黒光りのアイツ

 げ。まじか。


 あたしはトイレの扉を閉めた。

 出るとは思ったんだけど、まさか引っ越し三日目でアイツに遭遇するとは……。

 どこから入ってきたんだろう。やっぱ一階だからどこかに外へ通じる隙間が開いているのだろうか。

 トイレ行きたかったのにな。アイツどうしよう。

 あたしは部屋を見回した。まだ開封していないダンボール箱が所狭しに散らばっている。

 はぁ。殺虫剤なんて持ってなかったよなあ。どうしようかなあ。

 とりあえず近くにあったダンボール三箱を並べてトイレの扉下の隙間を塞いだ。

 アイツが部屋に入ってこられては困る。このトイレの扉が防衛線だ。

 こんな時、友達の子は雑誌を丸めて一思いに叩きつけるって言ってた。

 すばしっこいアイツを雑誌で仕留められるのがすごい。しかも、仕留めた後ってティッシュかなんかでつぶれたアイツを掴むんでしょ。ティッシュ越しとはいえ、アイツの感触が手に伝わるじゃん……。いや、ムリ。

 うわ。想像しただけで身体が震える。

 友人曰く、「私も最初はムリだったけど、しょっちゅう遭遇するから、慣れちゃった」と。

 ムリだって。慣れるもんじゃないし。四文字のアイツの名前を口にするのも嫌なんだって。

 あー。もう、どうしよう。あたしは友人ほどワイルドじゃない。見るのだって嫌なんだから。なんでアイツがいるのよー。あーもうほんとムリ。やっぱ一階に引っ越すのやめとけば良かった。安さに負けた代償がこれか。くそー。

 しかもアイツって、一匹いたら百匹いるって言うよね。ほんとムリ。これから頻繁にアイツと戦うことになるのか。あー、最悪。こんなん事故物件じゃん……。

 とりあえず、アイツをどうにかしないと、トイレに行けない。

 なんか殺虫剤の代わりになるモノないだろうか。ヘアスプレーとか制汗スプレーならあるんだけど、効果あるだろうか。

 あたしは部屋に戻り、床に散乱しているモノからヘアスプレーを取り出した。

 ちなみに部屋が散らかっているのは引っ越し直後だからである。決して普段から散らかっているわけではない。……決して。

 

 扉の前に置いた段ボール箱をそっと移動する。

 くらえッ!

 隙間からヘアスプレーを噴射する。アイツが飛びかかってきたら大変だ。まずは先制攻撃である。

 片手にヘアスプレーを構えたまま、ゆっくりトイレの扉を開けた。

 うわ。ちょっとやめてよ。

 アイツはトイレの床にいて、扉を開けた瞬間にチョロリと動き出したのだ。

 くらえッ!

 あたしはゴキ……じゃなかった、アイツめがけてヘアスプレーを噴射した。

 するとアイツが噴射を避けるようにサササッと動き出す。

「きゃっ!」

 ちょっと。もう、ほんとやめて。ムリ。ムリ。

 アイツの予測不能な動きが不気味さに拍車を掛ける。アイツ、飛ぶんだっけ? ヘアスプレーに怒って反撃してきたらどうしよう。

 しかし、アイツはトイレの壁伝いに奥へと逃げて行った。良かった。

 アイツはそのまま突き当たりまで行くと、直角に曲がりさらに進んでいく。

 やだ。見えなくなったじゃん。

 便器の裏側へと行ってしまった。さすがにしゃがんでスプレーを噴射するほどの度胸はない。

 あたしはトイレの扉を再び閉めた。一旦休戦だ。作戦を練らなければ。

 ダンボール三箱で隙間を塞ぐ。

 もっと殺傷能力があるもので一発で終わらせたい。長期戦は心身共に疲れる。

 仕方がない。考えたくはないが、今後も遭遇することを考えて、アイツ対策グッズを買ってくるか。

 スーパーマーケットに売っているよね? 引っ越したばかりで近所にどんなお店があるのかまだよく分かっていない。

 トイレにも行きたいし、とりあえず財布とスマホを持って外に出た。

「ふぅ」

 なんだか外が異様に晴れ晴れして清々しい。気持ちが良い。

 さて、とっとと武器を調達して、一気にやっつけるぞー。


 こうして買ってきたのが、スプレー式の殺虫剤。コイツでアイツを一撃退治する。

 それから、くん煙剤。部屋にいたら嫌なのでまとめて駆除してしまう。そして毒餌剤だ。いわゆるホウ酸ダンゴ。これで巣ごと駆除してしまう。

 スーパーマーケットでまとめてアイツ対策グッズを買ったもんだから、レジの店員さんに「あ。この人の家、出たのね」って目で見られてしまった。しかも買ったあとに店員さんに「トイレ、どこですか?」なんて訊いてしまったから、「あ。トイレに出たのね」って思われたに違いない。まあ、仕方がない、事実だし。

 

 よし。今度こそやっつけてやる。

 あたしはダンボールを避けて、扉の隙間から殺虫剤を噴射した後、扉を開けた。

 しかし、パッと見、アイツの姿はなかった。

 どこ。どこにいるのよ。出てきなさーい。まだ便器裏に隠れているのだろうか。こちらにおびき寄せないと。

 近くにあったビニール傘でトントンと床と叩く。

 出てこい。ほれほれ、こっちだ。

 しかし、アイツは一向に出てこない。もしや武器を持っていることに感づかれたのか。

 仕方ない。直接噴射してみるか。

 しゃがみ込むのはやはりキツいので、殺虫剤を持った手を便器裏にできる限り伸ばして、スプレーを噴射した。たっぷり二秒。

 やったか? やったのか?

 一旦、トイレの外に出て、振りまいた薬剤が落ち着くのを待った。

 そして便器の裏をそっと覗き込んだ……。

 

 え。いない。げ。もしかして逃げられた?

 トイレ内を見回す。アイツがいない。どこにいった?

 あれだけ見たくないアイツを今は必死に探している。どこいった? えー、まさか、部屋に逃げ込んだとかないよね……。最悪なんだけど。

 たしかアイツって暗がりとか狭いところが好きなんだよね。ダンボール箱の中に隠れたりしないよね……。

 開封したら「やあ、こんにちは!」とかないよね……。

 寝ている時にカサカサ出てきて「やあ、こんにちは!」とかないよね……。

 うわー。最悪だ。考えただけでも気持ちが悪い。逃がしてしまった。


 とりあえず、くん煙剤焚こう。

 あぁ、先が思いやられる……。



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