三月の風に吹かれて
てめえ
第1話 陰鬱たる中で……
病院に毎日通うのは面倒だ。しかも、バスでなんて……。
膝さえ故障していなかったら、自転車であっという間に着く距離だし。
まあ、膝のリハビリに通っているのだから、自転車に乗れるくらいなら、そもそも病院には行かないんだけどさ……。
故障してなければ……。
僕は何度同じことを思ったことだろう。そのせいで長年やってきたサッカーも辞めた。
僕にとって、サッカーは命だった。将来は、Jリーガーになって輝けるピッチに立ち颯爽と活躍する姿も、今では絵空事になってしまった。
こんなことを言うと、夢見がちな少年の戯言だと思われるかも知れない。プロサッカー選手になるなんて、とんでもない才能と努力、それに実績が必要で、お前にそれが満たせるのか……? とね。
でも、僕は、地元Jリーグチームのジュニアユースでレギュラーだったし、これからも頑張ればJリーガーになることは夢ではなかった。ひいき目なしにこれは事実だ。代表選手になれるほどかは分らないけどね。
まあ、何回も言うけど、膝の故障さえなければの話さ……。
今の僕の右膝は、ボルトが入っていて曲がりもしないけどさ。
せっかくの春休みだと言うのに、毎日リハビリで病院に通うだけなんて、虚し過ぎる。
あ、春休みじゃなかった……。
僕は中学を卒業して、四月から高校に入るんだった。とは言っても、6年制の学校だから、受験もなければ卒業式も形ばかりだ。学校が始まれば、また見慣れた同級生の奴等と顔を合わせることになる。
男子校だから浮いた話もないし、それこそ部活にでも入らなかったら毎日が退屈に過ぎるだけだろう。
僕は、中学では部活に入っていなかった。当然だよね、クラブチームでのサッカーがあったから……。
今まで熱中してきたことは、サッカーだけ。テレビを観ても、芸能人の顔もろくに知らないしさ。面白いアニメや漫画もあるみたいだけど、それも良く分らない。話題に付いていけないから、学校の友達も少ないしね。
一体、何のために僕は生きているんだろう? リハビリだって、サッカーが出来なきゃ意味無いのに……。
バスはちっとも来ない。そして、来てからも、のそのそと進むだけだ。
さっきも、乗るまでに10分も待った。
乗ってからも、平日の昼間だから、そこにいるのは老人ばかりだし。外を見ても気を引くような景色もない。
ほら、あの角のコンビニはいつでも開いているし、道行く大人はせっせと先を急ぐだけだよね。
あと10分もこんな退屈なバスに乗っていなければならないなんて……。しかも、リハビリを終われば同じように帰って来なければならない。
今日の晩ご飯は何だろう? まだ、午前中だって言うのに、そればかりが気になる。昨日は野菜炒めだったけど、今日はカレーが良いなあ……。
母さん、最近、仕事が忙しくて、晩ご飯を作るのが遅い。顔を合わせれば勉強しろってうるさいけど、それくらいは僕も分っているよ。だって、勉強でもしてなかったら、時間が進まないからさ。
何もしない……、何も出来ない……、よりは、勉強でもしていた方がちょっとはマシさ。
……と、思っていたんだ、一昨日までは。
いや、今でもあまり変わってはいないけど、この退屈なバス通院で、一つだけ楽しみを見つけたんだ。
誰にも言わない、僕だけの楽しみを……。
あれは、元町の停留所を出てすぐのことだった。
石川町駅から繋がるリセンヌ小道を抜けたところに、一人の女の子が立っていたんだ。きっと、信号待ちをしていたんだろうな。周りにも人はいたんだろうけど、バスの中の僕にはその女の子だけが光って見えた。
バスが走り去る一瞬だったのに、僕はとても鮮明に女の子を捉えた。
女の子は、紺にエンジのセーラー服を着ていた。確か、有名なお嬢様学校の制服のはずだ。頭が良くないと入れない、僕なんかには縁のない女子校だから、今まで気にも留めたことがなかったけど、その女の子にだけは目が釘付けになったんだ。
どうして女の子にだけ目が行ったのかは、僕にも分らない。綺麗な長い髪も、切れ長な優しそうな目も、細く動くと折れてしまいそうな肢体も、魅力的なことに間違いないけど……。
でも、そんなことじゃないんだ。何というか、母さんや学校の先生にもない、清らかな雰囲気が僕の目を引きつけたんだと思う。
一昨日の朝、見掛けて、昨日も彼女はそこにいた。
今日もいて欲しいと願いながら、僕はいつもと同じ時間のバスに乗ったんだ。
バスはいつものようにトンネルに入った。ここを抜けるとすぐに元町の停留所だ。
僕の胸がドクドクと響くような音を立てている。
「いた……」
ツイてることに、今日はバスが信号で止まってくれた。フロントガラス越しに見える彼女は、横断歩道を渡っていく。
う、動いている。いつもは立っているのを一瞬眺めるだけなのに……。
僕は、彼女が渡り終え、姿が見えなくなるまで見守った。
遠ざかる彼女の後ろ姿には、柔らかそうな髪が風でたなびいていた。
リハビリから帰って来ても、僕のドキドキは止まらなかった。
三日も連続で遇えたし、今日は歩いてもいた。そして、僕と彼女を隔てていたのは、フロントガラス一枚だけだった。バスを飛び降りれば、触ることだって出来ただろう。
触ることだって……。
そう考えたら、いても立ってもいられなくなった。
そうだ、僕がバスを降りれば彼女をもっと近くで見られる。どうしてこんなに当たり前のことに気がつかなかったんだろう?
