03話 宇宙観覧車

 朝起きたら、まずデジタル時計を眺める。それがルコの日課だ。ふたつ並んだ揃いの時計。ひとつは今ルコが生きている時間。もうひとつ、倍の速さを刻んでいる時計はラタオが生きている時間だ。並んだ時計を眺めるたび、ルコは複雑な気持ちになる。こうして、毎日彼に置いてきぼりにされていくのだ。

 どうして、移民船はふたつに分かれているのだろう。ルコは机のパソコンを起動させた。学校の授業で習ったが、もう一度おさらいしてみよう。



 人類が地球から移民船団GET2で旅立ったのは百年前。正しくは、116年前だ。移住に踏み切った大きな理由は、地球での生存が絶望的になったためだ。その原因はさらに百年前に遡る。


 地球上での人口が増え続けた人類は宇宙進出を目指し、衛星である月への移住を成功させる。当面の目的は、月面から産出する数々の資源を地球に送るためだった。

 月面には、資源を採掘して地球へ搬出するためのコロニーが作られ、やがて月で生まれ育った世代、いわゆる「月人類」と呼ばれる人々が現れた。その月人類はやがて地球に隷属することを嫌い、独立を願うようになる。その頃、月は資源を採掘し尽くしてはいたが、新たな宇宙進出への足掛かりとなる場所だったため、地球は月の独立を認めなかった。そして、ついに月と地球は独立を巡って戦争を始める。それが、地球・月間独立戦争。

 十年におよんだ戦争は、月の大破という最悪の結果に終わった。月が原形を留めないほどに破壊されたことで、地球にも大きな悪影響がもたらされた。安定した自転が保てず、地表や海面に異変が起き続けた地球は、人類が生存しにくい惑星となってしまった。

 そのため、人類は月が大破する5年前から他惑星への移住を見越し、移民船の建造を始めていた。それが、GET2である。


 GET2は、「第2の故郷を手に入れる」との願いを込めて名付けられた。地球から旅立ったGET2が収容した人数は500万人。地球にはおよそ7億人の人々が残された。GET2は駆動部の船と、2隻の居住船から成立している。移住先の惑星探査と研究・精査する人々が乗り込んだのがAクラスで、150万人。GET2の航行に携わる人々が乗り込んでいるのがBクラス。その数、350万人。

 移民船団に乗り組むにあたって、人々は永住権を買い取った。いわば、他惑星への「旅費」だ。Aクラスはひとり50万SG。Bクラスは10万SG。家族で乗り組むとなると人数分の費用が必要になる。GET2に乗れた人々は、クラスに限らずごくわずかの選ばれた人々だった。


 かくしてGET2は旅立った。GET2は地球の統治から離れ、移民政府を組織した。移民政府は移民法という法律の下、乗組員である移民を統治している。

 クラス間での移動は移民法によって厳しく制限されている。ごく一部の人々(そのほとんどが研究者やエンジニア)を除き、別クラスへの移動は原則禁止。これを破れば身柄を拘束され、最悪の場合、宇宙空間への「放出」として処刑される。これまでに、多くの人々が命を落としているのが現実だ。

 そして、あまりにも「不法移動」が多いことと、厳格なクラス分けのために移民たちの生体にも偏りが見られたため、人々の不満と生物的リスクを減らすために作られたのが、「開放エリア」だった。人々は、限られた時間を使って交流することができるようになったのだ。



 移民の歴史を読み返したルコの心に、いくつか腑に落ちないことがわだかまった。移民船にすべての人類が乗ることができないため、巨額の費用がかかったことはわかる。だが、乗りこんだ人々をどうしてここまで分け隔てるのだろう。


