通勤時、腹を下す。

 腹を壊した。朝の、通勤ラッシュの、満員電車の中で。

 朝起きた時から、腹の調子がいつもと違うと思っていたのだ。腹が張っている感じがあり、トイレに行ったが、その時は問題なかった。

 それが、よりにもよって電車に乗っている最中に来るとは。



 僕はいつものように地下鉄のホームで電車を待っていた。電車もいつも通り定刻でたくさんの人を乗せてやってきた。どこか戦場に送り込まれる兵士のように詰め込まれている。

 そして僕はいつも通り、満員電車に無理矢理押し込まれるように乗った。

 僕の後にも次から次へと人が乗り込み、自分の意思に反して、身体がどんどんと車両奥に進んでいく。

 痴漢に間違われないように咄嗟にショルダーバッグを手前に引き寄せ身体をガードした。両手を胸の位置辺りまであげ、片方の手でなんとかつり革を掴む。

 扉が閉まり、発車の揺れに合わせて、体勢を整えた。

 

 走行してすぐだった。突然、腹がギュルギュルギュルと音を立てた後、ズキンと突き刺さるような痛みが襲ったのだ。

 つり革を握る力が強くなる。下痢だ。

 眉間にしわを寄せ、落ち着いてくれるのを祈った。

 腸の中をぐるぐると何かが動いている感じがして、その度にチクチクと複数の針に刺されているような痛みが襲う。

 電光掲示板を見ると次の停車駅が表示されていた。本来降りるべき駅までは、まだまだ遠い。仕方ない、一旦次の駅で降りてトイレに駆け込もう。

 一駅分の辛抱だ。堪えてくれと目をつむりながら願った。


 突然電車が揺れた。後ろから押され、腹が圧迫される。肛門に力を入れた。

 やめてくれ。腹を刺激しないでほしい。

 僕の願いは虚しく、電車はキーンと言う高音を鳴らしながら、右へ左へとカーブを曲がっていく。

 体勢を崩さぬよう、つり革を握り、持ちこたえる。

 ぎゅるるると鈍い音を鳴らしながら下痢も腸のカーブを曲がっていく。次第に下腹部へ移動して行っているのが分かる。

 お願いだ。下痢も電車も止めてくれ。


 がたん。と電車が止まった。

――えー。ただいま、この先の駅で「列車非常停止ボタン」が押されたため、当列車はしばらく停止します。お急ぎのところ、お客様にはご迷惑を――

 最悪である。本当にここで止まるとは。

 このまま堪えられるだろうか。もう肛門まで下痢が来ている気がする。少しでも気を抜いたら出てしまいそうな気がする。

 背中が冷や汗で濡れていた。

 この汗の水分が身体を冷やし、余計、下痢がひどくなるのではと想像する。

 気を紛らわそうと窓の外を見るが、トンネル内であるため真っ暗だ。絶望的だ。まるで僕の心のようだ。ため息が出る。叫びたくなる。

 満員電車は、奇妙なほど静かだ。イヤホンで音楽を聴いている女性、スマホでゲームをしているビジネスマン、寝ている若者に参考書を読んでいる女子高生。

 僕が下痢で苦しんでいることなんて誰も知らない。誰か助けてくれ。駅のトイレに早く行きたい。

 キュルキュルギューンと今までにない大きな痛みが襲った。唐辛子を腸の中に塗りたくったようにキリキリする。

 つり革を掴む指の先が冷たくなるのを感じた。

 なんとか気を紛らわそう。なんとか意識を下痢から遠ざけよう。

 そう思った僕は、スマホをいじっているビジネスマンを見た。

「町役場立てこもり事件、犯人捕まる」

 どうやらニュースを見ているようだ。ビジネスマンには少し悪いが、スマホ画面を盗み見して気を紛らわした。

「昨日発生した、町役場での立てこもり事件の犯人が捕まった。犯人は過去にも事件を起こしており『国と刑事に恨みがあった』と容疑を認めている。犯人の使用した拳銃の入手先を調べている。

 なお、犯人逮捕には、同役場の職員Aさんが健闘した。隠れていたAさんが犯人の隙を見て飛びかかり、取り押さえたとのこと。

 Aさんは死を覚悟して、突入前に隠れていたトイレで家族に向けてトイレットペーパーに手紙を書いたという」

 スマホから目を逸らした。やめてくれ。トイレの話はやめてくれ。

 ニュース記事の思わぬ結末にビジネスマンを睨んでしまった。

 もうこれ以上、腹を刺激したくない。僕は目をつむり必死に堪えた。


 暗闇の中、じっと堪えた。視覚からの情報がなくなった分、ゴロゴロと唸る下痢を意識せざるを得なくなったが、下痢と向き合い、ただただ落ち着いてくれることを必死に願った。

 そうしてしばらくすると、電車が再び動き出した。


――大変お待たせ致しました。まもなく……――


 車掌のアナウンスは次の駅名を告げていた。

 電車は駅の目と鼻の先で止まっていたようで、動いてすぐにホームに入った。

 もうすぐだ。頼む堪えてくれ。

 腹の痛みと戦いながら、肛門に力を入れる。

 電車が止まった。扉が開く。「すみません」と人混みをかき分けながら外に出る。

 トイレはどこだ。出口に向かい早足でホームを歩く。

 もうすぐだと思うと、途端に漏れそうになる。肛門辺りでゴロゴロと唸っている。

 

 トイレの案内標識が見えた。「改札外30メートル」と書いてある。良かった、そんな遠くない。

 どうかトイレが空いてますように……。

 僕はトイレまでの数メートルを駆け抜けた。


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