晩ご飯になっても、明日、バスを降りて彼女を近くで見ることしか頭になかった。だから、今日の晩ご飯が何だったかも覚えていない。
母さんが何かを言っていたけど、適当に相づちを打っただけだし……。父さんが仕事から帰ってきたのも知らない。
サッカーの試合以外で、明日がこんなに気になったことは今までにない。暇を持てあまし、毎日、時間が過ぎることが苦痛だった一昨日までが嘘のように、僕は彼女に夢中になっていた。
翌朝、僕は一つ前のバスに乗った。もし、バスが遅れでもして、彼女が信号を渡ってしまってからでは間に合わないから……。10分も前に着けば、気持ちの落ち着いた状態で待てるだろうし。
しかし、バスを降りてみて、僕は重大な失敗に気がついた。彼女が来るまで、何回も信号をやり過ごさなければならないことに……。歩道で一人居続けることが、とても不自然なことにも……。
ただ、10分待てば良いのだ。それだけ待てば用は済む。明日からはやはりいつも通りのバスに乗ろう。
そう思い、とにかく心を落ち着けることだけを最優先に、信号待ちをすることにした。
ああ、ちょうど信号が変わる。とりあえず、財布でもポケットから探すふりをして一回目はやり過ごそう……。
まだ時間はある。落ち着け……。
何気なく、僕は隣を見た。人の気配がしたから……。
今、信号待ちをしているのは、僕と隣の人だけ……。
しかし、僕は隣の人を看て、目を見張った。
そこには、彼女が立っていたから……。
信号が変わった。
彼女は歩き出そうとした。
僕はまだ彼女を至近で見る心構えが出来ていない。
「待って……」
心の中でそう叫ぶ。
おかしい……。どうして、今、彼女がいるの?
そう思った瞬間、僕は彼女の手を掴んでいた。心の中でもう一度、
「待って……」
と叫びながら……。
「あの、何か?」
「……、……、あ、いや……」
彼女は怪訝そうな顔で僕を見つめている。
「手を離して下さいません?」
「ご、ごめん」
僕は握っていた手を慌てて引っ込めた。痛かったのか、彼女がその部分をさする。
何か言わないと……。このままでは彼女が行ってしまう。
「今日の5時、あそこのマックで待ってる。話があるんだ……」
「……、……」
とっさに、僕は元町の入り口にあるマクドナルドを指さし、口走った。
しかし、彼女は何の応えもなく、僕の方をキッと睨むと、足早に横断歩道を渡って行った。
僕は呆然と、その走り去る後ろ姿を見送っていた。
その後のことは、あまりよく覚えていない。どうやって病院に着いたのか……。そして、リハビリで何をやっていたかも……。
僕の中には、ただただ後悔があるだけだった。
とっさのこととは言え、何故、手を掴んでしまったのだろう?