「ねぇ、父さん」

 その日の夕飯。ルコは疑問を父親にぶつけてみた。

「私って移民3世でしょう。GET2に最初に乗りこんだおじいちゃんやおばあちゃんはどんな人たちだったの?」

 これまでそんなことを尋ねてこなかった娘に、両親は目を丸くした。少し顔を見合わせ、父親は手にしたグラスをテーブルに戻した。

「ルコは覚えていないだろうな、小さかったから」

「おじいちゃんたちがお金を出してくれたおかげで、私たちは今Aクラスで暮らしているんでしょう」

 その言葉に母親の目の色が変わったことに、ルコは気づかなかった。父親は言葉を選びながら口を開いた。

「それは……、おじいちゃんはちょっと違うんだ」

「どういうこと?」

 父親はグラスのワインを呷ってから息をついた。

「父さんの父さんはな、惑星探査の研究者だったんだ。その功績で、おじいちゃんは招待という形で移民船に乗れたんだよ。もう結婚していたから、おばあちゃんと一緒にね」

「そうなの?」

 思いもよらない言葉にルコは甲高い声を上げ、母親を振り返る。

「お母さんは?」

 母親は微笑んで頷いた。

「お母さんのお父さんは自動車産業でがんばった人でね、財産があったの。だから、一家全員の永住権を買えたのよ」

「すごい!」

 またもや驚きの声を上げる娘に父親は笑いをこぼした。

「お母さんのお父さんは本当にすごいよ。色々事業を拡大して、地球の流通事情を変えたんだ。歴史に名を遺した人さ」

「でもね」

 声を落とした母親に、ルコは眉をひそめた。

「その自動車も、星間戦争のための物資輸送に使われたから残念だって言っていたわ」

 人類が移住を決断する原因となった地球・月間独立戦争。その戦争を支えた産業で財をなした祖父。それは決して望んだことではなかったが、結果的にその財産を使って特権階級として移民船に乗り込むことができた。ルコは、その恩恵として時間の流れがゆるやかなAクラスで暮らしている。

 そこで、ルコの胸に新たな疑問が生まれた。Bクラスの人々はどんな暮らしをしているのだろう。船団の航行を支えるため、労働者が多いと聞いている。ラタオは、日々どんな暮らしをしているのだろう。


 その日の夜。お風呂をすませ、自分の部屋へ戻ろうとしたルコは母親に呼び止められた。

「ルコ、この間また開放エリアに行ったみたいだけど、ユッカちゃんと行ったの?」

 ぎくり、と息を呑むルコ。母親はいぶかしむような表情ではない。いつものように、何かを問いかけるときと特に変わりはないように見える。ルコは顔を横に振った。それだけでも、ルコには勇気がいるものだった。

「ひとりで行ったの?」

 あいまいな表情で小さく頷き、低い声でつぶやく。

「……ラタオさんと、落ち合って」

 ルコの言葉に、母親は表情を変えなかった。

「前に、気分が悪くなった時に声をかけてくれた、あの人?」

 こくりと頷いてから、恐る恐る口を開く。

「……駄目?」

「ううん」

 母親は軽く肩をすくめた。

「ただ、ひとりなのかひとりじゃないのか、気になってね。何かあったら心配だし。あなた、出歩き慣れてないんだから」

 まるで世間知らずの子どもを心配するような言葉に思わずむっとなるが、反論できない。それに、母親の心配ももっともだ。

「ご迷惑おかけしないようにね」

「うん」


 部屋へ戻ってからも母親の言葉が胸に引っかかった。開放エリアで自分の知らない異性と過ごす娘が心配なのだろうか。ラタオとは次の開放日にまた会う約束をしている。

 なぜ?

 なぜ、また会う約束をしたのだろう。ルコの眼裏に、はにかんだ表情で約束を交わしたラタオの姿が浮かぶ。ひかえ目に、決して無理強いでなく、また会いたいと言ってくれるラタオにルコもまた、会いたくなる。どうしてだろう。

 そこへ、短い電子音。ルコはベッドから飛び起きると机のパソコンに飛びついた。


「やっほー、ルコちゃん」


 ラタオから呼びかけ。ルコは嬉しそうにキーを叩いた。


「こんばんは、ラタオさん」

「学校はどう? 勉強がんばってる?」

「今日でテスト週間が終わりました」

「テスト! テストなんてもう何年もやってないな! お疲れ様!」


 たわいない会話。だが、返ってくるまで5秒ほどかかる。会って話せばものの数分ですむ話題を、時間と文字数を使ってていねいに紡いでゆく。最初は戸惑ったが、今ではそのやりとりが少し楽しい。そうだ。疑問に思っていたことを聞いてみよう。


