第3話
タバコの煙から生まれた、一体の異形。
纏う羽織は毒々しく、けれど紫陽花の花弁のように鮮やかな紫。
素顔を覆い隠してしまうほど長い髪は、奈落の底を覗き込んだような黒。
刃毀れした日本刀を黒兎に手渡したその女は、
「――『
と彼女に呼ばれていた。
「お前、それ、一体……?」
目の前の光景は、不可思議さという点では明らかにこれまでの騒動より頭一つ分跳びぬけている。
この国のために赤丸太一の命が狙われているという事実が、まだ現実的に聞こえるほどだ。
助けてくれた黒兎からすらも距離を取ろうとする太一に、彼女は静かにこういった。
「タバコの煙には、化物が潜んでいる。それを
自己紹介が遅れたわね、と黒兎は肩越しに太一の方を振り返り、
「私は
言葉と同時、千ヶ崎が再び黒兎――若葉に向かって切りかかってくるが、彼女はそれを風になびく衣のように躱し、彼の喉笛に向かって突きを繰り出す。再び金属音。しかし今回は響く以上に、轟いた。
刃の腹で若葉の切っ先を受け止めた千ヶ崎は、それを力任せに押し退けて彼女の体勢を崩す。
ぐらりと、後ろへ倒れかかる若葉を縦に斬り裂くように千ヶ崎は切り上げたが、彼女は倒れようとする勢いに体重を乗せてスレスレでその一撃を躱した――だけでなく、刀を持つ右腕は同時に振り上げられており、引っかくように千ヶ崎の右目を掠め取った。
「づあッ⁉」
千ヶ崎が右目の血を拭い切るより早く、若葉は体勢を立て直し、次の斬撃を放つ。
横一閃――居合いのように一瞬にして必殺のその煌きは、千ヶ崎の体を半分に断ち切る。
「ッ⁉」
しかし、浅い。寸前で千ヶ崎が飛び退いたために、若葉の剣先は精々ベルトの金具を掻き切った程度であろう。
実際千ヶ崎は、若葉から離れた位置でカチャカチャと腰の辺りを気にしている。
「いけませんねぇ、ベルトが壊れてしまった。今後の業務に支障がでる。少し手早く済ませますよ」
「ハッ、片目潰されて何言ってんのアンタ」
その言葉通り、今優位に立っているのは若葉だ。右目を切られてからの千ヶ崎の動きは明らかに動きが鈍い。
「ええだから、そんな時こそ『破魔十字』」
言って千ヶ崎が取り出したのは、『灰祓い』の証と言っていつか太一に見せた十字架だった。
「肉体強化ができるのは貴女たち吸う者だけだとでも? それは吸わぬ者にとっても同じ話。なぜなら私たち灰祓いは、貴女たち喫魔師を殺すために生まれたのだから」
聖職者のように、千ヶ崎は破魔十字を胸元に寄せ、静かに祈る。
「我、灰と煙を祓う者なり」
直後、若葉の体を千ヶ崎の剣が貫いていた。
「……え?」
速過ぎて、唐突過ぎて、貫かれた若葉ですらも何が起こっているのか分からないのだろう。不思議そうに、自分の腹から零れ落ちる血を見つめている。
「出力七十%。少し、やり過ぎてしまいましたかね」
対して千ヶ崎はなんでもないかのように若葉から剣を抜き、刃にこびり付いた血をハンカチで拭う。
「さぁそれでは、次こそ君です」
いよいよその切っ先が、太一の方を向いた。
(何が、起きた……? 今の一瞬で、アイツは何をした?)
