バリウムが出ない

 ぼくは検査着からスーツに着替えると、更衣室を出て、受付の女性にロッカーのカギを返した。

 受付の女性はカギを受け取り、書類を確認している。

「はい。大丈夫ですね。それでは本日は以上となります。お疲れ様でした」

「ありがとうございます」

「バリウム検査を受けられましたので、下剤を出しておきますね。中に説明書が入っていますので、お読みの上、なるべく早い段階でお薬を飲んでください。それではお大事に」

 受付の女性は穏やかな笑みを浮かべながら、「頓服薬とんぷくやく」と書かれた小さな紙製の袋をぼくに渡した。特に病気でなくても「お大事に」と言う彼女の心遣いに温かさを感じる。



 クリニックの外に出ると、午前中のまだ柔らかな太陽の日差しがビルの合間から降り注ぎ、ぼくは少しだけ目を細めた。ようやく解放されたという清々しさを、日光を浴びながら感じる。気持ちがいい。

 ぼくはスマホを取り出し、さっそく彼女に報告する。


――健康診断終わったよ

――おぉー。はやいねー


 すぐに既読になり、返事が返ってきた。


――バリウムまずかったぁ

――にしししし

――これから下剤飲むー

――お。ということはつまり……


 それから数秒置いて、スタンプが送られてきた。

 それはとぐろを巻いた白い便のスタンプだった。

 茶色でも黄土色でもなく、白なのだ。どうしてこんな的確なスタンプがあるのだろうか。しかも、その便には笑った顔が描かれている。


――よく、こんなスタンプあるね……

――白うんこっ!

――そ、そうだね

――やあ! ぼくは白うんこ。よろしくね!

 彼女はまた白い便のスタンプが送ってきた。

 ぼくはそのスタンプに答えるように、トイレに入っている様子のスタンプを送った。

――そろそろ、会社行かなくちゃ

――にょ。お腹痛くなったらすぐにトイレに駆け込むんだよー

――はーい


 スマホをしまい、手に持っていた頓服薬の袋を開けた。

 中には「センノシド」と書かれたクリムゾン色の錠剤が二錠と、案内用紙が入っていた。

 案内用紙には、文書作成ソフトにありそうな簡単なイラストと、ポップな字体で次のように書かれていた。



 【胃エックス線検査を受けられた方へ】


 ■服用方法

 お渡しした下剤(センノシド錠)は、硫酸バリウム造影剤を速やかに排泄するためのお薬です。検査終了後、なるべく早い段階で、500ml以上の水またはぬるま湯で服用してください。

 

 ■注意事項

 ・バリウム便(白い便)が出るまでは、できるだけ多くの水分を取ってください

 ・アルコール類は避けてください

 ・食事は消化の良いものを取ってください

 ・便意がなくてもこまめにトイレに行くようにしてください

 ・服用後、吐き気、嘔吐、腹痛、腹部の膨張感などの症状がある場合は、速やかに医師にご相談ください

 ・検査の翌々日になってもバリウム便が排泄されない場合は、必ず医師にご相談ください

 ・バリウム便が長時間腸内に残っていると、水分が吸収され固くなり排泄しにくくなります

 ・排泄せずにバリウム便をそのまま放置すると、消化管にあなが開く場合や消化管が詰まったり、腸内が傷ついたりする場合があり、最悪の場合、手術を伴う別の病気を引き起こす恐れがあります



 ポップな字体が不釣り合いなほど不安にさせる内容がふんだんに書かれていた。しかもご丁寧にも、お腹を押さえて苦しそうにしている人のイラストが最後に載っている。

 最大限不安にさせて注意を促しているのかもしれない。

 説明文を読み終わると、見事に不安になったぼくは、早速、近くにあった自動販売機でミネラルウォーターを買い、下剤を飲み込んだ。

 意識的に水分を多めに取るようにしようと考えながら、ぼくは会社へ向かった。



――でたー?

