雪降るホーム

 雪が、しんしんと静かに降っている。凍えるほどの寒さではないが、はぁっと息を吐くと、白い。心の中にある何かを吐き出しているようだ。

 でもきっと俺の心はこんなに白くはない。もっともっとこう、自分勝手で汚れているはずだ。そう、まるで道ばたに除けられ、車の排気や泥で汚れてしまった雪のように。

 十六時を少し過ぎた程度なのに、辺りは灰色に染まって薄暗い。

 普段なら辺り一面田畑が広がっているが、雪で視界が狭まったことにより、何もなく閉鎖的な空間のように感じる。

 ただでさえ人が少ないのにこれではもう、この世界に俺しかいないようにさえ感じる。化け物を倒しながら霧の中を突き進んでいくホラーゲームのようだ。

 点々と灯る街灯が、降る雪を照らしている。闇を照らす灯台の光のように、そこだけはっきりと雪が見える。

 俺は駅までの一本道をひとりで歩いていた。歩く度に、ミシ、ミシと新雪を踏む音が聞こえてくる。新雪の下には凍った固い雪の感触がする。

 誰もいない、何もない、一本道をただひとりで歩いていた。いつもならアイツが一緒なんだ。

 でも今日はいない。

 土曜日の、受験対策の補講の後、アイツとケンカした。俺はアイツの頬を一発ぶん殴り、教室を飛び出してきたのだった。

 殴ったことに一瞬後悔したが、どうせアイツともあと二ヶ月なのだ。特に気にすることもない。

 ポケットに突っ込んでいた左手を顔の前に持ってくる。拳がジンジンと痛い。

 はぁ、とひとつ、ため息をつく。息が白い。

 小さな駅舎の前まで歩いてきた。三角屋根のひさしからは鋭い凶器のような立派なつららがいくつか垂れ下がっていた。


 ――テェメ。いい加減にしろよ。

 ――こんな田舎の高校でイキがってんじゃねーよ。

 ――はぁ? この、クソがッ!


 アイツへ発した言葉が頭の中でこだまする。

 

 駅舎の中に入ると、サウナのように熱と湿度が籠もっていた。メガネをかけたアイツはいつもここでメガネを曇らせていたんだ。

 待合室には同じ高校の女子生徒が座っていた。知らない顔だ。

 俺は壁に掛かっている時刻表と時計を見た。電車はちょうど行ったばかりで、次は四十分後だった。待つか。

 引き戸を開けホームに出た。寒さが頬を刺す。屋根付きの階段を上り、二番線ホームへと歩道橋を渡った。途中、歩道橋の上から周りを見渡すが、灰色の世界はやはり雪以外なにも映さない。

 一番線よりも乗降客の少ない二番線のホームは雪が積もり放題だった。

 暖房設備のない簡素な待合室の引き戸を開ける。誰もいない。

 俺は木製のベンチに腰掛けた。

 ポケットからスマホを取り出す。新着メッセージは特にない。英単語アプリも息抜きのゲームもSNSも、今はしたくない。

 スマホをポケットにしまい、両手もポケットにしまい込む。左手にはまだ熱を感じた。


 教室の雰囲気は最悪だった。受験シーズンでみんなピリピリしていたんだ。しかも土曜日の補講を受ける生徒は、学年の落ちこぼれで、なんとか滑り止めの大学だけでも受かろうと、みんな必死な連中ばかりだった。一浪だけは阻止したい。そんな共通認識の中で、みんな仲間であり、ライバルだった。

 本日最後の補講が終わり、午前中から続く緊張感からもようやく解放された時、ふっ、とアイツは言ってはいけないことを言ったんだ。

 特定の誰かに向けて発した言葉ではなかった。だから悪意すらなかったのかもしれない。ただ、俺には教室にいるみんなに対して言っているように聞こえたし、あの瞬間、教室の空気が変わったのも感じた。何様のつもりなのか、アイツはみんなを蔑むかのような発言をしたのだ。

 我慢ならなくなった俺は、アイツと同じように暴言を吐き、そして手を上げた。

 俺の方がよっぽどガキで、恥ずかしいぐらいイキがっていた。情けない。

 アイツの言ったことは許せないが、俺がやったことも許せないことだ。でもやってしまったことは取り消せない。俺はその場にいるのも嫌になって教室から出た。

 暖房のない冷える待合室でひとり冷静に考える。

 やっぱ、すぐ謝るべきだったかな。……もう遅いか。

 待合室に掛けられた時計に目をやる。電車が来る時間はまだ先だ。雪が静かに降っているのが窓ガラスに映っている。

 俺は立ち上がり、待合室の引き戸を引いた。待合室の温度とさほど変わらない外気が肌に触れる。

 ホームに降り積もった雪に足跡を付けながら、待合室から少し離れたところにあるトイレに向かった。

 トイレの入り口には扉はない。外気が入り込んで寒い中、用を足した。

 

 トイレから出ると、ホームにひとりの学生が立っているのが見えた。

 雪が降る中、傘も差していない。ポケットに両手を突っ込みながらうつむき加減に下を見ているそいつはアイツだった。

 待合室はアイツがいるところの先だ。俺はゆっくりと歩き出す。一歩歩く度に、ミシ、ミシと静かな空間を鳴らす。

 その音に反応し、アイツがこちらを見た。目が合う。無視できなかった。

「おう」アイツが先に挨拶をした。

「ああ」俺も声を出す。

 俺はゆっくりと歩き出し、アイツの横に行った。アイツと同じくポケットに手を突っ込みながら、一番線ホームを眺める。

「おう」アイツは前を向いたまま、また挨拶した。

「ああ」俺もまた前を向いたまま、答える。

 ぎこちない挨拶が終わると、お互い黙ってしまった。雪がしんしんと線路に降り落ちる。気まずい雰囲気が流れる。


 謝るなら今だと思った。

「あの、さ」

「なに?」

「その、さっきは悪かった」

「別に」

 そこまで言うとアイツは俺の方を見た。俺もアイツを見る。

「俺の方こそ、悪かった。みんなにも謝ってきた」

「そっか」

「ああ」

 俺らはまた前を向く。


 遠くから電車が来る音が聞こえてきた。灰色の世界に電車のヘッドライトが切り裂いてくる。キーンと車輪が線路とこすり合う金属音と共にホームに二両編成の電車が到着した。 

 ボタンを押し扉を開け、電車に乗り込む。車内はとても暖かかった。隣でアイツはメガネを曇らせていた。


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