見えている光景を、まるで写真のように差し替えられたような唐突感。それほどまでに千ヶ崎の『速さ』は常軌を逸していた。
(アイツが何かを呟いたところまでは見えていた。だがそっから先――アイツがどうやって若葉に接近して、どういう風に、どの方向から、どれだけの強さで貫いたのか全く分からなかった)
切っ先を向けられているというのに、太一は一歩も動くことができなかった。
逃げるにせよ立ち向かうにせよ諦めるにせよ、自分が何かカードを切ることで、本当の意味で千ヶ崎との戦いが始まってしまいそうだったから。
手札全てが一撃必殺の切り札である千ヶ崎を前にして太一が生き延びる方法など、戦いを始めないということのみ。
(ど、どうすりゃいい……)
若葉にはもう頼れない。ぐったりと倒れていて、生きているかどうかも怪しい状態だ。
逃げ道はない。背後は壁。大通りに出る道は、千ヶ崎によって塞がれている。
諦めることは――できない。
(こんなところで、何の意味も分からないまま死んでられっかよ‼)
策がないわけではなかった。
ヒントは、若葉がしていたこと。
(タバコを吸う。そうすれば俺も、アイツと戦うことができるかもしれない)
若葉はタバコを吸うことで化物を生み出し、千ヶ崎と対等に戦っていた。それなら太一にだって喫魔師とやらになれる可能性だってあるかもしれない。幸いタバコとライターはポケットに入っている。
「おや? 君も喫煙者ですか? いけませんね。灰祓いとして、またあなたを殺さねばならない理由が増えてしまいました」
太一が取り出したタバコとライターを見て、千ヶ崎は呑気にそんなことを言った。
タバコなんてこれまで一度も吸ったことがない。それでも見よう見真似でタバコに火を灯し、煙を――、
「いけませんったら、もう」
――吸おうとした瞬間、千ヶ崎が眼前まで迫っていた。
視界の隅では、剣を振り抜こうと腕に力が込めているのが見える。
躱さねば死ぬ。危機感はあるはずなのに、体は一向に動かない。それだけなく視界は真っ白に染まり、眼前の千ヶ崎の姿でさえも見えなくなってしまう。
(くそっ、速い上に姿も見えなくなっちまえばもう為す術ねぇぞ‼)
視覚が使いものにならなくなったためか、聴覚がここぞとばかりに敏感になる。
聞こえるのは、何か重たい物が落ちるような音。
それと、にじり寄るような足音。
そして、獣のような、唸り声。
「――何?」
そこで漸く太一は、周囲と、自分自身の異変に気付いた。
自分自身の異変とは、まだ自分が生きているということ。あれだけ千ヶ崎に距離を詰められておいて、まだ傷一つ付けられていないなんておかしい。
そして、周囲の異変――その肝心の千ヶ崎の気配が全くしないということ。
今もなお眼前にいるならば、彼の張りつめたような殺気や息づかいが感じられるはずなのに、それが全くない。
(距離を取った?)
それでも彼の殺気は感じられるはず。
それに、あそこまで標的を追い詰めていた彼が、今更距離を取る必要なんてない。
――千ヶ崎は一体どこへ?
いくら耳を澄ましても、聞こえるのは獣の唸り声くらい。
そう、獣が、この近くにいる。
「――ッ⁉」
突如、咆哮。
ただの音と思うなかれ。
突き詰めればそれは空気を揺るがす振動であり、極端に言えばそれは衝撃だ。
その化け物じみた咆哮は、まさに爆風のごとき凄まじい勢いで周囲を覆う白煙を押しのけ、ビルに亀裂を走らせ、その圧倒的威圧感で太一の動きを止めた。
危機的状況で不意に訪れた、静寂。
動く者はいない。
声を発する者も、いない。
だが例外的にその両者となることを許されていたのは、白銀に輝く一匹の狼。
狼と言っても、それは図鑑に載っているものとはかなり違っていた。大きさは馬と同じくらいで、まさに大狼と呼ぶに相応しい。しかし尾は妖狐の如く九つに分かれており、銀色に輝く毛皮と相まって奇怪さよりも神秘さの方が目立つ。
