十数年分をお気持ちで
目黒 照
第1話 もう好きにして
深夜0時、河原に停まっている白い車、ミニバンであるが、それはその当時「かっこいいパパ」が運転して家族をレジャーにつれていくといったようなイメージのCMを流し、またそういった層に人気の高い車種だった。
そのミニバンの中に男女2人。運転席の男は30代、助手席の女はそれより若く20代。女の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
女の胸ぐらでも掴むような勢いで、男は迫った。
「こういうものは俺は気持ちが悪くて仕方ない。趣味だかなんだか知らないけど、浮気のツールとしか思えないね!」
吐き捨てるように男が言った。その手には当時一般的だった薄くてスタイリッシュな携帯電話よりも、いささか大きめで分厚いタイプの白い携帯電話が握られていた。
女は何も答えず、うつむいた。鼻先に涙と鼻水の雫が下がった。
その携帯電話は、今でこそ珍しくもなくなったいわゆるスマートフォンだった。ただし当時はスマートフォンという呼び名は一般的ではなく、iPhoneだのAndroidだのが普及し始めるのは、この頃からはまだ何年か先の話であった。
2006年、このとき女は27歳、名前は井沢春子といった。男は34歳、滝圭一。
1年前からの不倫関係にあった。
車は、圭一と圭一の家族のものだ。春子はぼんやりと鼻水をシートにつけさえしなければいいだろうと考えていた。
春子の思考の的が圭一の言うことから外れているのは、何を圭一が怒っているのか、春子には自覚のないことだったからだ。
春子は子どもの頃からゲームやパソコンが好きだった。特別に詳しいわけではなかったが、この当時としては斬新な携帯型の情報端末が発売されたとき、無性に欲しくなってしまって、日頃はブランド品にも海外旅行にも関心のない自分へのたまのご褒美として購入することにしたのだった。春子の感覚でいえば浮気しようとか出会い系に使おうだとかいう魂胆なぞ、あろうはずもないことだった。
機能としては今のスマートフォンと同様、インターネットに接続することが出来、メールに添付されたファイルの閲覧や編集ができるといった、当時でもビジネスマンに歓迎されそうな機能を搭載していたが、圭一のほうはそういったツールに無関心で、インターネットにつながると聞いただけで胡散臭いと断じる程度の古臭さを、むしろ美学として持ち続けていた。
「メールはどこだよ」
圭一はうつむく春子の眼前にその電話を突きつけて言った。
春子は緩慢な動きで上半身を起こして、メールソフトを起動し、受信フォルダを開いて見せた。
圭一が十字ボタンでメールをひとつずつ遡っていく。疑わしいメールはないはずだった。メールをざっと見たあと
「アドレス帳は」
と続けて圭一が指図する。「友達くらいはいるけど、なんにもないよ」とようやく春子は口を開いたが、圭一は無視して携帯を突き出し、アドレス帳の開示を無言で求めた。それから春子自身に携帯を持たせて、アドレス帳を上から確認し、圭一の知らない異性の名をひとつずつ確認しては、春子の指で削除させていった。
圭一と春子の2人は仕事で知り合ったので、仕事の関係者であればその削除を免れた。
「小木 環」という名に圭一の目がとまった。「これは」と春子に問う。
「女の子だよ。年下の友達」嘘はなかった。
「芸名みたいだ、気持ち悪い。消せよ」と圭一が迫った。
「ほんとに女の子だよ、今もときどきご飯を食べにいったりする」
圭一は聞かなかった。
恫喝するような素振りを見せたので、春子は目を閉じて「消すから」と応じて、その同性の友人の連絡先も消した。
一連の作業は、友達の多くない春子のことなので、それほどの時間はかからなかった。しかし春子は激しい疲労感を覚えた。
一週間の仕事を終えたあと、深夜にこの状況で、圭一の詰問が一段落ついたのを察してぐったりと背もたれに倒れた。
圭一はパッと表情を変え、にこやかに笑った。
「いい子だったね、満足したよ」
そういって、春子の頭をなでた。しばらくなでていたかと思うと、圭一のもう片方の手は自分のベルトを外し始め、春子の頭をなでていた手でそのまま春子の顔を、己の股間へと導いた。
「もう好きにしてくれ」と春子は思った。
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