「ねぇ、ラタオさん。Bクラスってどんなところなの?」


 しばらくの沈黙。もう一度こちらから入力しようかと思いかけた時。


「うーん。俺もAクラスがどんなところか知らないから説明しにくいけど、開放エリアの雰囲気とはかなり違うよ」


 なるほど。開放エリアと比べれば想像しやすい。


「そうなんですか? 開放エリアはAクラスの雰囲気とあまり変わりません」

「ああ、そうなんだ。Bクラスはね、もっとごちゃごちゃした感じ。居住空間に対して人口が多いからね。建物ももっとぎゅうぎゅうだし。開放エリアみたいに綺麗じゃないよ」


 建物が多く、過密な人口。Aクラスと開放エリアしか知らないルコには想像できない。


「じゃあ、人がたくさんいるんですね」

「そうだね。だから、人が集まるイベントがたくさんあるよ。スポーツとか」

「どんなスポーツが人気なんですか」

「そうだね、フットボールとか、ベースボールとか……。でも、一番の人気はやっぱりアストロファイトさ」


 アストロファイト。これならルコも知っている。宇宙空間で繰り広げられる、戦闘機による疑似戦闘だ。

 GET2には、小惑星などの衝突や、他惑星の生命体からの攻撃といった危険を回避するために独自の防衛組織を持っている。そこから派生した娯楽がアストロファイトだ。全12チームによるリーグ戦が開催されており、試合の様子はGET2全域で中継されていることから、Aクラスでも人気は絶大だ。


「アストロファイト、Aクラスでも放送ありますよ。うちはあまり見ないけど……」

「荒っぽいスポーツだからね。でも、各チームのエースパイロットは文字通り英雄さ。ほら、スポーツ大臣のフラッカは元パイロットだからね。Bクラス出身だけど、スポーツ省に招聘という形でAクラスに移住できたんだ」


 移住。ルコは目を見開いてモニターににじり寄った。


「クラスの移住なんてできるんですか?」

「ごく一部だよ。よほど政府に貢献したエンジニアだとか、研究者だとか、文化人とか……。文化人はあまりいないかな」

「そうなんだ……」


 あんなに厳しい移民法が存在するのに、一握りの人々が移住を叶えている。それはきっと、BクラスからAクラス。その逆はないだろう。でもそれでは、いよいよBクラスが虐げられている証ではないか。ルコの祖父だって、研究者としての功績という「ご褒美」でAクラスに乗船できた。ルコの胸が、暗い叢雲で覆われてゆく。


「ところで、今度の開放日はどこに行きたい?」


 ぼんやりしていたルコは慌ててキーボードに向かう。


「この間天球儀ラジオでやってた観覧車に乗ってみたいです」

「ああ、やってたね。観覧車から流星が見えるってやつでしょ? いいよ、今度は観覧車ね」


 開放エリアの外部に設置された巨大観覧車。一昨年に完成して以来の人気を誇るが、今年は流星群の観測にうってつけということもあり、特に来場者を増やしているようだ。


「その日のチケット、予約しておくよ」

「はい、楽しみです!」


 翌日から、ルコは今まで以上にBクラスに関するニュースや歴史に注意を払うようになった。GET2が旅立ってから今日まで、AクラスとBクラスは互いにどんな歴史を刻んできたのか、もはや他人事ではなくなったのだ。

 毎日のニュースも、AクラスだけでなくBクラスの話題も目を通すようになった。アストロファイトの人気パイロット、ヤン・イェン・ヴェッガが今季30勝目。そんなニュースは今まで目にすることもなかった。


 そうして、楽しみにしていた開放日の前夜。ルコはクローゼットから洋服を引っ張り出し、何を着て行くかあれこれ悩んでいた。そんな時。

パソコンから呼び出し音。待ち合わせの時間と場所だろうか。ルコはいそいそと机に向かった。


「ルコちゃん」

「こんばんは! 明日の時間ですか?」


 数秒間の沈黙。そして、


「ううん、ごめん。違うんだ。悪いけど、明日は行けそうにないんだ」


 一瞬、なんのことかわからなかった。行けそうにない。どういうこと? ルコが呆然とモニターを見つめていると、再び文字列が画面に綴られてゆく。


「本当にごめん。今日、物資運搬用エレベータの事故があって、けっこうひどいんだ。しばらくずっと現場にいると思う」


 エレベータ。事故。現場。大事なはずの言葉だが、ルコは歪めた顔を両手で覆い隠した。


「ルコちゃん、ごめん、見てる?」


 しばらく頭を抱えたまま息を押し殺していたルコは、ようやく大きく溜息をついた。


「楽しみにしてたのに」


 その一言だけを打つ。返信はなかなかこない。ルコは感情に任せてキーを叩いた。


「また1カ月待たなきゃならないなんて」


 そして、顔に手をやって目尻に涙がにじんでいることに気付く。と、返信の音が。


「俺も残念だよ。俺は、2カ月待たなきゃならない」


 あっ、と思わず声を漏らす。自分は1カ月待てばいいが、ラタオは2か月待たなければならないのだ。ルコは頬が紅潮してゆくのを感じ、慌てて指先をキーボードに伸ばす。


「ごめんなさい。ちょっとびっくりして、ごめんなさい」


 なんて謝ればいいのだろう。どうしよう。そんなことで頭がいっぱいのルコの瞳に、再びラタオから返信が。


「こっちこそ、本当にごめんね。ルコちゃんがせっかく楽しみにしてくれていたのに。次会うときは、ルコちゃんの好きな紅茶と美味しいケーキをご馳走するよ」


 ラタオの微笑が目に浮かぶ。本当に、どこまで優しい人なんだろう。それに比べて、自分は。


「本当にごめんなさい。私、自分のことしか考えてなくて……」

「ううん。突然のことだもん。驚くのは当然だよ」

「お仕事、気をつけてくださいね」

「うん、ありがとう」


 そんなわけで、翌日出かける予定がなくなったルコは家にこもっていた。

 せっかくラタオと一緒に観覧車に乗れると思っていたのに。いろんな話を聞かせてくれるラタオと過ごす時間が待ち遠しかった。学校で聞いたあの話やこの話もしたかった。また一カ月、待たないと。

 くさくさした気分でパソコンのニュースサイトを眺めた、その時だった。

「Bクラス物資運搬用エレベータ、駆動船側で炎上。2日間経った今も鎮火できず」

 ニュースの見出しに椅子を蹴って立ち上がる。同時に、激しい炎を上げるエレベータの映像も流れる。この現場にラタオが? こんな激しい炎上の場所に?

 思わず、携帯端末シェルを手にしたルコは迷わず発信ボタンをタップした。瞳には、鮮やかな炎が舐めるようにして映る。しばらく繰り返される呼び出し音が止まる。

「もしもし?」

 端末の画面に、ラタオの顔が映し出される。が、すぐに画像は乱れ、ノイズが走る。

「ラタオさん!」

「ルコちゃん?」

 画像は途切れがちだが、ラタオの驚いた表情がわかる。

「大丈夫ですか? 今、今、ニュース見て……、火事が……!」

 両手で端末を握りしめ、悲鳴のように呼びかける。「受信困難」という文字が一瞬表示されるが、再びモザイクのように乱れたラタオの顔が映る。

「ああ、こっちのニュースはちょっと遅い表示のはずだよ。大丈夫、エレベータの火事はもうおさまったよ」

「本当に?」

 ノイズと共にラタオの笑い声が耳に入る。

「ごめんね、心配かけちゃって。もう大丈夫だよ。じゃあ、仕事中だから切るよ」

 仕事中。ああ、そうだ。何も考えずにヴィジフォンをかけてしまった。

「ごめんなさい、お仕事中に……」

「また夜に連絡するよ。ありがとね」

 笑顔で手を振るラタオを最後に、通信が途絶える。ルコは溜め込んでいた息を吐き出した。


 それから、1カ月。

 エレベータ事故の後も、ラタオとは変わらぬ調子でチャットを続けている。だが、ルコは不安でしかたがなかった。本当は怒っているんじゃないのか。子どもじみた自分に呆れているんじゃないのか。チャットルームでのラタオの文章は、いつもと変わらない。それでも、ルコは落ち着いてチャットを楽しむ余裕などなかった。