半狼半狐の異形。
その足元には、首から大量の血を流す千ヶ崎が倒れていた。太一が白煙の中で聞いた重い物が落ちるようなあの音は、恐らく千ヶ崎があの狼に倒された時のものだったのだろう。
「これが、煙魔……」
あの千ヶ崎をこんな一瞬で殺してしまうとは……。頼もしさと同時に、太一は何か開けてはいけない箱を開けてしまったような不安に駆られて、狼を元の煙に戻そうとする。
若葉の話によれば、煙魔はタバコの煙から現れる化物だということだ。 そしてあの銀色の狼は、太一の持つタバコの煙が発端ということになる。
「どうすれば、元に戻せるんだ?」
戦う敵がいなくなった以上、まさかこのまま出しておくというわけにもいかないだろう。タバコでも差し出せば勝手に戻ってくれるかと思い、太一は火の点いたタバコを狼に差し出すと、
「舐めるなよ小僧」
何かが脇を駆け抜けた。
それは風のように速く。
そうかと思えば、カマイタチのように鋭く太一の体を斬り刻んでいった。
「――え?」
右脇腹――気づけばそこから大量の血が噴き出している。
(一体何が……)
千ヶ崎かと思ったが、彼は依然として地面に横たわっている。
いないのは、あの銀色の狼。
痛い痛くないの前に、神経が全てなくなってしまったかのように体が思うように動いてくれない。
振り返ればあの狼がいるはずなのに、
「貴様程度に喫まれるほど、儂の力は衰えておらん」
太一は相対すことすらできずに、狼の前に倒れ伏してしまった。
★★★
「――『死ニ染メ紫』」
そう呟くと、若葉が燻らせていた煙は右手へと集まって、やがて一振りの日本刀へと姿を変える。更に煙草を口に当ててから煙を吐き出すと、今度は若葉の背後へと集まり、素顔を覆う程長い黒髪を持った女へと変貌した。
「なんとか、一命を取り留めたってことかしら」
太一が時間を稼いでくれていた間に、若葉は千ヶ崎にやられた怪我を辛うじて治すことができていた。と言っても、止血程度の応急処置ではあったが。
「灰祓いにやられてしまうなんてなんて情けない。こんな主人いっそ殺してもっと強い人のところにいこうかしら」
その恐ろし気な風貌に違わず女の声には残忍な嗜虐性が漂うが、若葉は特に意に介すことなく周囲を見回した。
「最悪の状況ね」
結果的に千ヶ崎という脅威を取り除くことはできたものの、そのための代償が大きすぎる。
あの狼は、千ヶ崎とは比べ物にならないくらいの脅威だ。
(赤丸太一は……やられたようね。千ヶ崎にやられたか、それともあの狼に――)
やれ煙魔の中では最強だの、やれ吸う者吸わぬ者構わず殺す害獣だの、その悪名にかけては並ぶ者はいない。
何故このタイミングでこの場所に現れたのか。考えれば考えるほど、不幸という言葉に行き着く。
(それとも懐かしい気配を感じたのかしら?)
ともかくここは銀九狼をいなし、逃げねばならないだろう。太一もまだ辛うじて息はあるかもしれないから、彼も連れて行かなければ。
主人の決意を察したのか、背後霊のように漂う紫は、彼女の後ろから覆いかぶさるように日本刀を上から握りしめた。
「噂をすれば何とやらね。ほら来たわ、お目当てのものが」
紫がそう言った瞬間だった。再び咆哮が轟き、辺りを覆っていた白煙が薙ぎ払われる。
「あら久しぶり、銀九狼」
空気を読めないのか、それとも読むつもりがないのか、紫が親し気に声をかけても、銀九狼が応じる様子はない。
「無駄よ紫、アイツに理性なんて残っていない」
若葉の言葉に、つまらないわと紫は早々に会話を諦め、
「で、どうするの? 殺すにせよ弱らせるにせよ、かなり一苦労するわよ」
「そうね、まずは足を奪う。右足の腱から――」
言い切る前に、既に目の前から銀九狼の姿は消えていた。
「しまッ――」
やられたか。思わず若葉は自らの脇腹を見下ろすが、意外なことにそこは無傷で、首筋に手をやっても気味の悪い温もりは感じられなかった。
――なら、どこに?
ふと振り返る。
しかしそうしながらも、まさかと若葉は否定し続けていた。
(さっきまで私に意識を集中させていた銀九狼が、こんなにも早く赤丸太一へと照準を切り替えられるはずがない)
だが、その予測は、的中する。
「赤丸太一ッ‼」
若葉を素通りした銀九狼は、倒れ伏す赤丸へと接近していた。
そしてその足元には、真っ赤な液体がまるで水たまりのように薄くゆっくりと広がっている。
(やられる……、銀九狼に殺されてしまうッ‼)
太一の命を危機を確信した、その時だった。
銀九狼の足元から、か細い腕が伸びた。
それは少女のように白く、この状況を打開してくれるようには思えない頼りのない腕であったが、その手には、一本の煙草。
今にも燃え尽きそうなほど短くなったその煙草を銀九狼の足へと押し付けてみれば、
「ッ⁉」
銀九狼の体がたちまち揺らぎ、一瞬にして煙草へと吸い込まれていくではないか。
そして煙へと姿を変えた銀九狼が行き着く先は、
「もしかして――」
床に倒れてはいるが、銀九狼を捉えた煙草を持った腕はかろうじて動かせるようで、
「彼は、銀九狼を
だらりと、太一は右手を口元へと寄せる。
直後、彼の胸が一度、深呼吸するかのようにゆっくりと上下した。瞬間、隅に追いやられていた煙までもが銀九狼と共に太一の体内へと吸い込まれていく。
轟々と、そのあまりの勢いに太一を中心に白煙の渦ができた。
「赤丸太一ッ⁉」
四方八方が白濁色に染まり、自分の手元でさえも見えにくくなる。
『魔』を『喫む』者を喫魔師というだけあって、喫煙者から喫魔師へと移り変わる時というのは、煙魔をタバコの煙のように喫んだ瞬間である。
それは煙魔にとってはその人間の使い魔になるかどうかという、自由と隷属の瀬戸際であるために、決まって壮絶な光景となるものであるが、こんなのは初めてだ。
一度にこんな大量の煙を吸えば太一の体がもたないのではと若葉が焦り始めると、一瞬、白く渦巻いていた彼女の視界が明瞭に変わる。
それはあまりに唐突な出来事で、まさか時が止まってしまったのではないかと錯覚してしまうほどであったが、またすぐに視界は白濁色へと染まってしまった。
(今のは、一体……?)
衰えを知らず、ましてや更に勢いを増していく白煙の渦を掻き消したのは、またしても銀九狼の咆哮だった。
「ぐあッ‼」
煙と一緒に若葉の体も吹き飛ばされるが、しかし今度こそ視界は開ける。
「銀九狼と、彼は――?」
周囲を見渡せば、倒れ伏す太一と、それを見下ろす銀九狼。
「くそッ‼」
若葉は血が滲むほど強く唇を噛んだ。
太一は銀九狼を喫み込めなかった。もしもうまくいっていれば、次に銀九狼が姿を現すのは、太一が新しく煙草を吸い始める時だからだ。
今の銀九狼は正気じゃない。太一に近づけるのは危険だと若葉は紫に協力を呼びかけるが、気づけば背後にいたはずの彼女はどこかに消えていた。新しく煙草を吸えばまた出てくると若葉はポケットを漁るが、どうやらさっき吹き飛ばされた拍子にどこかに落としてしまったらしい。
「そんな……」
若葉の手持ちの煙草は、ゼロ本。
煙草を吸っていなければ、所詮彼女もただの人間。
「――小僧」
歯噛みする若葉をよそに、唐突に銀九狼は言葉を発した。
その声は低く、まるで唸るようで、
「貴様一体、何者だ」
気を失っているのか、それとももう死んだのか、太一は何も言わない。
結局銀九狼にとってはそんな問いも、彼の生き死にさえも取るに足らないことなのか、これ以上暴れることなく、風に吹かれる煙のように、静かに消えた。
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