パウダールーム
午後3時 7階女子トイレ
「失礼しまーす」
私は掃除用具一式が入った緑のワゴンを押しながら、女子トイレに入った。腰が曲がり始めた私には、この緑のワゴンの重さが地味にキツい。
ここは渋谷にある複合商業施設のトイレだ。トイレといってもただのトイレではない。女性専用の化粧室、いわゆるパウダールームが併設されたトイレなのだ。
中に入ると、淡いパステルトーンの壁紙に間接照明が当てられた柔らかな空間が広がっている。女優ミラーがついた華やかな鏡台が、横一列に10台並んでおり、中央には大きなベージュのソファ、入り口付近には、ウォーターサーバーが設置されている。
天井からは透明感のあるピアノのBGMがさりげなく流れていた。
1時間200円で利用できる有料のパウダールームとなっており、化粧品メーカーのサンプル品メイク道具はもちろん、電源、無線でのインターネット接続、ヘアアイロン、ドライヤーなどが自由に使えるのだ。
パウダールームには数人の若い女性が、メイクを直していたり、ソファでくつろいでいた。
「そうそう。欲しかったトミーのシャツ。下北だよ」
「えーいいな。うちも行きたい」
「いこう、いこう」
「うん! つーか、ちょっとまって。それやばくない?」
「これ?」
「まじやばい。ぐうかわ」
「ママの借りてきちゃった」
制服は着ていないが、おそらく女子高生だろう。メイクを直すわけでもなく鏡台の丸椅子に座っている。彼女たちは向かい合い2人でおしゃべりをしている。
この時間帯は、女子高生の利用者が多いのだ。
「てかさぁ。うちもバイトしようかなー。金ない。やばいー」
「うんうん、ぜったいした方がいいって。まじ人生変わるって」
「どこがいいかなー?」
彼女たちは、まるでカフェにでもいるかのように、ペットボトルの飲み物を飲み、スマホをいじりながら、時折大きな笑い声をあげて、会話に夢中だった。
ソファに座っている女性から冷たい視線が送られていることにも気づかずに。
「失礼しまーす」
そんな静かなる攻撃者の目の前を、緑のワゴンをゆっくり押しながら通過する。
私は清掃員。彼女たちのマナーについて「お客様、他のお客様のご迷惑にならぬよう……」なんて注意する必要はない。攻撃者の視線が私に向けられても、私はただの清掃員なのだから。
午後6時 7階女子トイレ
本日4回目のトイレ掃除、午後出勤の私にとっては2回目の掃除である。
パウダールームの先には、日の入り直後ような薄明とした空間が広がっている。ゆったりとした円形の空間で、ドーム状の天井に向かって蒼から黒へと薄くグラデーションがかった壁紙が貼られている。そこには、所々LED照明が埋め込まれており、星のように明滅している。まるでプラネタリウムみたいな空間なのである。
BGMは、海の波のようにゆったりとした幻想的なヒーリング曲で、アルファ波が出てきて、このまま魂が天井に昇華しそうなスピリチュアルな音楽だ。
パウダールームの女性らしい華やかな空間と対比するように、落ち着いた雰囲気にさせてくれる空間なのだ。
この円形空間の中央部分には、鏡のついた洗面台が6台、6角形に設置されている。
私の清掃箇所はこの空間と、この先にあるトイレだ。毎時決まった時間に各フロアのトイレと、この特別な空間を掃除する。
「六本木まで来てくれたら行くよ」
明るく黄色がかった茶色の盛り髪をした女性が電話をしている。
これから夜の仕事か、はたまた遊びに行くのか。メイクも服装もすでに完成されている。
「うん。ピックして。いいよ、そこで。うん」
「失礼しまーす」
私は緑のワゴンに取り付けてある床掃除用のモップを手に取り、洗剤をつけて、拭き掃除を始めた。
壁側から中央に向かって機械的に拭き取っていく。非日常を感じることの出来る癒やしの空間と癒やしの音楽に不釣り合いな、現実的な清掃。私が床を磨く度に、非日常感が剥がれ、現実感を見せているような気分になる。
「だって、あんたヘルプでしょ。そう。いいよ、別に」
「失礼しまーす」
女性の横まで掃除を終え、そう言うと、女性は背の低い私を一瞥した。無言で移動していく。私は床面にモップを滑らせる。夢を現実に塗り直す作業。
業務を遂行することが一番の優先順位である。いつもの手順通りに清掃をし、清掃管理シートの清掃項目にチェックをつけられればそれでいいのだ。
午後9時 7階女子トイレ
本日最後のトイレ掃除。手前の洗面スペースの掃除を終えて、トイレの掃除へ移った。
有料トイレとだけあって、個室の数も6個と多い。黒いタイル調の床に、黒いヘアラインの個室の扉。天井から垂らされたクリスタルカーテンには、無数の照明を浴び
個室内は、それぞれ異なるデザインのアートボードが飾られ、さながら美術館のようだ。
BGMは洗面スペースと同様のヒーリング曲が流れている。
私は個室をひとつずつ掃除をしていく。便器に業務用洗剤を回し入れた後、壁と床の拭き掃除、トイレットペーパーの替え芯チェックをする。そして便器に入れた洗剤を洗い流し、軽く拭いて完了だ。
この一連の作業を6回繰り返す。
その間もトイレに入ってくる女性はいて、彼女たちは掃除した直後の個室を使うことが多い。
この仕事を始めた当初は、その行為に苛立ちのようなものも感じたが、今ではそんなことはなくなってしまった。直後に使われることを含めて一連の作業なのだ。
4つ目まで掃除し終えた時に、3人の女性が話ながらトイレに入ってきた。
「一番端の子は無いなぁ」
「あー、私もそう思った」
「ぜんぜん話さなかったよね、彼」
彼女たちは話を続けたまま、それぞれ個室に入っていた。これから掃除しようとしていた個室がふたつとも塞がってしまった。
仕方なく他の場所を掃除しながら出てくるのを待った。
このフロアの下の階に飲食店がいくつか入っている。それなりにおしゃれな店舗が多く、合コンに使われることもあるのだ。
この時間は一次会あがりの女性がよくトイレにやってくる。
「そのくせ、胸ばっかり見てくるし!」
「あれはないね」
「イケメンくんがさりげなくフォローしてたよ」
「誰か、イケメンくんの連絡先きいた?」
「私、げっとー」
「え? マジで。ちょっとグループ作ってよー」
「えー。むりー」
その会話の直後、音消し用の水の音が流れてくる。
「ちょっとー」
続けて、他の2カ所からも音消し用の音が聞こえてくる。
会話が途切れ、トイレットペーパーの引き出す音や水を流す音が聞こえ、彼女たちは出てきた。
「でも彼、結構遊んでるよね」
「思った! あれでしょ? キャバクラの話でしょ?」
「そうそう!」
彼女たちは話しながら洗面スペースへと移動していった。
私は残り2つの個室の掃除に取りかかった。
私はここで今を生きる華やかな女性たちを支えている……なんて大それたことは思っていない。自らが生きるためにここで働いているのだ。結婚して、娘も生まれ、成長し、独立し、それなりに幸せな生活を送ってきた。
でも時々思う。若い頃もっとたくさん遊んでおけば良かったと。
私の時代にはこんなパウダールームなんてなかった。仕事柄のせいか、昔より他人の秘めた話を聞く機会が増えた気がする。そんな若い彼女たちの生活を見ていると、そう思うのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます