ラジオのネタにできない、某館の事件 崩れた絆の食卓
我闘亜々亜
侵入
クミントップスのYouGreatラジオを聴くのが、うちの至福の時間。
イヤホンから届く軽妙なトークは、疲れもストレスも遠い世界に吹っ飛ばしてくれる。
メンバー1人の脱退の発表があった際は、今後の心配もよぎりはした。数箇月たった今、コンビ芸人としてのクミントップスの安定に、生意気ながら安心した。このラジオも、コンビ芸人になって初の改変期を乗り越えてくれた。重ねて安心。
トリオのネタが見られなったことが心残り。機会がなくて、今まで結局1回も見られなかった。どんな顔なんだろうな。勝手な想像だと、ツッコミはキツネっぽい感じで、ボケはベビーフェイスなイケメン。脱退した人は八重歯が光る強面だな。実際、どうだったんだか。
ラジオはリスナーからの投稿お便りコーナーになった。2人の話術のおかげで、過激なネタも笑いになる。ヤングも安心して聞ける。うちは過激ネタばっちこいだけど。伏せ字なしで話しちゃっていいよ!
話題は『魔法が使えるようになったら、なにをしたいか』になった。
魔力は、この世界に存在はしている。とは言っても、空気みたいに目に見えない存在。
漂う魔力を特殊技術で結晶化して、様々な便利な道具が作られる。
このラジオもそう。スタジオの音声がラジオに届いている。ちなみに、イヤホンも魔力の結晶の技術で作られている。専門家ではないから、詳しいことは知らないけど。
大型店舗の1階と2階をつなぐ移動とか、遠く離れた人と話せるとか、文章を送るとか、録音とか、形成のコピーとか、透明化とか……実に様々なことに魔力の結晶が役立てられる。
漂う魔力を結晶化しないで、人間が使えるようにならないのか。専門家が調べているとは、どこかで聞いた。
魔法を使うなんて、修行が必要そう。要は特殊技術の部分を人間がやらないといけないわけでしょ? 誰でも使える結晶のほうがいいや。面倒なことは願いさげ。
楽しいトークににやついていたら、迎えてしまったお別れの言葉。もう終わりの時間か。
うんうん、また1週間後にね。さよなら、楽しい時間をありがとう!
届かないお別れを唱えて、ラジオの電源を切る。イヤホンをしまって、大きく伸びをした。
空にまたたき出した星は、クミントップスをたたえてくれるみたい。生放送を終えたクミントップスも今、この星空を見ているのかな。
……星?
待て、クミラジが終わったって……今、何時!?
慌てて、時計を見る。当然ながらラジオ終了時間と同じ、午後7時30分だった。
よし、状況を整理しよう。
隣街を目指して『近道』と聞いた森を歩いた。ラジオが始まるから、電源を入れた。
それから……?
ラジオに夢中になって、道筋なんか度外視で歩いちゃった、かも?
『大木を右に曲がる』とか教えてくれたよね? もうすぎたの? これから?
教えてもらった限りだと、時間的にもう隣街の宿でラジオを悠々と聴いているはず。どうしてまだ、森の中?
混乱の海に突き落とされた。闇夜のような絶望感の中、優雅に泳いできたジュゴンが運んできた単語は。
迷った。
かわいた笑いが漏れる。
そうだ。そうだよ、ね。
ラジオの幸福も、どこか遠くに消えた。
……いや、悠長に考えている場合ではないよ! まさかの野宿!?
運よく極寒でも灼熱でもない地域とはいえ、夜は冷えるのは変わりない。
なにか! この状況を脱せるものはないか!?
急いで荷物をあさる。
ラジオ。イヤホン。財布。メモ帳。おやつレベルの軽食。他、言うに足らない小物。
さて、どうしよう。
どうして気の利いた魔法道具を持っていないんだ。
音を大きくする道具とか。大声で助けを呼べたのに。命が関係するほど切羽詰まっていないから、大騒ぎするのは早急?
コピー系の道具があったら、木に擬態とかでやりすごせた? ここに生えているから、この環境をどうとも思っていないんだよね? 木になるって、いまいち感覚がわからない。
転移系の道具があったら。隣街に転移できた。来たことのない場所だと、うまく転移できる保証はないとは聞くけど。信じたらどうにかなる。
どれだけ考えても、役に立ちそうな所持品がなかった事実は揺らいでくれない。どれもこれも高級品だから、持っていないのはわかっていたけど。むなしい妄想だ。
テントも寝袋もない。無防備な野宿なんて、不審者にあれやこれやな可能性もある。雀の涙ほどの所持金を盗まれたくない。
クミラジ放送中なら、ピンチをネタに送れたのに! そんな機器は持っていないから、無理だけど。
空元気は、むなしく闇にとけるだけ。
バカをやっている場合ではないよ。本気でやばいって。
歩き続けたら、どこかの街につく? 安全に野宿できそうな場所が見つかる?
混乱のまま見回しても、街につながりそうな道や人影はとらえられない。舗装を一切感じさせない地面は、獣道すらうかがわせる。
ラジオに夢中になって、目的を大きくそれた? ここに居続けても、明るい未来はないのはわかった。
幸運なことに、まだ景色が見えるレベルの暗さ。今のうちに歩こう。
どの方向に歩くのが最適なのかもわからない。影の向きで方角がわかったら、参考になったかもしれないのに。夜だけど、ほのかに影っぽいものは地面にかすめている。街の方角は聞いていないから、結局は無意味だけど。
目標はなくても、歩くしかない。この場所にとどまるより、いい未来が待っていると信じて。
安定しない地面を、そろりそろりと歩く。こんな地面を無意識で歩いていたなんて。ラジオ聴取中はゾーンにでも入っていたのか?
どうでもいい、むしろ今の状況は忌むべき自分の能力を追い出しつつ、周囲の視認も忘れない。見られる暗さのうちに情報を集めないと。
少しして、視界の先に大きな館がかすめた。
『お城か』とツッコみたくなるほどの建物に、ほどよく木々が生えた広々とした庭。囲繞した堅牢そうな石壁は、城郭みたい。立派という言葉で片づけるには、いささか失礼に思えるほど。
場違いな館を前に、改めて周囲を見回す。
他に、建物も人もない。館だけ。
これはもう、ここに頼るしかない。この時間から別の場所を求めるのは、さすがに無謀。
気後れしながら館に近づく。距離を詰めるにつれて、想像以上の大きさを届ける。地ならしされているのか、地面は歩きやすくなっている。わだちも伸びている。
場違いさに蹌踉になりそうになりつつ、門の前についた。もげそうになるほど、首を曲げて仰ぐ。
石壁は、うちの身長の倍はある。どうしてここまで高く作ったのか、いささか疑問だ。『襲撃に来る未知の生命体でもいるのか』と勘ぐってしまう。それなら、この高さも堅牢さも納得だ。いや、さすがに夢物語だろうけど。
さて、勝手に入っていいのかな?
石壁の門は開け放たれているとはいえ、他人の敷地に勝手に侵入していいのか阻まれる。
一部の館の窓からは、光が漏れている。家の人はいると思う。館の扉をたたいたら、気づいてくれるだろうけど。逡巡はする。
ここからでも大声を出したら、気づいてくれる? いや、不審者と思われて通報されるのがオチか。やめよう。
わだちをたどったら、街につけるのかな? いつつくかわからない。暗くなったら、わだちの視認すら困難になる。選ぶべきではない選択だ。
やましい思いはないんだ。堂々と行けばいいかな。怒られたら、全力ごめんなさいダッシュだ。
覚悟を決めて、庭に踏み出す。
瞬間、侵入と同時にセキュリティシステムが発動する可能性がよぎった。びくりとして硬直したけど、騒ぎはない。幸い、セキュリティシステムはなかったのかな。
警戒のまま見回す。
館まで伸びる地面は、石畳が敷き詰められている。その横に生えた草は長さがそろって、手入れされた様子だ。低木や木は、庭の美しさを華麗に演出する。館の人の趣味なのか、庭には当然ありそうな花や花壇、噴水はない。美しい庭にはあわないふくらんだ無機質な袋が数個、石壁の隅に詰まれている。窓から庭の様子を一望できそうなほど、見通しはよさそう。屋外のティータイムをたしなむ趣味があるのか、丸いテーブルと3脚の椅子も見えた。石壁には立派な焼却炉がそなえついている。燃やすだけなのに、高そうなのを選ぶなんて。と思ったら、魔法結晶も燃やせるやつっぽい。個人でも持てるんだ。その奥には、小さな小屋がある。小さいと言っても、館と比べたらの話。『住まわせてください』と言いたいほどの広さはありそう。
その小屋の扉が静かに開いて、1人の人影がにゅっと出てきた。うちを一瞥して、動きをとめる。
家の人かな? ……待て、庭に無言でたたずむ私。ちょっと怪しい? 早めに口を開かないと、通報バイバイの未来が!
「あのっ、少しお話いいですか?」
友好感を与える笑顔で、外面感満載の笑顔で。
くたくたのズボンに、まくられた長袖はかすかに薄よごれたように見える。家の人にしては、意外に庶民的。ベレーを乗せた頭は小ぶりで、少年らしい愛くるしさがある。
くらくらと視線を泳がせた少年は、ぺこりと一礼してよそに歩き出してしまった。
「待って! 話を聞いてー!」
両手をぶんぶん振りながら追いかける。今のほうがよっぽど不審者だけど、構う余裕はなかった。
追う足は、背後から聞こえた音でとまることになる。
音に振り返る。開け放たれた館の扉からのぞく、若い女性の姿。
「どちらさまですか?」
清涼な声を発した顔はおだやかで、見るからに優しい人柄。肩に足りないウェーブがかった髪も、印象を後押しする。
「通りがかりの者です! 怪しくないです、通報しないでください!」
ひとまず先手を打つ。そうこうする間に、少年の姿は木の影に消えてしまった。
「少しお話、いいですか?」
人のよさそうな人だ。理解してもらえるかも。消えた少年も気になるけど、今は自分の身の安全。荒れてしまった口調を戻して、警戒を作らせないように平静を作る。
「少々お待ちください」
期待とは裏腹に、すとんと扉が閉められた。
館に消えた女性を前に、よぎる。まさか通報されたんじゃない、よね? 不安に襲われつつ、期待も捨てられなくて待つこと数秒。
扉が開いて、同じ女性がのぞいた。
「どうぞ」
話もしていないのに、中に入れてくれるの? まさか心が読めるとか!?
喜びと混乱のまま、館に足を踏みいれる。
金の刺繍が施された、ワインレッドのじゅうたんに迎えられた。雲を感じされる起毛は、足音をすべて吸収してくれる。壁に並んだ燭台は豪華な装飾で、いかにもな高級感を演出する。天井は天井で、真下を歩くのが怖いほどのシャンデリア。月の世界にネズミが迷ったかのような気分になる。唯一、漂うおいしそうな香りが心をおだやかにしてくれた。
「こちらです」
さっきは扉で隠れて見えなかったけど、女性がまとう衣装はメイドのものだった。足首まであるスカートは一切のほつれすらなくて、完璧な仕事っぷりが想像できた。使用人だったんだ。そうだよね。こんな立派な屋敷だもん。使用人程度、いるに決まっている。
大黒柱が通っているのかと思うほど、しゃんと伸びた背筋もしっかりした人柄を演出する。背後に目がついているのかと思ってしまうほどに、背中まで整った着こなし。うらやむような細さの腰に揺れるリボンを眺めながら続いたら、広い部屋に通された。
クミントップスがライブを開けそうなほどに広い部屋には、2人の人がいた。
恰幅のいい強面の壮年の男性。鼻の下にたたえられた髭1本1本にすら威厳を感じるほど、雰囲気がすさまじい。被服も高級感にあふれて、確実にこの館のボスだと思えた。
もう1人は男性とは正反対の、物腰のおだやかそうな高貴な女性。腰まで伸びたロングヘアーはシャンデリアの光でつやめいて、今すぐ天に召されるのかと思うほどの天使の輪を作り出す。耳や首に輝く装飾品は、明らかに高級だと宣言している。
「夜分遅くにすみません」
気迫と高貴感にひるんで、反射的に直角まで頭をさげる。
「用件は」
低くしぶい声は、考えなくても壮年のボスのだとわかった。
「はずかしながら迷ってしまい。お泊りさせていただかないかなと思いまして」
へこへこ頭をさげながら伝える。
かすめたボスの目が怖すぎて、視線を高貴な女性に固定した。
「ただの迷い人か。帰れ」
鼻を鳴らされて、あっさり目的は撃沈した。そりゃあそうだよ。怖い人が許してくれるわけがない。怖い人相手に、粘る勇気もなく。野宿ルートがちらつく。
「ダメですよ。こんな遅くに追い出すなんて、非常識です」
援護してくれたのは、高貴な女性だった。お願い、その調子で論破を!
「夜分に訪ねるほうが、よほど非常識」
うちの願いは、あっさり砕け散った。どうしよう、このまま野宿の道?
館は無理でも、外の小屋だけでも貸してもらえないかな。
小屋……といえば、さっき見た少年、誰だったんだろ。まさか、あれこそ不審者!?
「庭でベレー帽の少年を見かけました。あれって不審者……とかではないですよね?」
思えば、挙動不審だった。不審者だとしても納得できちゃうよ。被害がないといいけど。
「あれか。使えない。不審者みたいなもんだ」
顔をしかめて吐き出したボスに、高貴な女性が続けた。
「庭師よ。心配、ありがとう」
そうだったんだ。こんな時間まで、大変だな。関係者なら、うちを見てとがめなくてよかったのかな。結果、助かりはしたけど。
「こんなのに礼を言うな。品がさがる」
イラつきかけた心を、口角をつりあげてこらえる。安全に夜をすごすために、この程度の言葉で感情を動かしてはいけない。
「客室の準備を致しましょうか?」
「耳がないのか? 追い出せ」
メイドの後援も、冷酷なボスによって打ち返された。
この場にボスに逆らえる人はいないのか、誰も強く言わない。高貴な女性はアゴに手をそえて、目だけで謝罪を送っている……ように見える。
通報される前に諦めて、野宿をするのが賢明かな。
漂うダメダメオーラに肩を落としかけた瞬間、扉の音が響いた。メイドが黙礼して、部屋を出る。
「お帰りなさいませ」
出迎える声で、館の人が帰ってきたんだとわかる。けど、部屋に残されたこの空気はなに?
ボスのオーラが容赦なく恐ろしくなった。ネズミ程度なら、オーラだけでもだえ苦しみそうだ。
悪い状況を好転させられるとも思えない来客のうちは、おびえつつも黙るしかない。
姿を見せたのは、息をのむほどに美しい女性だった。
月をわけてもらったかのような輝きを放つ長い髪。切れ長のまぶたに守られた、透き通ったエメラルドの瞳。絹のような白い肌に乗せられた小さな唇は、ほのかに花を咲かせる。
丁寧な施しがされた衣装をしのぐほど、見た目は優美だった。
見知らぬうちを前に、月の柳眉がひそめられる。
「こんな時間まで、どこをほっつき歩いていた」
はさまれたボスの声で、女性の意識はそっちに動く。女性の眉間に深いシワが寄って、眉尻が天に伸びた。
「関係ないでしょ」
髪をかきあげて、強い語気を放つ。見た目に反して、強気な女性みたいだ。
「それが親に言う口か!」
とどろく怒声に、身がすくんだ。メイドも高貴な女性も、驚く様子もとめる様子もない。うちに対して、申し訳なさそうな視線を送るだけ。
「だったら、尊敬されるようなことしなよ」
「育ててもらった恩を忘れたのか!?」
「あんたに育ててもらった記憶なんか、ないけど?」
両肘に手をそえて、クリティカルな言葉を出した。
泊めてもらいたかっただけなのに、どうしてこうなった。垂れる冷や汗を前に、存在感を皆無にするしかできない。
「なえちゃった。ご飯、あとでいいわ」
くるりとメイドに向いて、一転した声を出して出口に歩く。どっちが女性の本性だろ。
「待て、話はまだ終わってな――」
ボスがつかんだ肩を、女性は強く払った。響いた高音が、空気を一気に張り詰めさせる。
「よごれた手でさわらないで」
瞬間、ボスの顔がわなわなと真っ赤に震え出す。見かねた高貴な女性が、背中に手をそえてたしなめた。
「これ以上は……お客様の前ですし」
よかった、忘れられてはいなかった。
心臓を貫通するような眼光を向けたボスは、大きく鼻を鳴らした。高貴な女性を乱暴に振り払って、ずかずかと部屋を出る。
「あなた――」
「うるさい! 好きにしろ!」
高貴な女性の声に見事なまでの負け惜しみを吐いて、ボスは消えた。
訪れた静寂の中、エメラルドの瞳がうちに向く。
「迷ってしまわれたらしく、宿泊の相談に来られました」
女性の視線の理由がわかったのか、説明を始めたメイド。うちもあわせて、一礼する。
美しい外見とボスに向けた強気があるから、緊張は消えない。でもボスと比べたら優しく思えて、ひどくおびえはしないで済んだ。
「わざわざこんな場所につくなんて、どんな迷いよ」
あきれまじりの声に、経緯をさっくりと説明した。『ラジオに夢中になって』とは言いにくくて、そこは伏せた。
「大変ね」
さらさらの髪をなびかせて、女性は部屋から消えた。残されたのは、高貴な女性とメイドの2人。
「こんなの見せて、ごめんなさいね。おわびもかねて、泊まっていって」
女性を見届けた高貴な女性は、うちにくるりと向いた。
「いいんですか!?」
高貴な女性からの思いがけない言葉に、笑顔があふれる。
「あの人も『好きにしろ』と言ったもの。好きにさせてもらうわ」
それ、そんな意味なのかな。よぎったけど、自分に不利になることは言う必要ない。ありがたく好意をいただこう。
「ありがとうございます!」
人がよくて助かった。
こうして考えると、突然の口論にまきこまれたのも『災いを転じて福となす』というやつか。ありがたや。
「お食事、1人分多く作るように伝えてくれる?」
「かしこまりました」
黙礼して、メイドは部屋を出た。おだやかになった空気は、食欲をそそる香りを再度知覚させた。
「ご飯までいいんですか?」
「お客様にお食事も提供しないなんて、失礼よ。豪勢ではないから、期待はしないでね」
大きな館に住んでいながら『豪勢ではない』だなんて、信頼できない。いい意味で期待を裏切られる予感しかしない。
「勝手に入るな!」
突如聞こえた怒号に、身がすくんだ。ボスとは違う、男性のどぶ声。
ちっとも驚きを見せなかった高貴な女性は眉を垂らして、くすりと笑った。
「驚かせてごめんなさい。調理場に行くと、いつもこうなの。こだわりの強い料理人で、自分以外が来るのが嫌みたい」
料理人ってことは、伝言に向かったメイドが怒られちゃったのかな。メイドさん、ごめん。
「お部屋の案内は、ご飯のあとでいいかしら?」
「はい。もうそちら様のペースで」
泊めてもらう身分、わがままを言う気は一切ない。
そうこうしていたら、メイドが戻ってきた。
「お客様のお食事は、奥様たちとのメニューとは異なってしまうとのことです。よろしいでしょうか?」
「あら、どうして?」
『客人に貴婦人と同じメニューなんか提供できるか』ってこと? こだわり派の料理人なら、あるかも。
「仕込み時間などもあります。お客様にも満足できる料理を提供するために、ご理解いただきたいとのことです」
肉をウン時間煮込む……とか、聞くもんな。そんな意味? 中途半端な料理は提供したくないのかな。
「そうなの……大丈夫かしら?」
「はい、もう。食べられるだけでありがたいです」
へこへこ頭をさげて伝える。泊めてもらえるだけでもありがたいのに、空腹も満たせるなんて。わがままなんか言える身分ではない。むしろこの家レベルだと、材料も高級だろうな。どんな料理であっても、おいしいに決まっている。高価すぎて、逆に貧乏舌だと味がわからないレベルでないといいな。
「お食事、どれくらいでできるかしら?」
「もうすぐです」
宿泊できるだけでもラッキーなのに。ご飯までいただけるとは、運がいい。クミラジに採用してもらえるレベルのエピソードだ。助けてもらったのにネタにするなんて失礼っぽいし、自重するけど。
「本当、すみません。ありがとうございます」
優しい2人には、感謝の言葉しかない。全世界神総選挙があったら、迷いなく2人に投票するレベル。
「申し遅れました、リーネスと申します。フリーライターをやってます」
神様に名乗り忘れたという最大の失態を思い出した。名乗りもしない人を泊めようとしてくれたなんて、神レベルが向上だ。
ライターといっても、ジャーナリズムあふれるものではない。『本当にあった○○みたい』な、娯楽性の高い記事を書いて雑誌社に売り込んでいる。記事が売れなかったら路頭に迷うしかない、しがないライター。
「わたしはチェシイよ。よろしく」
「私はこの家の世話を任されております、ネルクです」
丁寧な挨拶に、ぺこぺこと返した。
「さっきの男の人が、この家の主でわたしの夫のマヌー。帰ってきたのが、娘のアム」
あんなに大きいご令嬢がいるんだったの? 目の前の若々しい美貌に奪われそうになる。
言われたら、多少は年齢を感じさせるような? 若さを保つためのあれこれをやっているのかな。
チェシイさんとアムさんは、雰囲気も似ている。親子と言われたら納得だ。アムさんに、マヌーさんらしさはちっとも感じなかった。完全なる母親似だ。
一気に4人の名前、覚えられるかな。後者2人はうっかり間違えでもしたら、どやされそう。しっかり記憶しないと。
「あと、息子のロベインね。今は部屋にいるけど、ご飯を食べにおりてくると思うわ」
まだいたの? 2人もお子様がいて、この美貌。その気になったら、不老も夢ではないのかも? ネタにできるかも。
ご子息か。ボスの性格的な血を継いでいないことを祈る。外見はどうなんだろ。父親似だったら、反射的に畏縮しちゃいそう。
「この家は、別荘とかですか?」
近くに街もなさそうだった。だからこそ、うちはここに泊めてもらおうと思ったわけだけど。ここで住むとなると大変そう。
チェシイさんはアゴに手をそえて、困ったように笑った。
「夫はケチ……倹約家で、土地の安いこの場所に家を建てたの。転移石も惜しんで、馬車の運転も自分でやって、操縦者の雇用費を削っているのよ。おかしいでしょう?」
くすくすと高貴に笑うけど、愛想笑いしかできない。同情なんかしたら、あのボスにどうされるかわからない。いや、聞こえないだろうけど。あのボスなら、そんな勘が優れているとかありそうだもん。またあの空気の犠牲にはなりたくない。
「馬車、あったんですか?」
外にあったわだちは馬車のだったのかな。こんな場所にある館だ。馬車とかの移動手段は必須だよね。
「裏にとめてあります」
そうだったんだ。気づかなかった。
馬車があったなら、泊めてもらわなくても街に行けた? いや、うちは馬車の操縦はできない。家の人の誰かに操縦を頼むことになる。泊まるほうが迷惑にならないな。
「空気もすんでいますし、景色も遮られないので、私は好きです」
「そう言ってくれて、助かるわ。ネルクには負担をかけてばかりで、ごめんなさいね」
これだけ広い館なのに、ネルクさん以外の使用人に遭遇していない。さっきからネルクさんだけが動いている。時間が遅いから、他の使用人は帰っただけ? 馬車が必要なのに、帰るかな。泊まりで働いているとしたら、部屋で休むには早い時間に思える。
「使用人って、ネルクさんだけですか?」
まさかの疑問は、チェシイさんの点頭で返された。
この広い館をたった1人でとは。大変に大変を重ねている。もしかして庭師も1人なのかな。
「毎日くまなくお掃除してくれて、雑用も安心して任せられるの。本当にありがとうね」
「もったいないお言葉、ありがとうございます」
全世界メイド総選挙があったら、ぶっちぎりで優勝できる。やわらかな物腰の中に、それだけのスキルが秘められていると確信した。
「料理だけは、料理人に任せているけどね」
笑顔を崩さない2人。これだけ完璧なネルクさんなのに、料理人を別に雇うなんて。ゲテモノ警報が出る腕前だったりするのかな。まさか。
「さっき怒鳴られてましたよね。すみません」
鮮やかにフルコースを作るネルクさんを想像しながら、へこりと頭をさげた。謝罪するうちに、ネルクさんは変わらないほほ笑みをくれた。
「いつものことなので、お気になさらないでください」
「料理愛、調理場愛が強いのよ。唯一、調理場だけはネルクは掃除していないのよ」
「自身の仕事場を荒される気分になられてしまうのでしょうね」
掃除程度、任せたらいいのに。とは思うのに、許されない事実。本当にネルクさんの料理関係の腕は大問題だったり?
メレンゲを作ろうとして、調理場を雲の上のようにしてしまった……とか、あったりして。『失敗しちゃった、テヘ』って頭をコツンとやられた日には、どんな男も悩殺できる。自分で妄想したくせに、ちょっといいじゃないかと思ってしまった。よし、許す。ネルクさんは料理ヘタでいい!
「そんなに情熱のある人が作るなんて、さぞかしおいしいんでしょうね」
妄想を悟られないように吐いたけど、ちょっとハードルをあげる言葉だった? 失礼に当たるかも。
「味は期待していいわ」
よかった、困らせはしなかった。腕は信頼されているんだな。さっきより強くなったように感じる香りは、食欲を刺激する。腹の虫がなったらはずかしい。騒ぐなよ。
「ご飯は、ご家族でめしあがるんですか?」
もしそうだったら、家族水入らずの時間だ。部外者が邪魔するのは、非常によくない。ボスと顔を会わせたくないという隠れた理由もあるけど。
「そうしたいのだけれどね。最近はばらばらが多いかしら」
頬に手をそえたチェシイさんは、それ以上は語らなかった。よそに向けられた視線は、ほのかに落胆を映す。
さっきのアムさんとマヌーさんとの口論で、事情は察する。聞き返しはしない。
アムさんとマヌーさんは、あの様子だと一緒に食べないんだろうな。もうすぐ料理ができるらしいのに、ご子息のロベインさんも姿を見せようとしない。このままだと、チェシイさんが1人で食べることになりそう。ネルクさんが一緒に食べたりするのかな?
ネルクさんにちらりと視線を送る。思考がわかったのか、淡い色のリップが開いた。
「私と料理人のバーデは、別にお食事をいただきます。庭師のフレッソさんはこの時間にはお帰りになられるので、ここではお食事はいただきません」
雇われた身分で一緒に食べるとかは、やっぱりできないのかな?
「この時間に帰るって、大丈夫なんですか?」
帰れるなら、一緒したらよかったような。馬車の操縦もできたんだろうし。目的地はわからないけど、宿のある街には行けたよね? 当然の疑問を発したら、ネルクさんは一瞬だけ表情を曇らせた。
「……土地勘に優れた人なので、ご安心ください」
だったら、余計に一緒に帰ったらよかったような。庭師に道案内を頼んだら、目的の街に行けた? 夜に歩くのは危険なのに変わりはないから、チェシイさんは泊まらせてくれたのかな。
「以前の庭師は、住み込みさせていたのよ。フレッソは『小ぎたない。家がよごれる』って、マヌーが許可しなかったの。館に入ることも許さないのよ」
たたえられた笑みの奥に、ぞくりとするような冷酷さがかすめた気がした。
「こんな時間に帰らせるなんて、非常識――」
「奥様」
チェシイさんに話を続けさせないかのように、ネルクさんは通る声を発した。
「もうお食事の準備ができます。ロベイン様をお呼びいたしましょうか?」
「……そうね。お願い」
ネルクさんは頭をさげて、部屋から消えた。
「一緒に食べられるんですか?」
さっきは『ばらばらが多い』って話していた。一緒に食べる努力はしているのかな?
「食事の時間は決まっているの。各自その時間に自由に来るのが、最近の日常ね。ロベインは時間に気づかないで集中していることが多いから、毎回伝えているの」
家族そろって食事ができないのがさみしいのか、なにもないテーブルを指先でなでた。
毎回『食事ができた』と伝えるなんて、ネルクさんは大変だな。とは思ったけど、1人だけで済むなら楽なのかな? 本来、家の人全員を呼ばないといけなかったり? 使用人の仕事をよく知らないから、どうなのか知らない。
そのあとも、チェシイさんとぽつりぽつりと当たり障りのない言葉を交わした。
ネルクさん、伝えるだけにしては遅いな。チェシイさんは気にしてないし、日常なのかな。帰り道に掃除でもしたり? 『ついでに掃除をしよう』くらいのメンタルがないと、広い館の清潔を保てないか。
「勝手に入るな!」
思考を停止したのは、聞き覚えがある怒声だった。思わず肩を震わせてしまった私に、チェシイさんが気品たっぷりに笑う。一切の驚きもない優雅さが、広い館に住める最低条件? 次こそ驚かない。きっと。
「ごめんなさいね」
「すごい声ですね。また驚いちゃいました」
てれ隠しもかねて、小さく肩をすくませる。
あれだけの大声が出せるなら、料理人より舞台俳優とかのほうがいいんじゃないの? あの声質だと、客席には伝わりにくい? そもそも、演技力があるかもわからないか。
「そうよね。お庭にいても聞こえたもの」
調理場で火事でも起こったら、館全体に危機を伝えられるな。そんな意味なら安心か。そう思おう。
「料理にはかからないように、ちゃんと配慮はしているわ。安心して」
あれやこれやが飛んだのではと懸念したと思われたのかな。その可能性もあったな。考えていなかったけど、改めて言われると不穏が走る。『安心して』と言われたから、大丈夫だろうけど。館の料理人にそんな欠陥があったら、とんでもない。大丈夫だからこそ、今も料理を作っているんだ。
余計な思考を働かせていたら、ワゴンを押したネルクさんが部屋に来た。
純白の布で全体をおおったワゴンには、湯気をなびかせる色とりどりの料理が並べられる。乗せられた食器は、料理を殺さないほどよいデザインで高級感にあふれる。
伝えるだけでなく、料理をとりに向かっていたんだ。戻るのが遅かった理由を理解した。
強くなった香りで、殺していた食欲がうずく。腹の虫よ、あと少しだ。耐えろ!
「お待たせいたしました」
その声を合図に、チェシイさんは整った所作で椅子に着席する。
ワゴンをテーブルにつけたネルクさんは、なれた手つきで料理を卓に並べた。
「リーネスさんも座りなさって」
当然のように言われたけど、お言葉に甘えてもいいのかな。『食事はばらばらが多い』と話していたけど、家族の時間になるわけだ。ロベインさんが来そうな予感もある。
懊悩していたら、ネルクさんが椅子をひいた。うちに笑みを向けて、示してくれる。ここまでしてもらって、断るほうが無作法? 心中で弁解だけして、小さく頭をさげる。
「お言葉に甘えさせていただきます」
テーブルを彩る料理たちにひかれたのが、着席の最大の理由。冷める前にいただきたい。あふれる唾液が、そそられた食欲の強さを物語る。
早々に食べようとしたら、ネルクさんからメニューの細かい説明がされた。お金持ちは毎回、こんな儀式があるの? 客人がいるから、やっているだけ?
やきもきしつつそれぞれの料理のこだわりとかを聞けて、ちょっと得した気分もある。
説明が終わって、チェシイさんが食べ始めた。ネルクさんをうかがったら『どうぞ』とうながしてくれた。
ネルクさんより先に食べることに、多少の罪悪感がちらつく。使用人は一緒に食べないのが、この家のルール。口出しはできない。ネルクさんに小さく頭をさげて、謝罪を伝える。チェシイの所作を模倣しつつ、食べ始める。
どれもこれもおいしい。こんな場でなかったら、全力でがっつくレベル。味のしみた骨つき肉がとにかく最高! 野菜のスープもいい! 怒声があっても、雇うよ。納得だよ。
自分のペースで食べにくい空気を恨みがましく思っていたら、前の椅子に誰かが座った。
咀嚼しながら顔をあげたら、透明感のある海のような瞳と重なる。
シミ1つない白皙のせいで、細い毛束の月色の髪が濃く見える。体内に血管があるとは思えないほど透き通った存在感は、紛うことなき美青年。学園にいたら、間違えなくファンクラブができるレベル。
「先ほど話しました、お客様です」
ネルクさんの補足に、美青年は顔をかすかにかたむけた。氷のような視線が刺さるけど、端正な顔のせいで不快は少ない。むしろ緊張が。
「運よく、この家にたどりつけるか? 盗聴目的ではないだろうな」
堂々な態度に、身を縮みこませる余裕もなかった。
「お客様に失礼よ」
チェシイさんがたしなめてくれた。こんな豪邸に泊めてくださいなんて、怪しまれても当然なのかな。チェシイさんたちの人がよすぎただけ?
「本当に迷っただけです」
言葉だけだと足りないのか、疑念の視線は揺らがない。1日泊まるだけとはいえ、疑われ続けたくはない。終日監視とかはされたくない。監視するなら、使用人のネルクさんになるのかな? 別の意味で緊張する。多忙っぽいネルクさんの手をわずらわせたくもない。
疑念が晴れなかったら、追い出される未来もある? 泊まる気分になったのに、野宿モードに切り替えるのは心が折れる。
どうにか平穏に泊まれる道はないかな。よぎる不安は、自分の荷物でとまる。
「なんなら、荷物検査をどうぞ」
両手をあげて、降伏ポーズを決める。調べられるのははずかしいけど、見られて困るものはない。疑いが晴れるなら、安いもんだよ。
「ネルク」
名を呼ばれたネルクさんは、うちに黙礼して荷物に手をかけた。本当にやるんだ。『やってもいい』とは言ったけど、ここまで迷いなくやられるとは。本人がやらなかったのは、他人の荷物を荒らすのに抵抗があったから? 庶民のものにふれたくないとかだったりして。
「警戒しすぎよ。盗聴器なんて、そう簡単に使えるものではないわ」
盗聴器のウワサ程度は、聞いたことはある。盗聴の名のまま、犯罪目的で使われるのがもっぱららしい。設置だけで誰でも簡単盗聴……というわけにはいかない、難解な知識が必要だとか。『第三者に見つかっても、内容を傍受されないように』とかの目的があるらしいけど。それだけでなくとっても高価だから、うちなんかの手に届く品ではない。使う目的もない。
「その道の者なら、使えて当然だ」
清麗に食べる美青年を横目に、チェシイさんは眉を垂らして笑った。
「ごめんなさいね。少し警戒心が強くて」
「いつどんな事件に見舞われるかわからない。母上たちが無用心すぎる」
チェシイさんが母上ってことは、やっぱりこの美青年はロベインさんか。雰囲気はアムさんと似ている。マヌーさん似ではない。一切、マヌーさんらしさを感じない。
アムさんと2人並んだら、まぶしいほどの美男美女になる。美形のまぶしさのせいで、目つぶしを食らうかもしれない。それほどに美しい。
「客人も――」
冷酷にそまった青が向けられる。
「怪しい動きをしたら、これの餌食になる」
ロベインさんの手に、ナイフが光った。食事に使うナイフではなく、武器としてのナイフ。シャンデリアの光を無数にあびて反射する刃は、大木すらすぱっとまっぷたつできそうな鋭利さをほのめかす。
予想外の武器の登場に、背筋がぶるりと震えた。
「異常はありません」
危機を救ったのは、ネルクさんの声だった。気をとられたロベインさんの視線が、うちから外される。『異常なし』が効いたのかな。ありがたや。
「本当か?」
ネルクさんを見るロベインさんの青目は、うちを威圧した表情を消している。ネルクさんの仕事を信頼はしているのかな。
「盗聴などの犯罪に使われる品、武器になりそうな品はありません」
当然だ。持ち歩いてはいない。もしあったら、他の誰よりもうちが驚愕だ。
護身用に武器を持っていなくてよかった。ロベインさんの疑いようだと、護身用と説明しても通用しなかったに違いない。
「隠された可能性は?」
「小さなラジオがありました。他に隠せそうな品はありません」
ラジオに盗聴器を隠すとかはありえるのかな? ロベインさんの冷酷な一瞥がうちに刺さった。
「疑うなら、荷物はそっちで管理してください」
今から聞きたいラジオもない。預かってもらっても問題はない。ネルクさんの負担は増やしてしまいそうではあるけど。
「ロベイン、もうよしなさい。お客様にそんな態度、失礼よ」
たしなめられたロベインさんは、うちへの疑念を消さないままナイフをしまった。ロベインさんはまだ完全に信頼はしていない様子ではあるけど。『荷物を管理してもいい』の主張で、ひとまず追い返される危機は脱したかな。
荷物は『調べられた』とは思えないほど、変わらない姿を保っていた。ネルクさんの掃除の血が働いて、中はむしろ整えられたかも。
視線が重なったネルクさんに、丁寧に黙礼された。曇った表情で、申し訳なさが伝わる。命令とはいえ、抵抗があったのかな。
大丈夫、気にしていないよ。苦痛にさいなまれないように、笑顔を送った。
「自身の立場をわきまえろ」
吐き捨てられた言葉は、さほど心には刺さらない。ボスのオーラと比べたら、ロベインさんの威圧はかゆいくらい。短い時間だったのに、ボスの威力はそれだけ強かった。おだやかな笑みをたたえる女性2人が空気をやわらかくしてくれるのも大きい。
ロベインさんは食事に戻った。不機嫌そうな態度ではあるけど、うちを疑うのはやめたのかな。
片手をあげたロベインさんに、ネルクさんはワゴンからビンを持って卓上の空の杯に注いだ。においからして、アルコールではなさそう。この行動だけで求めるものがわかるなんて、さすがメイドの鑑。
「わたしもいいかしら?」
チェシイさんの願いに応えて、ネルクさんはワゴンから別のビンを選んで杯に注いだ。飲物の好みも暗記済みか。4人家族とはいえ、間違えずに覚えるのは大変そう。
「リーネス様はいかがいたしましょう?」
あとで頼むより、この流れで頼むほうが楽かな。複数のビンから飲物を選ばせてくれて、注いでくれた。シズク1滴すら跳ねさせない、安定の注ぎ。ビールを注いでも、泡とのバランスを絶妙にできるに違いないと確信した。
杯1つとってもきらびやかな高級感にあふれて、唇をつけるのに迷われる。優雅に飲む2人は絵になるのに。よごしてごめんなさい。逡巡とほのかな高揚感でつけた味は、当然美味だった。自然に『芳醇』という単語が頭に浮かぶ。これ、絶対高い。もう飲めない味だ。味わおう。
食べ進めながらも気になるのは、手つかずの状態で卓上にある2人分の食事。漂う湯気は、時間の経過ですっかり勢力を弱める。
「冷めちゃいますけど……いいんですか?」
他人の家の事情に首を突っこんでいいものかとも思うけど。もしやうちのせいなのかともよぎったから、放ってはおけない。
「冷めても味が落ちないように作られているのよ」
そこまで考慮されたからには、やっぱりばらばらなのか。それでも同時に卓に置くからには、一緒に食べたいという思いからかな。待つ人がいるってわかりやすく伝わるもんね。ほかほかのうちに食べたいと思ったら、来ざるを得ない。
「さっきも意地を張っちゃって」
「またか」
あきれ声を漏らしたロベインさんに、チェシイさんは困り顔を向けた。あの2人の口論は珍しいことではないんだ。
大声だったし、部屋にいたらしいロベインさんにも聞こえたのかな。聞こえてたら、さっきの口論を知らなかったかのような今の態度は矛盾する。遮音性がある部屋なのかな。さすが豪邸。
「毎日同じ内容で怒鳴りあって……いつまで続けるんだか」
口論は日常だけでなく、口論内容まで同じなの? 遮音性の高い部屋にいたくはなるか。口論だけでなく、料理人の怒声もあるもんな。声が飛びかう館だ。
「『アムから謝ったら、許してやらなくもない』って、マヌーは話しているのに」
「あのアムが謝るなんてない。暗に『和解はしない』と言っているのと同じだ」
食事の席で始まりかけた話題を切るように、チェシイさんはネルクさんを呼んだ。
「チーズ、食べたいわ」
「かしこまりました」
命令に、ネルクさんは手早く部屋を出た。
「いい加減、目前のメニューだけで満足できるようになったらどうだ?」
「食べたい気分になったんだから、いいでしょう?」
出された料理だけで満足できる量があるのに、追加で頼むなんて。それだけの量を食べて、この細身を保っているの? 食べても太らない体質って、本当にあるの?
待て、ネルクさん向かったのって調理場? つまりは。
「勝手に入るな!」
出た、恒例行事。身構えただけあって、今回はびくりとしないで済んだ。目の前の2人は当然のごとく、微動だにしなかった。なれってすごい。
ワゴンの上のビンが揺れたように見えたのは気にしすぎ? さすがに、そこまでの声量はない?
しばらくして戻ってきたネルクさんの気配に、チェシイさんは振り返った。
「スープもお願い」
立て続けに迷いなく注文する。貴婦人には『手数をかけてすまない』とかの気持ちはないんだな。それでも横暴に見えないのがふしぎ。マヌーさんだったら、確実に『こき使いすぎ』とよぎったな。見た目で印象を変えるのはよくないけど。
「かしこまりました。食べ終わった食器、さげさせていただきます」
食事中に食器をさげるって、高貴な食場であるんだ。チェシイさんたちは気にする様子はない。日常らしい。1人で働いている手前、少しでも効率よく動きたいのかな。
空っぽになった食器を乗せたワゴンを押して、ネルクさんは部屋から出た。
「リンゴも食べたいわ」
遠慮なく注文したチェシイさんは振り返った。既にネルクさんはいない。
「伝えてきます」
泊めてもらう手前、これくらいのことはしないと。
椅子から駆けて、部屋の外をのぞく。ネルクさんの背中すら見えなかった。広々とした廊下と突き当たりの壁しか見えない。
「……どちらに向かわれたんでしょうか?」
勘で追いかけて、迷子になったらいけない。迷っただけでも、ロベインさんは『下見』と言いかねない。『怪しい動き』と判断されて、ナイフに登場されたら笑えない。正直に聞くに限る。
「いいわよ。戻ったら伝えるわ」
道を教えてもらうのも手間になる。ロベインさんに『間取りを知ってどうする』と言われるかも。素直に従おう。軽く会釈して席について、食事を再開した。
こんなに頼んで、本当に食べきれるのかな? 痩せの大食い? 家庭の事情が見え隠れしているし、ストレス解消とかもあるのかな? 一見健康そうだから、精神に負担はかかっていなさそう。食事でストレスを発散できるなら、いいのかな。
「リーネスさんも食べたいものがあったら、言っていいのよ?」
甘やかし発言に、ロベインさんの鋭い一瞥がほのめかされた。実際に頼んだら、ロベインさんから『客人のくせにわきまえろ』とでも冷たい言葉を食らいそう。
「うちなんかの注文に、すぐは応えられないでしょう」
2人の心を荒立たせないように、ふわりとした態度で返す。
「すぐに作れるレシピは豊富にあるのよ」
「そうなんですか?」
料理は詳しくないけど、仕込みにウン時間とかって話は聞く。豪邸だと、そのレベルの料理が日常かと思った。事実、うちの料理だけ違う。
「夫は待つのが嫌いなの。『今すぐ作れ』って要望が多いのよ」
あー、ぴったりだな。1秒遅れただけで館を震撼させそう。
「なのに食料の保管庫も作らないから、作り置きもできないの」
この立地のこの豪邸で食材の保管ができないって、致命的な欠陥じゃないの? こまめに買いに街に出るのかな。ネルクさんが買い出しもしているのかな? 本当、大変そう。過労にならないように願うしかない。
「保管庫を作っても、懐には響かない。むしろ『時は金なり』を知るべきだ」
ロベインさんの言葉で、保管庫がない理由も『ケチ』もとい『倹約家』だからだと伝わる。そう思っているのにこの状況が続くのを見るに、結局ボスに逆らえる人はいないのか。
「すごい家ですよね。こんな豪邸、初めて見ました」
「周囲の目を気にして大きな家を建てたくせに、誰も見やしないこの場所だ。なにをしたいのか理解できない」
本当に軽蔑したような、ロベインさんの冷めた小声。
「街のざわめきを離れられるのが気に入ったのよ」
周囲を囲むのは森だけで、人の気配は一切なかった。その理論は納得、と思えるけど。どちらにしろ広い庭と頑丈そうな壁で、外の音はほとんど届かなかったのではと思える。窓を開けても静寂しかないって環境にひかれたのかな。
「家でくらい、人の荒波を忘れたいのよ」
ボス自身が、この家では荒波と化している気がする。いや、言わないけど。
「仕事は大変みたいだもの」
「どんなお仕事なんですか?」
流れで聞いた私に、ロベインさんの鋭い眼光が飛んだ。プライベートを探ったと誤解された? 失言だった。
「魔力結晶関係の会社の会長なの」
息子の様子を知らずか、気にしていないのか、チェシイさんはのほほんと吐いた。
「最初は小さな会社だったの。企業努力や吸収合併で、ここまでになれたのよ」
魔力結晶って、もしやラジオとかもこの家の会社が作ったりしていたの!? この豪邸も納得だ。むしろ事実を聞いたら、この程度の館でいいのかと思える。もっといい立地に、メイドをわんさか雇っても余裕があるでしょ。それくらいもうかったでしょ。
日常会話のように話を続けたチェシイさんを、ロベインさんは厳しく見た。とめはしなかった。隠していたわけではないのかな。
「勝手に入るな!」
驚愕中のうちに、追加で驚愕を届ける怒声が響いた。しまった、油断してびびっちゃった。ふいうちでも微動だにしない2人の神経は、つり橋を作れるくらいには極太で丈夫だな。
しばらくして、ワゴンを押したネルクさんが戻ってきた。ワゴンには、カプレーゼやスープがある。
「お待たせいたしました」
ワゴンからテーブルに、料理を静かに移す。ワゴンの布は一切、よごれていない。スープを跳ねさせることもなく、ここまで運んだんだ。プロだ。
「……ネルク」
ふいに名前を呼んだロベインさんは、椅子から離れてネルクさんの背後についた。
「ほどけかけている」
ネルクさんの腰に手を伸ばして、ゆるんだリボンを結び直した。流れるような手つきで、シンメトリーが形作られる。女性相手でも迷いなくしてしまう限り、プレイボーイっぷりを垣間見た気がした。
「申し訳ありません」
「気にするな」
うちに向ける態度はどこへやら、耳に届く声は清涼水のよう。心なしか、2人の周囲にお花オーラが見えるような。
そんな2人を、チェシイさんは目を細めて見つめた。
「小さい頃のあなたたちみたいね」
幼少期からこんなことをしていたの? ネルクさん、いつからこの家につとめているの。
「アムにこんなことをした覚えはない」
……アムさん? 今の2人が幼少期のきょうだいみたいって話か。よく考えたら、そうだよね。
「わたしは覚えているわ。なつかしいわね」
母であるチェシイさんの記憶が正しいんだろうな。あるいは、ロベインさんも覚えてはいるけど、てれくさくて忘れたフリをしたのか。後者だったら、かわいらしい。
「ありがとうございます」
整えられたリボンを揺らして、ネルクさんは丁寧に黙礼した。ここまで形よく結べるなんて、なれている。お金持ちの男性でも、あんなに整った形に結べるもん? 着せるのになれていたりするのかな。これだけの美青年なら、言い寄る女性も多かろう。毎日お相手をしても、寿命まで予定がびっちりになりそう。
「俺はもういい。片づけろ」
ロベインさんの食器には、まだ料理が残っている。残すの? この味を残すなんて。うちが平らげてやりたいよ。さすがに初対面の男の皿を奪うなんてできないけど。相手はうちを疑っている。関係を悪化させるのは必至。
「手頃な時間にハーブティーを持ってこい」
「かしこまりました」
ネルクさんの返事を聞かずして、ロベインさんは部屋を出た。見届けたネルクさんは、料理の残った食器をワゴンに移す。空いた皿もついでにワゴンに置いて、部屋を出た。
これはつまり、何回目かの怒号。身構えて身構えて。
「勝手に入るな!」
妙な緊張感で食べていたら、覚悟した怒号が響く。今回はびびらずに済んだ。
直後、部屋に来た人影。ネルクさんが戻るにしては、早すぎるような。顔をあげて映ったのは、なめらかな髪をゆらして着席するアムさんだった。スンと澄ました顔で食べ始める。鍛え抜かれた所作は芸術だ。1つ1つの動きが洗練されたようにしか見えない。
「さっきはごめんね。ちょっとたぎっちゃって」
向けられたエメラルドの瞳と意外な言葉で、不覚にも心臓が飛び出そうになった。
うちを見ているから、うちに言っているの? さっきって、ボスとの口論?
「こちらこそ、いきなりたずねて申し訳ありません」
へこへこ頭をさげたら、まっさらなワゴンを押したネルクさんが戻ってきた。増えたアムさんに驚くことなく、定位置に戻る。
「いいって。夜分にほっぽりだしたら、襲われるんじゃないかって気が気じゃないじゃん」
内容も話しっぷりも、口論の印象とは大きく異なる。強気な印象を作る目元に反して、案外とっつきやすい人なのかな。近寄りがたいほどの美しさがあるのに、こんなにフレンドリーに話されるなんて。緊張していいのか、脳が混乱する。
「クソジジイの言葉なんて、気にしないで」
「お食事中よ」
チェシイさんのたしなめに、アムさんは口をつぐんで視線を一瞬泳がせた。この程度の言葉でも、食事中は慎まないのいけないの? お金持ちも大変だな。うちは平気だから、気にしないで。とは言うべきではないんだろうな、空気的に。
「……ごめん」
いじらしく光る瞳に見つめられる。そう言われたら、心臓を射抜かれちゃうよ! もっとアレな表現でも許しちゃうよ!
「大丈夫です! 平気ですから」
ぐちょぐちょな表現でないなら、食事中でもどんとこい。ご飯屋さんでは、ネタがないか聞き耳を立てること多い。否応なく、そんな単語が入ることもある。なれっこ。……これって、ある意味盗聴に当たる? だったら、ロベインさんの疑いも強くは否定できないような。いや、誰でも聞ける環境で話された内容を聞いても、問題ではないよね。きっとそう。
娘の失言を気にしてか、チェシイさんが視線だけで謝罪をした、ように見えた。
「お食事も出していただいて、申し訳ないくらいです」
うちが言葉を続けたら、アムさんの桃色の口角が天に向いた。近寄りがたい美しさが、華やかな美しさに変わる。
「そうでしょ? あたしもバーデの料理、大好き!」
まとわれた笑みは、少女らしい幼さがある。オトナっぽい外見とのアンバランスさで、より魅力が増す。
「うちも気に入りました。毎日食べられるなんて、うらやましい限りです」
「家族で食べられたら、もっといいのだけれどね」
チェシイさんが続けた言葉に、アムさんは苦い顔を向けた。
「嫌よ。クソ……父様や兄様と一緒なんて」
眉をぴくりと動かしたチェシイさんを察知したのか、今回は『父様』に変わった。チェシイさん、本気で怒らせたら結構な威力の持ち主なのかな。
「ネルクとバーデならいいけど。一緒に食べればいいじゃん」
「主と同じ卓でいただくなんて、できません」
丁寧に断ったネルクさんに、アムさんは若干の不満を見せつつスプーンを口に運ぶ。意外に動きが多い表情は、見ていて飽きない。
「ネルクさんは、バーデさんと一緒に食べるんですか?」
雇われた身同士だ。一緒したりするのかな?
「2人でいただくことも多いです」
「そうなんだ。どんな話、してんの?」
事情に無知だったのか、アムさんは髪を耳にかきあげて視線を向けた。髪が揺れるだけなのに、しゃらんと奏でられるような錯覚すら覚える。
「お話するほどの内容ではありません」
「怪しい。あたしらのグチでも話してんじゃないの?」
ネルクさんの笑顔が一瞬ひきつった、気がした。まさか。ネルクさんが陰口を言うとは思えない。言っているとしたら、バーデさんのほうだ。
「もう、アム。困らせないの」
「いえ……皆様の食の好みをお伝えしているだけです」
一切たじろがないネルクさんは、まるで彫刻のようにうちたちを見つめる。
「なにそれ」
「僭越ながら……食の進みや反応などを、バーデさんにお伝えさせていただいております」
料理を運んだり、追加注文のためにネルクさんはここにとどまっているわけではなかったんだ。まるで監視みたい。さっきのひきつりは、後ろめたさが作ったものだったのかな。
「ご苦労ねー」
2人は監視とは思ってもいないのか、軽い反応を返すだけだった。お金持ちって、この程度は気にならないのかな。感覚がよくわからない。
「バーデはなにか話さないの? プライベート、想像できない」
「完食していただけるだけでいいですよ」
少しずれた返答の中に、ネルクさんの真意を垣間見た気がした。
こだわりが強そうな料理人だ。料理を残されるのは、プライドを傷つけられるのかも。日夜ネルクさんに、残った料理のグチを話しているのかも。残されないように、ネルクさんは食の好みを探って伝えていたり? 涙ぐましい。
「いつも残して、心配だわ」
チェシイさんは、片づけられたテーブルに視線を動かした。
ロベインさんがいた席。料理を残していたロベインさん。これも日常なんだ。残さないように量を調整しないのは、料理人のこだわりなのかな。完食してほしい真意があるのかな。
「ネルクが食べさせてあげたら? 喜んで食べるでしょ?」
アムさんの軽口に、ネルクさんは崩さない笑顔で返すだけ。
「ふしだらなことを言っては、ダメよ」
「どうだか。残すのだって、ネルクにお夜食を持ってこさせるためでしょ? あざといのよ、兄様は」
ロベインさんは『ハーブティーを持ってこい』って注文して出たな。それって、そんな意味? いなかったはずのアムさんも既知なんて、これも日常? あらぬ関係の2人がよぎった。
うちを散々疑っていたロベインさんなのに、ネルクさんに荷物を調べさせるだけで疑念を薄れさせた。あれだけ警戒心が強いなら『自分で見ないと納得できない』と主張してもよさそうなのに。
リボンも手際よく直していた。使用人相手とはいえ、迷いなく女性の腰に手を伸ばせるなんて。ネルクさんの腰を見ていたことにもなる。いやらしい目的はなく、偶然目に入っただけかもしれないけど。
ハーブティーを運ばせるってのも、さりげなく部屋に呼ぶテクニック? 警戒心が強いのに部屋に呼ぶなんて、信頼をうかがわせる。口論に気づかないほどの遮音性を持つっぽい部屋。室内でヨロシクやっても気づかれない。
あれこれの光景を見る限り。納得、かも。
「もてあそばれるだけなんだから、気をつけな」
「お食事中よ」
チェシイさんの再三のとがめに、アムさんは苦い顔をして食事に戻る。
アムさんは完全に2人の関係を疑っているのかな? 不機嫌をほのめかす表情は、ふしだらな兄を思ってなのか、兄と関係を持つネルクを思ってなのか、母に怒られたせいなのか。
気にしていないかのように、チェシイさんは食事を続けている。ネルクさんとロベインさんの関係、気にしていないのかな。信じていないだけ?
「ロベイン様には、お夜食をお届けしているだけです」
ほほ笑むネルクさんの言葉は真実なのか。ライター精神が邪推を運んでしまう、いかんいかん。
「遅くまで働いて、ちゃんと眠れるんですか?」
邪推の罪悪もあって、ネルクさんに気づかいが漏れた。実際、ここまで働きづめだと本当に休めないのではと心配になる。
「兄様は遅いし、父様は早い……寝られてる?」
アムさんも心配を届けた。くるりと変わった表情に、ネルクさんに負の感情はないと察する。
家の人も心配するレベルなんて、本当にすさまじい過労?
「短時間熟睡タイプなので、ご心配には及びません」
『長くは寝れない』とだけは認めるんだ。仕事だけでなく、ロベインさんとのアレコレもあったり? いかん、邪推は終了!
「毎日ネルクを見てるけど。休日ってあるの?」
アムさんの問いに、ネルクさんは笑顔で返すだけだった。まさかの超苛酷労働環境!?
「使用人が複数いたら、ローテーションで回せるのに。ごめんなさいね」
ネルクさんの笑顔の返しは、静かなる怒気すら感じられる。いや、気のせいかもしれないけど。
「気晴らしに、一緒にお買物でも行こうよ!」
「荷物持ちでしたら、喜んで」
「肩肘、張らなくていいよ! 友達みたいなもんじゃん!」
明るく誘うアムさんを、チェシイさんは笑顔で見守っている。その間もするするとチェシイさんの胃に運ばれ続ける料理。追加注文した品も、いつの間にか姿を消している。意外によく食べる人なのかな。
「いっつもその服、着てるじゃん。もっとかわいい服、着なよ!」
うちも見たい! さすがに『ご一緒したい』とは言えないけど、ちらっと姿をかすめられたりしないかな。
ゆったりしたメイド服の上からも、スタイルのよさがうかがえる。どんな服でも、さらりと着こなすに違いない。身なりさえ整えたら、アムさんと並んでも遜色のない存在感を放てそう。みがいたら、主役殺し級に光る原石だよ、きっと。
「髪を切って、イメチェンもしたじゃん。この期に全身、やっちゃお!」
キラキラと語り続けるアムさん。ネルクさんに友達感覚の感情があるのかな。年齢の近い女性同士、距離が近くなるのは当然の結果かも? 2人に確執がなくてよかった。過労だけでなく人間関係の悩みまで抱えていたら、ネルクさんの手をひいて館から脱出したくなる。
「仕事着以外、着る予定はないので」
笑顔のまま返すネルクさんの言葉の奥に『休みがないから、私服を着る時間がない』とほのめかされたように思えた。ネルクさんも休みがないなら、他の2人も無休なのかな。大変だな。どうかお休みをあげて。
結局アムさんの誘いは、曖昧のまま終わった。次にターゲットにされたのはうちだった。『庶民の生活に興味がある』と詳細に聞かれて、少し新鮮な気分になれた。年頃の女性らしい話題を振られて、初対面の緊張を忘れさせるほどの交流ができた。
にぎわった会話と平行して、料理も空っぽになって。楽しさを満たした食事時間は終わった。全食器を空にしたチェシイさんの胃袋を意外に思うしかなかった。
ワゴンに片づけられる食器の中、いまだに手つかずの1人前。
「遅いわね。寝ちゃったのかしら」
アゴに手をそえて首をかしげるチェシイさん。アムさんは冷めた目を向ける。
「いなかったんだ。楽しい時間だと思った」
冷罵したアムさんは、優雅なステップで部屋を出た。チェシイさんがしかめたのには、当然気づかなかった。
「様子を見に、うかがいましょうか?」
片づけの手をとめて聞いたネルクさんに、チェシイさんは小さく首を横に振った。
「案内ついでに、わたしが見るわ」
「リーネス様のご案内なら、私がいたします」
「いいのよ。これ以上お仕事が増えたら、大変でしょう?」
さっきの話を気にしたのかな。メイドを気づかう姿勢を見せるなんて、チェシイさんはいい人だ。
雇われた身分からか、ネルクさんは逡巡をのぞかせた。ワゴンに詰まれた空き食器を横目に、鍵を出す。
「鍵をかけていることもあるので、お預けします」
手にしたチェシイさんに、ネルクさんは深々と頭をさげた。
「疲れたら言うのよ。マヌーには、わたしから伝えるわ」
「ありがとうございます」
チェシイさんの目配せに続いて、部屋を出た。置かれたままの自分の荷物を手にしようか迷った。大切な品はないし、ロベインさんの疑念がある。悪くはされないだろうし、置きっぱなしにする選択をした。
トイレとかの場所の案内をされながら歩く。トイレすら住めそうな広さだった。
通りすぎる扉の数も多くて、部屋の多さを物語る。ネルクさんだけで掃除するなんて、かなり大変だとしか思えない。チリ1つ見当たらないとは、ネルクさんの完璧な仕事がうかがえる。
仰ぐほどそびえる窓は、ガラスが入っているのかと疑うほどの透明感を放つ。ガラス越しに見える庭は、絵画のようにさえ見える。
外から見た際に思ったように、庭の見通しはいい。門の前で逡巡したうちの姿もよく見えたに違いない。
「庭の小屋って、なんですか?」
窓から見えた景色で、思い出した。
「物置よ。フレッソの道具があるの」
だからあの瞬間、小屋から出てきたんだ。物置にしては広すぎて、モノになりたいとすらよぎる。風呂トイレなしなのは残念だけど、住める。
しなやかな歩きに同行することしばらく。豪華な廊下にある扉をことごとく無視するチェシイさんに不安がよぎる。案内なのに、うちの泊まっていい部屋に一向に案内されない。もしや、忘れられた?
「こんな広いと、お手洗いに行くのも一苦労なのでは?」
うちを思い出してほしくて、声を張る。
「そうなのよ。夫はそれも倹約して、この状況なの」
忘れられてはいない。ぐーんと遠い部屋にでも案内されるのかな。この口ぶりだと、トイレは1個しかなかったりする? だったら、とても大変じゃん。ロベインさんではないけど、時は金なりの言葉を知るべきだよ。
「バーデの大声も嫌って、最も遠い部屋を選んだし……あの部屋から夫の部屋まで、10分以上かかるのよ。もうすぐつくから、待っていてね」
チェシイさんの言葉にひっかかりを覚えた。
「今、どちらに向かわれているんですか?」
「さっき言ったでしょう? 夫の部屋よ」
くすりと上品に言われたけど、笑いごとではない。態度に出てしまったのか、チェシイさんの動きがとまった。
「ごめんなさい。お部屋の案内、忘れていたわ」
ぽかんとした言葉に、言い返す精神はない。うちを部屋に案内して、1人で様子を見ようと思ったんだろうけど忘れた。結構、うっかりした人なのかな。
「帰りでいいかしら? すぐに済ませるわ」
「どうぞ」
そう言うからには、ここから遠いのかな? 心配にもなるけど、従うしかない。ボスを待たせるなんて恐れ多いこと、できやしない。
「ごめんなさいね」
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