 開放エリアへ続く軌道エレベータで、ルコはそわそわと目を泳がせながら佇んでいた。待ち遠しいはずの開放日も、怖かった。これから会うラタオは、今までどおり優しいラタオなのか。

 そんな思いを巡らせるルコを乗せた軌道エレベータは、やがて開放エリアゲートに到着した。扉が開き、人の波が続々と外へと流れてゆく中、ルコはゆっくりと歩みを進める。早く会いたい。でも、どんな顔をして会えばいいのだろう。うつむき、気を揉みながらとぼとぼと歩むルコに、

「ルコちゃん!」

 なつかしい声。その声は、それまでの不安をあっさりと打ち消してしまった。ルコの顔に笑みが咲く。

「ラタオさん!」

 顔を上げて駆け出す。

「や、久しぶり!」

 相変わらずの人懐っこい笑顔が弾ける。が、ルコはつんのめりながら立ち止まり、目を丸くして相手を穴が開くほど凝視した。

「……ルコちゃん?」

 ラタオの方も不思議そうに首を傾げるが、すぐに気づいて苦笑いを浮かべる。

「……ごめん、太ったんだ」

 そう言って自分の両頬をつつく。ルコは少し顔を赤くして顔を振る。

「そ、そんなこと、ないです」

「またまたぁ! 3キロ太ったんだ。まいったよ」

 元々細身だったラタオが3キロ増とは大きいだろう。明らかに丸くなった頬が物語っている。

「どうしたんですか……?」

 眉をひそめながら尋ねると、ラタオは溜息をついて頭を掻いた。

「うーん、あの事故のせいで生活が不規則になったからなぁ」

「ああ……」

 やはり、日々の暮らしにも影響があったのか。だが、遠くを見るような眼差しでさらに言葉を継ぐ。

「あと、飯が美味くなったからかなぁ」

 ぎくり、とルコは身を固くした。そして、唾を飲みこむとおそるおそる問いかける。

「ご飯……、作ってくれる人がいるんですか……?」

「いるよ」

 頭をひっぱたかれるような衝撃。しかし、動揺するルコは手をぎゅっと掴まれた。

「寮のおばちゃんだよ!」

「えっ」

「へへ、びっくりした?」

 そんな。顔を真っ赤にするルコに笑い声を上げると、ラタオは手を引いて歩き出す。

「さ、急ごう! 待ちに待った観覧車だ!」

 変わらないラタオに、ルコはほっと胸をなで下ろすと同時に、不思議な高鳴りに口をつぐむ。なんだろう、この締めつけられるような感触は。


 観覧車は行列ができていたが、ラタオが予約を取り直してくれていたおかげで、ほとんど待つことなくゴンドラに乗り込むことができた。

 ゴンドラは完全に貸し切りで、大きな窓から宇宙を眺めることができる。ほどよく体の沈む極上のソファがしつらえてあり、ふたりは並んで星の海を眺めた。確かに、これはぜいたくな時間を過ごせる。

「今年は流星群の当たり年だってね。よく見えるらしいよ」

 言われてルコは身を乗り出して星空に目をこらすが、星々が小さく瞬くだけで、流れ星など見えない。

「……わかんない」

「あはは、気長に待たなきゃね」

 そう言って、ラタオは持ち込んだジュースで喉を潤した。ゴンドラには、優しい音楽が静かに流れている。ルコは、隣に座るラタオをちらりと見上げた。横顔を見ると、太ってしまったのが余計にわかりやすいが、優しい表情は変わりがない。

「……ラタオさん」

「ん?」

 首を巡らして振り返る。

「……この間はごめんなさい。私、子どもみたいにわがままで……」

 か細い声でぼそぼそとつぶやくルコに、ラタオは表情を崩した。

「大丈夫だよ。ルコちゃんも仕事を始めたらわかると思うけどさ。今はまだ働いてないからわからなくて当然だよ」

 そう言って大きな手で頭をぽんぽんと叩かれる。ラタオにとって自分はやはり子どもなのだ。世間知らずの、箱入り娘でしかない。どうしたら、大人になれるのだろう。ルコは泣き出したい思いに駆られて目を伏せた。

「あっ」

 不意に上がる声。

「流れ星」

「えっ」

 ルコは慌てて顔を上げると窓に両手を突く。

「どこ、どこ」

 無限に広がる星の海に眼差しをさまよわせていると。右手を取られる。振り向くと、目の前にラタオの顔が。声を上げる間もなく、覆いかぶさるようにして唇と唇が重なった。

 静かな音楽と、どこまでも広がる星の海に囲まれた空間で、時間が止まる。

 永遠のような時間も、ほんの数秒。温かな唇が離れると同時にルコの口から言葉にならない悲鳴が上がる。

「えっ……! え、えっ……!」

 パニック状態で体を震わせるルコにラタオが慌てる。

「ご、ごめん、ルコちゃん、びっくりさせちゃった、ごめん……!」

 思わずルコの両手を握りしめ、必死に謝る。ラタオの真剣な表情にいくらか落ち着くが、それでもしゃくり上げるようにして涙が溢れる。

「ごめん、落ち着いて、ルコちゃん、ごめん」

 ぎゅっと抱きしめられ、大きな手が背をなでる。その懐かしい感触に、ルコはなんとか大きく深呼吸をくりかえす。

「……ら、ラタオ、さん……」

「いいよ、無理しないで」

 そう言って背を優しく叩く。その仕草のひとつひとつが愛おしい。取り乱していたはずのルコは、少しずつ温かな気持ちで胸が満たされていく。

「……ラタオさん?」

「うん」

 涙で曇る視界。何度か目を瞬かせる。

「……どうして……」

「……うん」

 深く長い溜息が聞こえる。

「……俺、ルコちゃんのこと、好きになっちゃったから、さ」

 その言葉を耳にした瞬間、ようやく気づいた。そう、自分もラタオが好きだ。ルコは両手をラタオの背に回した。思いっきり、力を込めてみる。ラタオが微笑むのがわかった。

「……こんなおじさんで、本当にごめんね」

 黙って顔を振ると、ラタオはそっと体を離した。温もりが離れていくことに不安になって、思わず袖をぎゅうと握りしめる。その手に自らの手を重ね、ラタオは優しく微笑んだ。が、急に頬を紅潮させると声をひそめてささやく。

「あ……、えっと、口、臭わなかった?」

 ルコは顔を振った。

「ううん」

「そか、よかった」

 ほっとした様子でつぶやくラタオに首を傾げる。彼は照れくさそうに頭を掻いた。

「タバコ、止めた甲斐があったよ」

 あっと声を上げる。そういえば、今日は一度もタバコを吸う姿を見ていない。

「どうして……」

 ラタオは苦笑いを浮かべながらルコの頭をなでた。

「キスした時、嫌われたくないじゃん」

 顔が赤くなっていくのがわかる。思わずしがみつくルコを、ラタオは嬉しそうに抱きしめた。


「じゃあ、また次の開放日にね」

 軌道エレベータゲートでラタオにそう声をかけられ、ルコははにかんで頷いた。

「お仕事、気をつけて」

「うん、ありがとう」

 丸くなった顔でにっこりと微笑んで手を振るラタオに、ルコも手を振り返す。ゲートをくぐるまで、何度も振り返るたび、ラタオは手を振ってくれた。

 初めての経験。この開放エリアで、ルコは様々な経験を重ねてきた。こうして大人になっていくんだろうか。どんな大人に? 素敵な大人になりたい。そうして、ずっとラタオと一緒にいるんだ。ルコは弾む胸を抑えながら、エレベータでAクラスへと向かった。

 Aクラスに帰り着いたのはもう夕方。急いで帰らなきゃ。ルコは走ってリニアモーターカーに乗りこんだ。車両のモニターにニュースが流れているのが見える。何気なく眺めていたルコだったが、思わず「えっ」と声を上げる。


【Bクラス時間昨日午後10時、アストロファイトの人気パイロット、ヤン・イェン・ヴェッガ選手が船外離脱。現在も捜索が行われています。移民法監察局は競技関係者に事情聴取を行っております。船外離脱が事故ではなく故意の場合、最低でも10年以上の禁固刑、最悪の場合は放出刑が執行されます……】

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