあるようだ。


 僕は、店員の女性の、ドレスは出逢い……、と言う言葉が印象に残った。確かに、ユニホームやTシャツはいつでも同じ物が買えるけど、ドレスはそうはいかないだろう。

 それと、永遠に逢わない……、と言う言葉にもドキッとした。

 僕とエリ子も、偶然が積み重ならなければ、出逢ってはいないだろう。故障してリハビリに行かなければ、バスにも乗っていない。そうだったら、エリ子を見掛けることもなかったのだから……。





「着させてもらったら?」

「……、……」

僕は、迷っているエリ子に、着ることを勧めた。

 店員の女性は、辛抱強くエリ子の結論を待っている。


「母に相談してみるわ……」

「ああ、それが良いよ」

ドレス屋の隣には、おあつらえ向きに公衆電話があった。


「気に入ったら、お取り置きさせてもらいなさい……、って母が言ってくれました。すいません……、お待たせしてしまって。着させてもらって宜しいでしょうか?」

「どうぞ……。今、支度をしますからね」

電話を掛け終え、戻ってくると、エリ子は試着することを店員の女性に告げた。

 エリ子の母は、後でお金を払いに来てくれると言っているらしい。


 エリ子が試着室に入ると、店員の女性は服を脱いで待っているように指示し、手早くマネキンからドレスを脱がした。

 僕は椅子を勧められた。ドレスばかりの店内で、一人で座っているのは、何となく落ち着かない。……と言うか、僕が店内にいるのは場違いに感じる。





「では、開けますね」

店員の女性はそう言うと、天幕のような試着室のカーテンを開けた。


「どうかしら……?」

大鏡の前で、エリ子は呟いた。ジッと、ドレスを着た鏡の中の自分を見つめている。


 僕は、ドレスを着たエリ子を呆然と見ていた。だって、さっきまでいたエリ子とはまったく別の人がそこに立っていたから……。

 鏡の中のエリ子は、ポーズをとっている訳でもないのに、ファッション雑誌のグラビアかテレビの画面の中の人のようだ。

 僕はこのドレスを、スペインの踊り子が着る……、と言ったが、鏡の中の人は、僕のイメージよりもっとずっと気品に満ちあふれていて、それでいて情熱的な雰囲気を醸し出していた。


「お客様自身は、どうお思いになられます?」

「赤いドレスって初めてなんですけど……。私がこんな大人っぽいドレスを着られるとは思わなかったです」

「そうですね、とてもお似合いです。まるで、ドレスがあなたを待っていたかのように感じます」

「ええ……。自分で言うのも何ですけど、私、凄く綺麗だわ。丈もちょうど良いですし……」

「胸が少し大きいので、詰めましょうね。そう……、2㎝くらいかしら。ちょっと失礼しますね」

「……、……」

「舞台でしたら、髪を上げても良いかも知れません。こんな感じで……」

「……、……」

女性の店員は、手早くエリ子の髪の毛をまとめると、髪留めで留めた。


「健太郎……。どう……、似合ってる?」

「……、……」

エリ子は少し恥ずかしそうに言った。

 似合ってるを通り越して、いつもドレスを着て暮らしているかのように自然だった。

 白い肩から伸びる滑らかな細い腕も、上げた毛から零れたほつれ毛がアクセントになっているうなじも、何もかもが作られたようにドレスと融け合っている。


 ただ、僕は少し怖かった。

 こんなに美しいエリ子が、大勢の人の前で演奏したら、何処か遠くへ行ってしまうような気がしたから……。出来れば、僕の前だけでドレスを着て欲しいとさえ思う。





「私、これに決めます」

「そうね、今はこれ以上のドレスには出逢わないと思います。仕事柄、年中ドレスを着た方を見ていますけど、こんなに似合っていると感じるのは、年に何回しかないかもしれないです。それくらい似合っていますよ」

「ありがとうございます」

「思い切って着て良かったですね」


 エリ子はしばらく鏡の中の自分を見つめ、名残惜しそうに天幕の中に消えていった。きっと、まだ着足りなかったのだろう。

 僕はドレスを着たことがないけれど、気持ちは分るような気がした。





 ドレス屋の入っているビルを出ると、辺りは暗くなっていた。


 僕らは人がまばらになった元町を歩きながら、あの赤いドレスのことについて話し合った。

 僕は、ドレス屋では何も感想を言えなかったけど、二人になったら不思議と似合っていることを褒める言葉が次々と出てきた。

 ただ、僕の前だけで……、と言うのは言わなかった。僕の頭の中には、エリ子が赤いドレスを着ている姿がしっかりと焼き付いていたから……。それに、照れくさくて、そんなことを言う訳にはいかないよ。





「本当は夕食も一緒に食べたかったのだけれど……」

エリ子は残念そうにそう言った。でも、今日は帰った方が良いって僕が言ったんだ。

 だって、あんなに似合うドレスを着るのだから、いっぱいビアノの練習をした方が良いと思ったから……。


 ただ、夕食を一緒に食べなかった代わりに、今日の夜、電話で話すことを約束した。次のデートは、何処に行くかを決めるためにね。

 ピアノの練習を終えたら、エリ子が電話してきてくれるそうだ。

「少し遅くなるかも知れないけど、寝てはダメよ」

と言われた。

 もちろん、僕が寝る訳がない。

 夕食も風呂もしっかり済ませ、勉強でもしながら待とうかな? あ、勉強なんかしたら眠くなっちゃうか……。





「今日は楽しかったわ」

「うん、僕もだよ」

僕は、エリ子を石川町駅まで送って行った。


 改札口に入ったのに、エリ子は階段を上りながら何度も僕を振り返って手を振った。

 僕はそれを見えなくなるまで見送っていた。





「何か良いことでもあったの?」

夕食を食べていると、いきなり母さんにこう言われた。

 何もない……、と答えておいたけど、

「そう? そんなに嬉しそうにご飯を食べるのは久しぶりに見たわよ」

と言われてしまった。

 ……と言うか、僕って、普段はそんなに無愛想なんだろうか?


 まあ、普段と違うのは僕にも分っている。だって、こんなに気分がウキウキすることなんて滅多にないんだからさ。

 さっき別れたばかりだと言うのに、もうこんなに電話が掛かってくるのが待ち遠しくて仕方がないなんて……。そりゃあ、母さんにも分ってしまうよなあ。





 予定通り、ご飯と風呂を済ませ、僕は眠くならない程度に勉強をした。……と言うか、勉強をしててもちっとも眠くならないんだ。おまけに、物凄く捗るし。

 いつもなら得意な数学が終わるとやる気がなくなるのに、今日は苦手な英語だっていくらでも出来る気がする。


 でも、10時を過ぎても、エリ子からの電話は鳴らなかった。

 10時半になって、電話が気になりすぎて勉強を止めても、電話は鳴らない。

 少し遅くなるかもと言っていたから、もうちょっとしてからかな……?





「プルルルル……」

11時半になって、ようやく電話が鳴った。もう家族は寝てしまっていて、起こすとお小言をもらいそうなのですかさず電話をとった。





「私、知花だけど分る?」

「えっ……?」

「エリ子が……、エリ子が……」

「……、……」

エリ子ではなかった。それにしても知花が何故? 


 知花は何かを必死に言おうとしているのだが、言葉にならないようだ。どうも、かなり感情的になっているらしい。





「伊藤さん、落ち着いて聞いてね」

「……、……?」

「エリ子が……」

「……、……」


「エリ子が亡くなったわ……」

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