お疲れ様、ご苦労さん。

「この度、一身上の都合により退職することになりました」

 僕は最終出勤日の今日、終礼でスピーチをしている。

「営業本部で勤務した3年半、多くの方と出会い、たくさんのことを学ばさせて頂きました」

 目の前には僕が所属した第四営業部を含む、営業本部全員、約80名が僕を見ている。

 大きな会社の主力部署である営業本部。こうして全員の視線を浴びるのは、入社時のスピーチ以来だ。

「初めての業務で分からないことも多く、みなさまにご迷惑をかけてしまうことが何度もありました。ですが、厳しいお言葉や優しいアドバイスでサポートしてくださったみなさまのおかげで、微力ながら成果を残すことが出来たと思っています。また私自身、この会社で経験したことによって、大きく成長することが出来たと感じております」

 でも、本当はあまり成長出来なかった。僕の営業はトークに面白みがなく、性格も地味で、いつも同行していた先輩のおかげで、売上が取れていたようなものだった。

 失敗も多く、僕には営業は向いていないと感じ、職を変えることにしたのだ。

「本日が最終出勤日となりますが、今後ともどうぞ変わらぬお付き合いをよろしくお願い致します。最後となりましたが、みなさまのご活躍とご健勝を心よりお祈りしています。以上で退職の挨拶とさせて頂きます。本当にありがとうございました」

 拍手がなり、皆が笑顔で僕を見ている。そして一人の女性社員が、花束を持って前に出てきた。

「短い期間でしたが、本当にありがとうございました。職場が変わっても、頑張ってくださいね」

 花束が手渡されると拍手がさらに大きくなった。

 あっという間の3年半だった。こうして拍手されているとなんだか名残惜しい。

 僕の横に立っていた営業本部長が話を始めた。

「彼はね、うちの部で、個人成績がベストテンに入ったこともある優秀な社員なんでね、会社としてもキミが退職してしまうのは、非常に辛いことなんだけどもね、是非ね、次に行っても、キミらしい持ち前の真面目さと継続力を活かして頑張っていってください。本当にありがとう」

 こうして僕の退職の挨拶は終わった。


 その後、お世話になった方々へ直接挨拶をしに各部署を回った。


「本当にお世話になりました」

「おう。がんばれよ」


「いつもフォローありがとうございました」

「困った時はお互い様だからね。なんかあったら連絡しろよ」


「昨日は送別会ありがとうございました」

「あー、そうか、今日で最後か。お疲れさん」


「部署が変わってからあまりお話しできませんでしたが、お世話になりました」

「こちらこそ。また落ち着いたら飲みにでも行こうか」


「昨日知ったよー。寂しくなるなぁ。次は決まってるの?」

「えぇ。一応」


 みな仕事の手を止めて、僕の話を聞いてくれた。こんなにも温かく見送られると、もう少し働きたかったと思ってしまう。

 個人成績がベストテン入りしたのは、後にも先にもその1回だけだった。

 たまたま行った新規の営業先が、大口受注をしたためだった。

 それ以降、僕の成績は下降し、先輩に助けられながらも何とか目標を維持していたのだが、その先輩が第一営業部へ部署異動した後は、目標達成も出来なくなってしまったのだ。

 他の営業部から陰で「一発屋」と呼ばれているのは知っていた。「一発屋」は所詮一発屋で、どう頑張っても二発目をあげることができなかった。だから、この会社ではもう僕の居場所がなくなってしまった。


「それじゃあ、お疲れ様。必要書類等ありましたら郵送で送りますので」

「はい。ありがとうございました」

 3年半使った顔写真入りの社員証を人事部に返却した。あっという間の3年半だった。

 僕のデスクには液晶モニタとノートパソコンだけが置かれている。

 私物類は、既にほとんど持ち帰っていた。残りの私物を通勤カバンに入れたら、ここでの僕の痕跡はもうなにもない。


「それじゃ、ありがとうございました。お先に失礼します」

 まだ残っていた同僚に最後の挨拶をして、僕はフロアを出た。

 

 通勤カバンと紙袋に入れた花を持って、男子トイレに入った。男性用小便器が横一列に5つ並んでいる。

 特に理由もなく、手前から2番目の小便器の前に立ち、正面の棚に通勤カバンを、右横にある荷物フックに紙袋をかけた。

 チャックを降ろし用を足す。

 しばらくすると右の小便器の前に人が来た。

 僕は正面を向いたまま「お疲れ様です」といつものように挨拶した。

 視界の端でベルトを外しているのが分かる。ほどなくして用を足す音が聞こえはじめた。

「お疲れ様。今日が最後だってね」

 男もまた正面を向いたまま、そう言った。

 僕はその言葉に反応し、思わず横を向くと、そこには社長がいたのだ。

 モデルのように整った顔、長身でスマートな身体。男の僕から見てもイケメンだと思える。これで五十歳間近だというのだから驚きだ。

 社長は正面を向いたまま用を足している。

「あ。はい。今までありがとうございました」

「こちらこそ。ご苦労さん」

 軽く会釈をした後、正面に向き直り残りの尿を出し切る。

 3年半在籍していて、社長と直接話したことは数回あったぐらいだ。それこそトイレで隣になった時に「お疲れ様です」と挨拶する程度で、特に仕事で話したことはなかったと思う。

 こんな一従業員の退職を知っているだなんて、さすが社長だ、と思った。

「キミのことは営業部長からよく聞いてるよ。あの時は、もう少しでベストファイブだったな」

 社長はそう言った後、僕の名前を呼んで、「次も頑張れよ」と言った。

「え……」

 まさか、こんな僕の名前まで覚えてくれているとは。予想もしていなかった社長の言葉に驚き、返す言葉を探したが、結局は「あ、ありがとうございます」と無難な返事で終わった。

 そんなに長いやり取りではないが、社長とまともに会話をしたのはこれが初めてかもしれない。そしてこの先はもうない。

 チャックを上げ、小便器から下がると、赤外線センサーが反応し、水が流れ出す。

 社長はまだ用を足している最中なので、「失礼します」と言って、手を洗い外に出た。



 エレベーターホールに出て、呼び出しボタンを押した。エレベーターホールの窓からは新宿の高層ビル群が見える。

 この夜景を見るのも今日が最後だ。

 無数のビルの屋上では、航空障害灯が息をするようにただ静かに点滅している。その点滅はビルごとにバラバラで、本当にそれぞれが生きているようだ。

 そして無数に輝く明かりの下には、無数の会社がある。

 僕はあの光の一部となって輝けるだろうか。

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