――ううん。まだ


 昼休み、彼女と連絡し合う。


 午前中、会社に戻り普段通りに仕事をしていた。昼が近づくにつれて、下腹部に膨張感のようなものと、若干の腹痛を感じ始めたので、いよいよ下剤の効果が出てきたのかと、トイレに駆け込んだものの、出てきたものは普段と同じ色をした便だったのだ。

 下剤を飲んだ際に買ったミネラルウォーターは、午前中の段階で飲みきっていた。

 そして先ほど、消化の良さそうなきつねうどんを食べ、今、カフェでアイスティーを飲んでいる。

 食事時に汚い話が続いてしまうが、溜まっていた便は下から出し切り、上からは大量の水分とうどんを摂取したので、心太式ところてんしきに次はバリウム便が出るはずである。

 案内用紙を見てから多少焦っていたが、午後には出てくると思う。



 午後には「便意がなくてもトイレに行くように」という説明文の指示に従い、こまめにトイレに入った。

 膨張感と腹痛はあるのだが、午前中の通常の便以降、なにも出なくなってしまった。

 隣の個室から、水分を含んだ固形物が大量に排泄される音が聞こえた。

 下痢だろうか。それともバリウム便だろうか。

 直後、「フゥ。やっと出たぜ。魔法少女よ、消してくれ」と、なにやら不思議な独り言が聞こえた。どこかで聞いたことがある声だが思い出せなかった。



 下剤を飲んでから、六時間と少しが過ぎた。しかし一向にバリウム便は排泄されなかった。

 いよいよ不安になり、インターネットで「バリウムが出ない」と検索し、対処方法を調べてみた。

 その結果、「牛乳を飲む」、「辛いものなど、刺激の強いものを食べる」、「お腹をゆるくさせる」、「意図的に下痢を起こす」、「より強い下剤を飲む」など、複数のサイトで様々な対処方法が見つかった。

 対処方法の他にも、バリウムについて豊富な情報を各サイトから得ることが出来たのだが、その豊富さ故に、ぼくは余計、不安になってしまった。


 たとえば、下剤が効き始める時間として、「三十分~二時間」、「四~六時間」、「六~十二時間」と、サイトによって記載されている時間が異なっているのだ。

 ぼくの場合、すでに下剤が効いているのか、これから効くのか、判断が難しいところだ。

 さらに、「バリウムが出ない」と判断し、医師に相談する時期としても「翌日までにバリウムが出なかったら相談」、「二、三日までは問題ない」、「四日以上バリウムが出なかったら危険」と、これもサイトによって異なっていた。

 そしてもっとも不安になったのは「バリウムが出なかったらどうなるか」という項で、そこには「腸閉塞」、「腸穿孔ちょうせんこう」、「虫垂炎ちゅうすいえん」、「大腸憩室炎だいちょうけいしつえん」と、具体的な病名が書かれた上、「高圧浣腸」、「開講手術」と不安を煽るキーワードが多数散りばめられていた。

 さすがに、「【閲覧注意】バリウムが固まってしまった人の末路」というタイトルのサイトは怖くて開けなかった。


 結局のところ、勤務中に出来る対処方法がなく、勤務時間中は水分を多めに取ることで、排泄を促すことにした。



 ――そして、その時は突然やってきた。

 会議中に我慢出来ないほどの激しい腹痛を感じ、急いでトイレへ駆け込んだ。

 スラックスと下着を脱ぎ、便座に座るやいなや、堰を切ったように大量にそれが排出されたのだ。

 まさに先ほど隣の個室で聞いたような音を伴って。

 便器に吐き出されたものを覗くと、白く濁った液体と、白い固形物が見えた。

 ようやくバリウム便が出たのだ。良かった。ぼくは胸を撫で下ろした。

 ああ。まただ。また出そうだ。

 ぼくはしばらくトイレに籠もり、できる限りバリウム便を出したのだった。


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