マックに誘ったのは良いけど、そこで何を話せばいいのかも分らない。
それより、あんな強引なことをしたら来てさえくれないに決まっている。
リハビリが終わり、一度家に帰ったが、僕の頭の中には後悔だけが巡っていた。
5時まではまだ3時間もある。その間、僕はどうやって過ごせば良いのか分らず、自室のベットの上で頭を抱えるのだった。
とにかく、マックには行こうと決めた。当然だ、僕が誘ったのだから。
ただ、何を話して良いのかについては、まるで見当も付かなかった。いっそ、来ないでくれたら……、とさえ思う。
あのとき、彼女は明らかに怒っていた。
怒らせることをしたのだから当然だけど、それについては謝りたかった。悪意があったのでもなく、やましい気持ちがあった訳でもないのだから……。
マックには、4時半には着いてしまった。来ないで欲しいと思いながらも、万が一来れば、謝るチャンスが訪れる。そして、謝れば、更に万が一の可能性で許してくれるかもしれない。
その少ない可能性が成就するのには、せめて早く行っておかなければ……、と、勝手な理屈を思い描いていたのだ。
しかし、僕にも分ってはいた。そんなに自分に都合の良いことなんて、起らないことは……。
案の定、5時を回っても彼女は来なかった。
僕の頼んだハンバーガーとポテト、コーラのセットは全部なくなっている。
トレーの中の残骸を眺めながら、それでも6時までは待とうと決めた。
「あの人じゃない?」
甲高い声が響いたのは、5時半になる頃だった。声の方を見ると、ポニーテールの女子校生と目が合った。彼女と同じ制服だ。そして、その後ろから彼女が顔を出した。
ポニーテールの子は、僕に近づくとおもむろに二人席の机を寄せて四人席にした。
「遅くなってごめんなさい」
彼女はそう言って僕の正面に座る。ポニーテールの子はその隣に座り、後から来たショートカットの子が、トレーを置きながら僕の隣に座った。
「あ、朝はごめん……」
「いえ、こちらこそ驚いてしまって」
これはどういうことなんだろう?
僕には自分に何が起っているのか分らなかった。だって、朝はあんなに怒っていたのに……。
「ほら、エリ子。名乗らなきゃ」
ポニーテールの子が、彼女を急かす。
「私、綾瀬エリ子です。初めまして……。今度高等部に上がります」
「あ、僕は、伊藤健太郎です。僕も4月から高校なんだ」
「ええ、伊藤さんのことは存じてましたわ」
「えっ? 僕のことを?」
「うふふ……、サッカーの試合でお見掛けしたことがあって……」
「試合で?」
「私のいとこがサッカーをやっていて、あなたのチームと対戦したことがあるんです。伊藤さんは、4番を付けていたでしょう?」
「ああ、そんなことまで知ってるんだ」
「私が観ていた試合では、シュートも決めてらしたわ」
「……、……」
なんて言う幸運……。そして、なんて偶然なんだろう。
同級生だって、僕がサッカーをやっているのを知らない奴だっているのに。それが、こちらが一方的に興味を持った、全然違う学校の子が知っているなんて。
僕はディフェンダーだから、シュートを決めた試合なんてあまりない。……ってことは、あの試合のことかな?
「エリ子ったら、今日は一日、興奮のし通しだったんだから。あのサッカーの人に声を掛けられた……、ってね」
「知花ったら、そんなことまで言わなくても……」
「あら、良いじゃない。だって、エリ子だって嬉しかったんでしょう?」
「嬉しいと言うか、驚いたわ。だって、突然なんですもの」
「その試合でも、伊藤さんばかり見ていたって言ってたものね」
「ええ、相手の攻撃を全部防いでしまうのよ。私はあまりサッカーって良く分らないけど、いとこのチームの人達とはレベルが違ったのは分ったわ」
僕は、呆気にとられていた。
ポニーテールの子は知花と言うらしいが、僕に都合の良い話ばかりをエリ子に振ってくれる。……と言うか、僕が今日一日悶々と過ごしたのは何だったんだろう?
