待ち遠しいこと
彼女と同棲を始めて二年半年が過ぎた。
その間、彼女のご両親へ挨拶に行き、昨年の四月には婚姻届を出し、八月にはブライダルフェア巡りをして、そしてついに昨年末には結婚式を挙げたのだ。
年明けに新婚旅行にも行って、ぼくは今、幸せでいっぱいなのである。
しかし。今日はあの憂鬱で仕方がない二日が、一年ぶりにぼくの前にやってきたのである。
そう。採便だ。そして一週間後にはバリウム検査もあるのだ。
やり方を知った二回目といえ、憂鬱なのは変わりない。
「今年もまた健康診断のお知らせきたよ」
「お。それはもしかして……うんこ採取?」
「そう、それー。ほんと憂鬱」
「わぁ、懐かしいね」
「そうそう、もう一年経ったんだよ」
「うんこ採取のせいで、ブライダルフェア遅れてきたね」
「え? あ、そうだったね」
この日、ぼくが検便に手間取ったせいで、午後に予定していたブライダルフェアの集合時間に遅れてしまったのだった。
しかし結果的にそれが良かったのか、その会場で式を挙げることになったのである。
「あ、そうだっ!」
彼女はひゅーんと寝室へ行くと、茶色いウツボのような姿のラブカのぬいぐるみを持ってきては、くねくね動かし、
「やあ、ぼくはうんこ。頑張って、ぼくを採取してね!」と嬉しそうに話した。
「捕まえてやるー」
「きゃあ、捕まるー」
彼女が笑う。ぼくも笑う。変わらない。いつまでも変わらない幸せ。それが本当に嬉しかった。
「今年も私、家空けておいた方が良いの?」
昨年は採便をする日に、彼女に家を空けてもらった。初めてということもあって、彼女がいたのでは恥ずかしかったからだ。
でも、今年はちょっと事情が異なる。相変わらず恥ずかしいのは変わりないけど、彼女に無理はさせられない。
「ううん、大丈夫。家にいていいよ」
「わかった。ありがとう」
こうして二年目の検便は、彼女がいるなか採ることになった。
きた。彼女とのんびりと過ごしていると、便意が主張し始めた。
「ちょっと、行ってくる」
「ん、どこ? コンビニ?」
ぼくの言った意味が彼女には伝わらなかったみたいだ。
「いや、トイレ」
「あぁ、うんこね。いってらっしゃーい」
ぼくが直接的な表現を避けているのに、彼女はあっけらかんと「うんこ」と言う。それがまた彼女らしい。
ぼくは部屋を出て、検便キットを持ってトイレに向かった。
昨年はトイレの前で下半身裸になり、トイレの扉も開けたままで、割と自由に行ったけど、今年は彼女のいる部屋からトイレが見えてしまうので、そうも行かない。
ぼくはトイレの扉をしめて、採便を始めた。
「どうだった?」
部屋に戻ると、彼女がニヤニヤしながら訊いてくる。
「ちゃんと、採れたよ」
「へぇ、いいなぁ……」
いつもなら「うんこ、出たの?」と、はしゃぐところなのに、彼女は少し悲しそうに言った。
「……ぜんぜん、ダメなの?」ぼくは彼女に訊いた。
「うん……。今日で三日目」
「そっか。すぐ出ると良いんだけどね」
「めまいもするし、結構つらいー」
実は、彼女のお腹には小さな命が宿っているのだ。妊娠初期にあたる三ヶ月目に入っていて、つわりと便秘がひどくなってきているらしいのだ。
妊娠中のつわりはぼくも知っていたけど、便秘になることは知らなかった。
なんでも妊娠するとホルモンの影響によって腸の動きが悪くなるそうだ。それから子宮が大きくなり腸が圧迫されることや、つわりがひどくて水分や食べ物をあまり摂らなくなることで、便秘になりやすいという。
確かに彼女のつわりはひどいようで、特に匂いに敏感になり、食べ物の匂いで吐き気を誘い、嘔吐してしまうことが何度かあった。
そのため調理した物よりも、イチゴやバナナなどのフルーツかサプリメントを摂ることが多いのだ。
「眠くなってきたー。ちょっと寝るー」
彼女はそう言うと、読んでいた雑誌をテーブルの上に置き、部屋に入っていった。眠気もつわりのひとつである。
ぼくは彼女の置いていった雑誌を手に取る。妊婦向けの雑誌である。彼女を支えられるようぼくもいろいろ勉強しなくては。
リビングルームの椅子に座り、雑誌を読み始めた。
採便から一週間が経ち、先ほど健康診断も無事に終わった。
バリウムは一年前と比べて、粘度が控えめになってサラサラ飲みやすかった気もするし、検査自体もスムーズに終わった気がする。
それでもやっぱり苦手なものは苦手で、また来年もあるのかと思うと、今からもう憂鬱である。
――健康診断終わったよ
さっそく彼女に報告するとすぐに返事が返ってきた。
――お疲れー
――バリウム、やっぱり慣れないね
――下剤飲んだ?
――これから飲むよ
――良いなぁ。ちょーだい
彼女の便秘は続いているようで、今日も二日目だと言っていた。
妊娠初期なので便秘薬は控えた方が良いらしく、便秘解消には食物繊維の多い食べ物を摂取する必要がある。けれど吐き気もあってなかなか食べられないのだ。
彼女は白い便のスタンプを複数回送ってきた。
――ちょーだい、ちょーだい
ぼくは下剤で強制的に排泄できるのに、彼女は出したくても出せない。その上、つわりやお腹の子のことで不安が多く、きっと心身共に大変だろうと思う。
――やあ、ぼく白うんこ。一年ぶりだね! ぶりぶりー
ぼくは白い便のスタンプと共にメッセージを送った。
彼女の苦しみをもらうことは出来なくても、少しでも軽くすることが出来ればと思う。
――私もぶりぶりしたいー
――ぼくが来たからには安心さ! 気を楽にしたらすぐに出るよ!
これからは彼女とぼくと、それからぼくたちの子と。三人で歩んでいくのだ。
今まで以上に彼女のことをサポートしていこうと思う。
ぼくは近くの自販機で水を買い、処方された下剤を飲んだ。
――仕事、戻るね
――はーい。頑張ってね
笑顔のスタンプを彼女に送る。生まれてくる赤ちゃんが待ち遠しい。
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