訳も分らず手を握り、一方的に話しかけて失敗したと思っていたのに……。
「ところで、伊藤さん、話って何だったの?」
知花はすっかり話の主導権を握っていた。
「あ、それは、とりあえず謝ろうかと……」
「ああ、手を握ったことね。そうよ、エリ子の手をギュッと握ったらダメなんだからね」
「ごめん、悪かったよ」
「エリ子の手は、特別なのよ」
「特別?」
「エリ子は、将来、ピアニストになるのが夢なの。今でもコンクールに出ているのよ」
「……、……」
「だから、手をギュッと握ったら、指が曲がっちゃうかもしれないでしょう?」
「そ、そんなに繊細なんだね」
「そうよ。ほら、見れば分るでしょう? 細くて滑らかなの」
「そっか、それで朝は怒っていたんだね」
エリ子は手を広げてみせてくれた。
確かに滑らかだ。そして、スラリと長い。
「別に、怒ってはいなかったの……。でも、いきなり握られたからビックリしてしまって……」
「いや、僕が無神経だったよ。そんなに大事な手だとは知らなかったんだ」
「大事と言うか、普段から気をつけてはいるのね。変な風に曲がったら嫌だから……」
「……、……」
エリ子の手は、僕の足と同じなんだろう。夢を実現するための、なくてはならない大事なパーツ……。
僕にはピアノがどれほど素晴らしいモノかは分らないけど……。
「ねえ、伊藤さん、話したかったことってそれなの?」
「……、……、ああ、それは、……」
知花は、ついに聞いて欲しくないところに切り込んできた。
話したかったことなんて、何もない。ただただ、エリ子の側に寄って、近くで見てみたかっただけなんだ。
でも、それをどう伝えたら良いのだろう?
せっかく、こんなに親しく話せているのに……。
「実は……」
僕は、全部正直に話す気になった。いや、正直に話すしかないと思ったんだ。
エリ子だって、僕を知っていたことをちゃんと話してくれたじゃないか。僕だって、偶然エリ子を見つけただけだ。全然、恥ずかしいことはない。
「それって、エリ子を待っていたってこと?」
「うん、まあ、そうだよ」
「本当にバスの中から見掛けただけなの?」
「うん……」
「エリ子がいつもと違う時間にいたので、驚いて手を握っちゃったの?」
「うん……」
僕の告白を聞いて、知花は信じられないと言う顔で、僕を質問攻めにした。
エリ子は呆れたのか下を向いていて、表情が見えない。
「これってさあ、運命よ」
「……、……」
「だって、二人が無限の可能性からお互いを選んだのよ。しかも、二人とも相手が自分のことを知らないと思っていたのに……」
「……、……」
「ねえ、エリ子、伊藤さん、そう思わない?」
「……、……」
「これ、付き合っちゃうしかないよ。絶対に……」
「……、……」
知花は一人で興奮していた。
エリ子は相変わらず下を向いたままだ。
僕は、不思議な気持ちで知花の話を聞いていた。女の子って、そういう考え方をするんだなあ、と心の中で思いながら……。
それにしても、付き合う……、って。僕にはそんな経験もないし、付き合うって、そもそも、何をすれば良いんだろう?
「知花、いい加減にしなさい」
突然、僕の隣に座っていた、ショートカットの子が鋭く言った。
「だって、こんなにドラマティックなんだから……」
「そういうことじゃないでしょう? ほら、あなたが喋っていたら二人の気持ちが聞けないじゃない」
「……、……」
「エリ子、あなたの気持ちが大事なのよ。どう? 伊藤さんのことずっと気になっていたんでしょう?」
ショートカットの子は、エリ子の肩を優しくなでた。促されるように、エリ子が顔を上げる。
エリ子の顔は真っ赤だった。さっきまで、白磁のような白い頬をしていたのに……。
「私も……、運命だと思うわ」
「……、……」
エリ子は、少しかすれた声で言った。僕の目を真っ直ぐ見据えている。
「ほら、私が言った通りでしょう? これで決まりね。二人とも、おめでとう」
「もう、知花ったら……」
「良いのよ、エリ子、照れなくても……。素晴らしいことじゃない、羨ましいわ」
「伊藤さん……。いえ、健太郎君って呼んでも良い?」
「ダメよ、そんな他人行儀な呼び方じゃ。ねえ、伊藤さん、健太郎って呼び捨てで良いでしょう?」
「ちょ、ちょっと、知花ったら……」
エリ子は、本当に嬉しそうにしてくれている。驚きを通り越して、何もリアクション出来ない僕だけど、嬉しそうにしているエリ子を見ているだけで、僕も嬉しい。
「健太郎で良いよ。僕も、エリ子って呼んでも良いのかな?」
「ええ……」
それからしばらくは、知花の独壇場だった。良く喋り、良く笑い、そして、最後には感極まって泣いていた。
エリ子も、ショートカットの子も、つられるようにもらい泣きしていた。
僕は、さすがに泣かなかったけど、泣きたいほど嬉しかった。
僕は、嬉しくても涙が出ることを、今日、初めて知った。
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